2022.07.04 Monday
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tamalogOutput and input from 1998 to 2010
2009.12.02 Wednesday
日本は急激に変化するしかないんだよ
京都亀岡のアレックス・カーの自宅「矢田天満宮」にて。現代の青い目の文人は、さっきタイから関空に着いて、明日はもう東京に行くそうな。カレル・ヴァン・ウォルフレンに会いに行くんだとか。そんなところで、現在の日本の状況をどんなふうに見てるの?っていうインタビューになったのでした。 しかし、なんてエキサイティングな一日だったんだろう。確かに歴史史観的に見ても民族文化的に見てもそうなるのか!日本を外から見てる立場から言われたらもうなにもいえない。 -- Q.ここ数ヶ月、日本で大規模な変化が訪れているような気がします。 アレックス: そうだね。明日東京でジャーナリストのウォルフレンに会うんだけれど、ほら「日本/権力構造の謎」っていう本を書いた人いるでしょう。彼がいうには、アメリカではオバマは失敗するでしょう。イデオロギーと戦わなければならない。だけど日本の自民党はそういうイデオロギーとか宗教とか、そういうの無いからね。だから日本の民主党は成功するんじゃないですか。オバマは可哀想に、宗教とかイデオロギーとか、そういう論議と戦わなきゃいけないからね 日本は昔から、変化するときは急激に変化するしかない。明治維新のときのように。パッと変わると日本は速い。パッと変わることしかできないんだよ。 Q.ものすごいスピードで民主党による変化が起きているように思うのですが。 アレックス: スピーディーであることを、恐れる必要はなにも無いよ。もともと「あたりまえ」だったことが起きているだけだ。日本のシステムは網の目が細かいから、少しづつ変えるわけにいかないんだよ。網の目っていうのは、江戸時代にしたって士農工商から、細かい階級制度が、びしっとできている。武士の階級の中でも、何百石、何十石、礼儀作法からしっかりできてますね。だから一気に崩れるしかないんだよ。 明治以来の官僚政治が変わるしかないよ。民主党はほんのはじまり。日本の悪い面いい面もいろいろあるけれど、(西洋思想でいうところの)イデオロギーだとか宗教だとか、そういうものが昔も今もないんです。日本にはシステムしか存在しないんです。 Q.日本は基本的にからっぽなんですね アレックス: そう。アメリカの場合は少しづつ自然に変わってきたから、というか少しづつ変わるしかないわけよ。オバマの場合は、キリスト教的な、右翼的な考え方と、少しづつ戦うしかない。だから、今回(大統領就任に対しての期待が大きかったから)アメリカ人は失望している人が多いんですよ。 日本は中身がゼロだから、自民党は王座から落ちた瞬間ゼロですよ。日本は、社会党だって公明党だって、中身はナッシング。あんなに重い山のようなものが、ぱっと泡のように消えていくのが、ほんとこれは日本の不思議なところですね。自民党は60年、江戸幕府は260年ですよ。日本のシステムっていうのは、その時がくると、意外な速さでパッといなくなっちゃう。ウォルフレンの言っていることは、ある意味正しいかもしれないね。日本に民主党はタイミングが良かった。時代をつかんでしまった、と僕は思いますね。 アメリカはなだらかな直線で変わっていく。日本はずうっと止まっているかと思ったら、あるとき瞬間的に突然変化して、また安定的な横線になって、また何十年か何百年かすると突然変化する。そこのタイミングが日本の民主党だったんだねえ Q.アレックスさんの立ち位置とスタンスについて アレックス: 僕はウォルフレンのように、日本はこうならなきゃいけない。こうした方がいいってことはスタンスとして言わない。今、日本はこうなってるんだよ。だから、あとは自分たちで考えましょう。 結局僕は外国人だから、そこはものすごくものすごく気をつけて本を書いている。「犬と鬼」も、こんなに日本のことを厳しく書いた本はないけど、僕は非難されたりってことがないのは、そういう、こうした方がいいっていうような言い方をしてこなかったからだと思う。まぁ、そんなことを言っていると鬼が笑うから気をつけなきゃね。笑 『人の一生は重荷を負うて、遠き道をゆくが如し急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし』って、徳川家康の遺言があるでしょう。 ウォルフレンは大変だったんだ。外務省にたたかれ、あっちからたたかれってね。伝統文化にしてもなんにしても、いままでの解釈と違うことを言うと、結局外国人だっていう立場だから、そこはものすごく気をつけなきゃならない。 -- 外から見ている人間は、現状を説明するだけで、どうするべきとは言わないというのは、僕の立ち位置を今後どうしていくかということにおいて、大変明確な指針になるなぁと思う。 それにしても!なんていいタイミングでNHKで「坂の上の雲」がやってるなー、と。司馬遼太郎の原作に書かれている言葉をナレーションしている渡辺謙の声を聞いていると、これからの時代と被って見えてきて、涙がでてくる。 -- 2008.12.09 亀岡天満宮 http://tamachan.jugem.jp/?eid=492 2009.07.22 「夢」の中に住む http://tamachan.jugem.jp/?eid=600 2009.05.11 Monday
九谷陶芸界の頂点
竹画家の八十山和代さんに連れられて、石川県小松市にて「発見」しました。今回連れていってもらった窯元の中でも本物中の本物。北出不二雄さん。90歳。元金沢美術工芸大学学長で、作家であり教育者だ。 元々見に行きたかった作家さんには会えなかったけれど、もっと凄いものを見てしまった。まぎれもない「本物」を作っている人だ。北出不二雄でgoogle検索しても、あまりまともに作品が出てこないから、紹介のし甲斐があるもんだ。 北出さんの作品には、青を使ったものが多い。青は色相環の中でも最も多い幅を占める色なのだが、北出さんはこれを沖縄での修業時代に沖縄の海から会得したものだという。「デザインからデザインを起こすのではなく、写生をして現実のものからデザインを作る」のだそうだ。やはり自然から獲得するのだ。 続きに11点の写真があります。 2009.05.08 Friday
写真日記 4月26日 庵プロジェクト見学
ここ二週間くらいは京都を拠点としてあっちへ、こっちへ、移動しっぱなし。京都から大阪に1泊2日。戻ってきたら今度は高松へ2泊3日。そこから小豆島に行き、姫路経由で京都へ戻ってきたと思ったら美山へ日帰り。そして小松・加賀に1泊2日で、そのまま東京へ行こうと思ったけれど、一端京都に戻ってまいりました。ふぅ。 もう本当にこれでもか、というくらいのご縁とインプットの洪水で、そろそろ消化不良に陥ってきたので、ここらで少しアウトプットしたいと思います。まずは、4月26日。京都にある町家宿泊施設「庵プロジェクト」を見学してきました。そもそも、去年の九月以降、ふたたびエンジンをかけ直して走り始めたのはここに来た日あたりからだったと思います。先日の記事の続きになります。 ● 筋屋町の庵 http://www.kyoto-machiya.com/sujiya.html ● 和泉屋町の庵 http://www.kyoto-machiya.com/izumiya.html ● 材木町の庵 http://www.kyoto-machiya.com/zaimoku.html -- 2008.09.03 庵 京町家再生プロジェクト http://tamachan.jugem.jp/?eid=441 2007.10.04 西六角町の庵 http://tamachan.jugem.jp/?eid=442 2009.04.29 Wednesday
明珠在掌(めいじゅたなごころにあり)
京都の庵プロジェクトのオフィスにて、アレックスが書いた屏風に「明珠在掌」と書いてあった。 明珠とは計りきれないほど価値のある宝物のことなのだそうだ。人は宝物がきっとどこかにあるはずだと、一生懸命探しにゆく。あれではない、これではないと。けれど、あなたの掌の中にこそ、本当の価値のある宝があるのではないですか。幸せに気づいていないだけなのではないですか。という意味の言葉である。 この書は彼の書の師との合作だそうだ。右がお師匠さんの書いたもの。左が自身で書いたものである。彼はこれを一体どういう気持ちで書いたのだろうか。自分が異国にこそ追い求めているなにかがあると思い続けてきた気持ちを、ある時に、そうではないと悟って自らに対して戒めた言葉なのであろうか。それとも、海外になにかを思い求めて出て行く日本人に、地元を捨てて東京に行こうとする人に、もっと近くに良い物はあるのにということを示したかったのだろうか。 しかし、どちらにせよ同義である。人間、距離が近すぎるとメタ認知力が欠如して、なにが本当に良いのかなんて分からなくなってしまうのだから。どちらが真実かなんて、もはやまったく解らない。常に、そこに陥りがちな自分の意識との戦いである。 山岡鉄舟「宝珠」 庵のオフィスの二階にあったもう一つの屏風に、しばし打ちひしがれた。山岡鉄舟は江戸時代の幕臣であり、どうやら江戸城無血開城の立役者の一人であるらしい。宝珠とは仏塔のてっぺんなどに着いているタマネギ型のあれである。 この屏風を「発見」したときに、アレックスがいつものように「日本人はほんとに宝物がなにかを知らないよね」と言ったとか言わないとか。笑 山岡鉄舟 http://ja.wikipedia.org/wiki/山岡鉄舟 如意宝珠 http://ja.wikipedia.org/wiki/如意宝珠 2008.12.09 Tuesday
亀岡天満宮
アレックスとのミーティングのために京都・亀岡にある彼の自宅の一つ「天満宮」に行ってきた。 神社の境内にあるこの家はもともと神主さんの家だったものが、大正時代から既に誰も住んでいなかったそうだ。 彼は政情不安定なタイからマレーシアのクアラルンプールまで国境を越えて日本に帰ってきたらしい。タイの王室のスタンスについて30分くらい持論を展開する。今回の空港封鎖の経済的ダメージがいかに国際的にマイナスイメージになってしまったかということを悔やんでいた。観光客はしばらく戻ってこないだろう。彼はなんだかんだいって、文化の側面から常に国のあり方についてまでトータルで考えている。 「この茶碗はカケているから安かったんだよ。完璧なものだったら何百万もするね」 ちいおりスタッフのpaul。ここにもスタッフが数人住み込んで主の帰りまで、家を管理している。 神社の境内だけれど、いろんな国の神様だったり、仏さまだったりが混在同居。神社の中にある家、というよりは神社付きの家と言った方が正しいのかもしれない。 ここは自宅なので基本的には公開されておらず、一部写真集が出版されている程度だけども、こういう場所で打ち合わせしたり、話を聞いたりできるのは一緒に仕事をするという大きなインセンティブだなぁと改めて思いました。 2008.11.14 Friday
解り合うということ
今年はどうしても篤姫ネタが多くなってしまうが、今年の作品ほど、桜田門外の変を美しく描いた大河ドラマはなかっただろう。いまさらだけれど、8月10日放送の第32回はたぶん、最もよかった。あの1話だけはやたらクオリティが高くて、映画のハイライトシーンでも見ているかのように食い入ってしまった。何度でも、何度見てもいい。 史実、天璋院と井伊直弼が話し合ったかどうかは定かではないけれど、従来ならば多くの維新志士を育てた吉田松陰を殺していたりと、井伊直弼は悪逆非道を尽くした悪役として暗殺されたことを嬉々として語られてきたが、彼は彼なりの立場として役割を演じた、考え抜いた果ての抜き差しならない仮説があって、それを信じて貫くことが彼の生き様だったわけだ。 悪逆非道を諫めようとして井伊直弼を呼び出した天璋院は、茶の湯の席で彼の話を聞いてゆくうちに彼の、江戸幕府の存続のためにわざわざ悪役をかって出ているその立場を理解する。井伊直弼も自分の汚れた手でつくった茶を美味しいと素直に喜び、話を聞いてくれた天璋院に心を開きかけていた。そしてまた私に茶を出してはくれぬかと言って、別れるが二度とその機会は無く、3月3日に桜田門外で暗殺された。 井伊直弼落命の報せを聞いて、天璋院は「これから、もしかしたら解り合い、手を携えられたかもしれなかったのに・・・」と呟いて終わる。一期一会、もしかしたら解り合える相手であっても、それに気がついた時は、もはや手遅れなのでした。 なんだろう、脚本家が上手いのかな。このことはとても人生の本質を描いているようで、解り合えぬことにもがき苦しんでいたあの時に、ささやかなヒントを貰ったような気がした。 2008.10.27 Monday
篤姫 敗者の美学
今年の大河ドラマが面白かったかどうかは置いておいて、テーマ設定は非常に興味深く思って今日まで見ている。いよいよ年末に向けて、あとは教科書通り倒幕という名の革命に突き進んでいくのだろうけれど、この革命という暴力的なまでの社会の劇的な変化について、歴史小説を読むたびに深く考えさせられるのが、革命を引き起こした側の論理ではなく、革命によって「時代から滅び去らねばならない側の立場」に立ったものたちの身の処し方の方に非常に興味深く、強く共感するものがある。 正直、明治維新における坂本龍馬や西郷隆盛などの革命派の人物を単純に評する風潮は、虫ずが走るほど嫌いだ。社会が大きく激動する時代に、そのうねりの中心になったものたちを単純に評価するのは安易すぎ、そして愚かだ。滅び行く側に立ったとき、その立場に立たされた人たちはなにを考え、どう行動したのか。 18世紀末、フランス革命における貴族たち「王党派」は革命が火蓋を切って4年目の1793年3月、フランス西部、ヴァンデ地方において大規模な反乱を起こし瞬く間にフランス西部が争乱状態となった。これに対して当時のフランスの立法機関である国民公会は「反乱軍に関わったもの全員を処刑する」という方針の下、反乱が鎮圧される1795年までの2年間の間にのべ30〜40万を虐殺することとなった。現在のフランスでもヴァンデの戦いについては「革命の闇の部分」としてタブー視されているという。 聖戦ヴァンデ 藤本ひとみ・角川文庫 また、日本の明治維新においても、壮絶な戦いを強いられたものたちがいた。江戸幕府の海軍奉行、榎本武揚は僕の中で明治維新の最大の英雄だ。彼は徳川慶喜が大政奉還を行った時点で、西洋式軍艦六隻を率いる日本最強の海軍を率いる立場であった。冷静に考えても幕府軍が負けるはずがなかった。が、しかし、彼の上官であった勝海舟は江戸城の無血開城を果たしてしまい、江戸城陥落後、勝の指令を無視して自分が指揮していた幕府海軍と奥羽越(現在の新潟、福島、山形、岩手、秋田、青森)での戦いに負けた藩士と旧幕臣達を率いて函館の五稜郭に集結、再起を図り、将軍徳川慶喜公を迎えて、大まじめに北海道に独立国を作ってしまおうとした。(この独立国づくりはかなり綿密な科学的見地による蝦夷地における食糧政策と、軍艦六隻による自国防衛戦略があった)この国際的にも認められた蝦夷共和国は、実際に慶應5年(蝦夷に立て籠もった人たちは、明治と元号が変わったことを知らなかった)まで存在し、新撰組の土方歳三はじめ、蝦夷に集まった人たちは海軍の旗艦開陽丸が沈み、一隻また一隻と軍艦が沈んでゆくにもかかわらず、自分自身の武士という「生き方」のために最後まで戦おうとするのである。 武揚伝 佐々木譲・中央公論新社 革命はいつもそれまで虐げられてきたものたちの恨みと怨念によって容赦なく行われるが、それ故に大義名分があろうとも、とても見苦しく惨い。敗者の側の身の処し方にこそ人の「生き方」の美学が色濃く浮き彫りにされるように思える。篤姫は、そんな時代の女性の生き方として描かれているのである。 2008.09.29 Monday
アレックス・カーの桃源郷「ちいおり」
前からずうっと行ってみたかった「ちいおり」に来た。アレックス・カーのみつけた桃源郷であり、彼の城だ。京都から車で5時間くらい。明石海峡大橋から淡路島を抜けて、徳島県の西の端、四国の丁度ど真ん中に、ちいおりのある祖谷峡がある。 Photo by torublog 来てみていろいろとわかったことがあった。その中でも一番大きな事実は、今年になってから10軒以上の古民家を見てきたけれど、ここは単純に昔ながらの趣をそのまま残している場所というわけではなく、京都から持ってきた家具などの調度品と、アレックスによる書が描かれた障子など、アメリカ人の描いた理想の日本像を具現化させた「作られた」場所であるってことだ。 30年前にここができて以来、何人もの外国人が世界中から集まってここに滞在し、生活をしてきたのだという。その頃は、あまり地元の人たちとの交流があったわけでもなく、外国人もいずれ散り散りになっていったのだそうだ。いろいろな話を聞いていくなかでだんだんわかってきたことは、ここが長い歳月の中で、ヒッピーの巣窟になっていったんだろうなと思った。つまりここは、彼らの描いた理想と夢の跡なのである。 しかし、考えてもみれば、ここ数年ずうっと「西洋人が見た日本」を追いかけ続けてきたと思う。建築ならば桂離宮を発見したブルーノ・タウトやフランク・ロイド・ライトを。日本画ならば伊藤若沖を発見したジョー・プライスを。彼らとは少し立場が異なるけれど、イサム・ノグチもまた日本庭園を重森三玲とともに追求しつづけた。 そんな彼ら西洋人の、アレクサンダー大王以来のOrientに対する想像力が、非常にモダンなものを生み出す源泉になっていると僕は考える。初めて出会ったときの瞬間の想像力を、その後に待ちかまえている現実による幻滅に耐え抜き、ファーストインプレッションを追いかけ続けた結果なのだろうか。とてもつくられたものであったとしても、ただ「昔ながら」を追いかけただけではないからこそ、魅力的なものが生まれるのだと思う。そういう意味で、この場所の存在は意義深い。 ただ、伝統を守るということだけではなく、しかし流行に流されることもなく「今」を本当に生きることができた人やことや表現を「モダン」と言うのではないかと、最近ある一定の結論に達したように思う。 ここは、重要文化財でもなく、保存が第一義ではなく、生活するために現に使われているために、囲炉裏も自由に使えるし、すべての道具が生きているという点ではじめて古民家の生活を体験したなあという感じだ。いままで見てきた古民家はどこもかしこも触るな使うなの一点張りで、見せ物でしかなかった。 長い長い距離を運転してくれたともやん、有り難う。 -- ちいおり http://www.chiiori.org/ 「美しき日本の残像」アレックス・カー http://tamachan.jugem.jp/?eid=337 alex-kerr.com|美しき日本の残像 http://www.alex-kerr.com/jp/ 2008.09.03 Wednesday
庵 京町家再生プロジェクト
「美しき日本の残像」の中で、アレックス・カーが、当時の日本はまるでおとぎばなしの世界でしたね、と言って描いていたものを、実際につくりだしたのが、この町屋再生プロジェクトだと僕は思う。京都のグリッド、いわゆる洛中の中に、合計八棟の町屋を再生し、実際に泊まってそれを体験することができるこの企画は四年前に始まったのだという。その企画をはじめた株式会社 庵に行ってみた。 当初、不動産屋さんは町屋を再生して体験できる場所をつくるということに、まったく理解を示してはくれず、とにかく自己資金で三件の町屋を再生して始まったそうだ。 そもそも現在の日本の法律で、このような滞在型の古民家宿泊施設をつくることはとても難しい。通常、宿泊施設にする場合、スプリンクラーをつけなさいとか非常口の誘導灯をつけなさいとかいろいろと法律で定められたことを守らなければ営業許可が下りないわけだが、そうなると町屋としての良さが残らない。 そこで彼らは「一泊だけの賃貸者契約」として貸し出すことを思いついたところが素晴らしい。確信犯的に進めなければ、本質的なアプローチができないのだと思い知った。 日本の法律で滞在型の古民家宿泊施設をつくることはとても難しい。古民家を今の建築基準法に照らし合わせると不的確となるんです。古いモノはこわして建て替えろというのが、今の建築基準法の考え方なんです。安全を守るべき法律では悪いモノとしてとらえられてきてしまう。戦後に作られた法律がいまだに生き続けている。古い建物っていうのは今みたいに構造計算をしなくても、大工さんがカンでつくっていたすばらしいノウハウがあるはずなのにそれを数値化することができない。大震災が起きたときに古民家は崩れずに残っていたりすることが多いのに。-- 庵 http://www.kyoto-machiya.com/ 「美しき日本の残像」アレックス・カー http://tamachan.jugem.jp/?eid=337 2008.07.16 Wednesday
東山魁夷展
東京展で見逃したので、東山魁夷を長野まで見に行った。 やっぱり日本画は本物を見ないとぜんぜんわからない。 岩絵の具を使っているから当たり前なんだけども、岩彩だけでなく金箔や銀箔、ときにはプラチナまでつかったりするから、光の当たり方でぜんぜん色が違ってみえてしまうくらいで、ここにこうして写真を貼り付けてもそれは本物のイメージの雰囲気の数パーセントも伝わってこない。 東山魁夷を見ていて、初めて日本画というものに出会ったときのことを思い出した。日本画なんて教科書で見ている程度だと古くさい絵だなあ程度にしか記憶されないのだけども、本物を前にしたときに、まるで世界を見る目が変わってしまったかのようだった。日本画は、現実を超えた究極のリアルを表現しているんだということを知ったとき、これはとてもかなわないなあと思い知った。 東山魁夷は色の日本画家だ。遠く離れたところからその絵を見ていると、まるで写真ではないかと思うような絵がある。 現在、日本画の定義は岩絵の具をつかっているかどうかということだけらしい。いわゆる日本画の定番である花鳥風月を描いていないから、知らない人には日本画であるということもわからないかもしれないけども、この人の絵が日本画として凄いなあと思ったのは、この絵にあるように要素を出来る限り省いて抽象的に表現しているからである。この絵の森は古代中国の土器の模様を参考に描いている。 今年に入って、あまりインプットしてなかったなあ。 いいものをもっと見に行かなくては。 -- 生誕100年 東山魁夷展 長野県信濃美術館 東山魁夷館 |