2022.07.04 Monday
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tamalogOutput and input from 1998 to 2010
2007.10.03 Wednesday
「ミスターウォークマン」黒木靖夫
この広告を覚えている人はどのくらいいるだろうか。1989年。まさにウォークマン絶頂期だった頃のソニーの広告である。このウォークマン、技術的に作り上げたのは社長の井深大で、開発の動機は飛行機の中に音楽を持ち込みたかったからだというのは業界では誰でも知っている有名な話だけれども、プロジェクトを取り仕切ってこの絶頂時代を作り出したのが当時ソニーのデザイン本部長であった黒木靖夫氏だった。そしてまた彼はSONYのロゴを始め「ソニーのデザイン」を作った。黒木靖夫氏はソニーのデザインの教典そのものだと言える。その彼が何ヶ月か前に亡くなったという記事が新聞に載っていたときはなんだかとても時代の変わり目を感じたのだった。 今、僕らがiphoneやipod touchに感じるワクワク感は、単純に「デザインが優れている製品だから」という理由だけではない。技術的にもデザイン的にも革新的な出来事を起こすことを「イノベーション」という。僕らが今アップルが作り出すそれらにとてもワクワクしているのは、まさに閉塞しかけていた携帯オーディオ市場における「イノベーション」だからだ。ウォークマンという製品は1979年に発売したときは当時の常識であった録音機能が省かれていることなどの理由により、まだそれが「イノベーション」であるということは消費者は気づかなかったのだが、それを10年かけて彼は作り上げていった。(ipodもここに至るまでに既に6年を経過しつつある。2001年の発売当時、ハードディスク搭載などは時代遅れと思われていた)ともかく、当時のソニーや、アップルが評価されるのは、デザインが良いからではなく、他の企業や製品にはないオリジナリティ溢れた「イノベーション」を作り出すことができる企業だから魅力的なのだ。 10年昔はソニーという会社が作り出す製品が大好きだった。一つ一つの新製品がリリースされるたびに、今度はどんなイノベーションが盛り込まれているのかとワクワクしたものだった。ところがある時期を境にそれを感じなくなり始めた。システムオーディオ、ウォークマン、携帯電話、テレビ・・・etc。一つ一つ確実にSONYのロゴの入った製品は自分の部屋から失われていった。ソニーのイノベーションとは、まったく新しいものを作り出すことそのものだった。世界で初めてのトランジスタラジオ、世界で初めてのテープレコーダー、世界で初めてのテレビ、世界で初めてのビデオデッキ、世界で初めてのウォークマン、世界で初めてのコンパクトディスク。これらの「製品ジャンルそのもの」を作り出してきた。極端かもしれないが、他の製造メーカーの多くはそのコピーを消費サイクルと想定された市場に対して製造しているに過ぎない。しかし、1990年代後半から魅力的な製品が出てこなくなった。VAIO、プレイステーションを最後にソニーはイノベーションを作り出せなくなっていった。 そんな気持ちも薄れつつある今年聞いた黒木靖夫氏の訃報からは、容赦の無い時代の変化を感じたのだった。10年昔、好きだったものは、ソニーという企業の製品ではなく、井深大や盛田昭夫、黒木靖夫の人間性が反映された製品と、そのイノベーティブな開発ドラマだったんだ。大正から昭和一桁代に生まれ、戦後の焼け野原から一からイノベーションを生み出してきた人々は去った。そしてそれを今、アップルに感じているという事実があり、ソニーの役割ではなくなったということは、日本のものづくりにおける創造性の力が如実に低下しているという厳しい事実を突きつけている。 Wikipedia - 黒木靖夫 2007.05.05 Saturday
歴史上、たった一人の人間の考えた政策がずいぶん多くの人間の運命に影響することがある。
彼の考えた政策は多くの日本人にとって無関係では済まされない。 彼の持論だった政策によって、工場からの排出物によって深刻な環境問題が発生し、農村では深刻な後継者不足に陥いり第一次産業の衰退が起きた。彼の政策はもちろん、この国に良いことをもたらしたのだろうけども、僕らの世代は常にこの政策の副作用と向き合わなければなくなったとも言える。なんてことを、田植えの終わった田舎の水田を歩きながら考えていた。 そんな彼の考え出した政策とは、国民所得倍増計画。これについてはいままで漠然と 戦後の焼け野原から国民一丸となって・・・なんて漠然と思っていたけど、そんなシナリオを書いた人っていうのがやっぱりいるのだった。下村治。昭和35年、池田勇人内閣の経済政策の立案を担当した経済学者だったらしい。 身近なところでは、年末年始、GW、お盆の新幹線の乗車率150%とか、東名高速30kmの渋滞なんていうのもこの影響の一つなんだろう。うちの父親なんかが上野駅で感じているのであろう郷愁もその結果の一つだとも言えるけども、感覚としてはわからないし、僕自身には確固たる故郷が存在しないので、人の実家に行ったりすることでその感覚を追体験してみるけども、やっぱりわからない。けども確実なのは彼の描いたシナリオの上に今の日本があるということだ。 2007.02.17 Saturday
夜来香 イエ ライ シャン
民法制作だけどもこれはだいぶいけてるなぁと思った上戸彩の李香蘭。 放送された2月12日は李香蘭こと山口淑子さんの87歳の誕生日だったのは偶然だろうか。端から端まで見て240分。これはちょっとした映画を見たより満足だ。摩天楼のシーンがこびりついていて、頭の中をイエ ライ シャンがループしている。 日本人として生まれたことを隠しながら中国人スターとして戦前の中国で活躍しながらも日本人であるということを公表することによって、中国人から夢を奪いたくないために、ずっと国籍を隠し続けた人の物語。彼女は結局それが理由で戦後、中国政府に日本人に協力した中国人という容疑で死刑寸前となる。 たくさんの歴史書を読んできていつも思うのは、単に革命を成し遂げた人物よりも、数奇な運命によって板挟みになり困難な問題に対処した人物や、敗軍の将の方に圧倒的な魅力を感じることだ。 中国から引き揚げる日、李香蘭は、李香蘭とわからないように化粧も落とし、もんぺ姿で乗船する行列に並んだ。ところが、女性出入国管理官より李香蘭と見破られ、乗船を目の前に再度収容所に連れ戻されてしまった。それから9ヶ月間の収容所での軟禁の後、今度こそ出国できることになり、李香蘭は乗船するや否や怖くて船内のトイレに潜んでいたのであるが、やがて出航した船はゆっくりと岸壁を離れ、李香蘭は甲板に出、遠ざかってゆく上海の摩天楼を眺めたのである。おりしも、船内のラジオ放送からは自分の歌う「夜来香」が流れて来、赤い夕陽に浮かぶバンドの摩天楼は、涙に曇り見えなくなった。那南風吹來清涼 那夜鶯啼聲悽愴 月下的花兒都入夢 只有那夜來香 吐露著芬芳 我愛這夜色茫茫 也愛著夜鶯歌唱 更愛那花一般的夢 擁抱著夜來香 吻著夜來香 夜來香 我為イ尓歌唱 夜來香 我為イ尓思量 呵 我為イ尓歌唱 我為イ尓思量 夜來香 夜來香 夜來香 2006.12.21 Thursday
昭和史
おとといは比較文化論。文明、文化というものの本質について。昨夜は昭和を知らない世代にとっての昭和と天皇について。今夜は彼女が言うところの、昭和の偉大な政治学者について。毎日よくもまあ次から次へと興味が波及していく。昭和を知らない昭和生まれが悔しくて仕方ないらしい。 ハタチの頃の知識に対するあくなき欲求のパワーは凄いなと思う。知識をもっていて当然という風に僕は当時、脅迫観念的に捉えていてから気持ちはとてもわかるつもり。僕にとっての「昭和」は丁度そのハタチの年に「プロジェクトX」の放送が始まったこともあって、ものづくりの世界をきっかけに入っていったのですよ。仮にもプロダクトデザインの会社に居たからかしら、まずはソニー。今日のタイトル写真になっている初代ウォークマンを作った会社として非常に有名ですが、こんなかっこいいものつくった連中はいったいどういうやつらだったのだろうっていう素朴な疑問から昭和史に興味を持ったのが、多分一番最初の直接的なきっかけだったんだと思う。そいつらは1946年日本橋の東急百貨店の片隅で創業した電気製品の修理屋であったという話だった。それから、島秀雄の新幹線誕生の話あたりが最もハタチの僕には入りやすかった話だった気がする。 最近では、帝国ホテルからバイキングが始まったという話や、白洲次郎の通商産業省の設立という話もあったし、生で聞いたとこでは堺屋太一が大阪万博をプロデュースした時の生々しい話から、天野祐吉による「ほしがりません勝つまでは」というコピーについての話まで、だいぶいろいろキャッチアップしてきたつもりだけど、まだまだ知らない昭和は多い。ああそうだ。それにアレクサンドル・ソクーロフによる昭和天皇ヒロヒトの話は最近見聞きした昭和の中で最も心を揺さぶられた。 しかし、昭和を知るためにいきなり政治学から入っていく人もいるんだな。。。と、改めて思ってしまうわけで、とても勉強になるわ。政治学における昭和なんて27歳の僕にとっては紆余曲折さまざまな昭和を見てきた中で、今ようやく到達しつつある昭和なわけです。いやいや、ずいぶん遠くまできたもんだ。 写真はSONY 初代WALKMAN TPS-L2。僕の生まれと同じ1979年製で、発売当時33,333円。創業者盛田昭夫が、飛行機の移動時間の中で音楽を聴きたいと思ったのがきっかけで作られた。当時、テープレコーダーに当たり前のように装備されていた録音機能をあえて省くという発想は、画期的なものだったり、この形にするためにあのミニピンプラグ(イヤホンのやつね)はわざわざ作られたのである。今でこそAppleに持って行かれてしまったポータブルオーディオだけども、僕の半径5mに転がっていた興味のトリガーなわけだ。 2006.09.15 Friday
アレクサンドル・ソクーロフ「太陽」
日本で公開してよいものか議論を呼んでいるというから、よっぽど政治的にオープンにできないメッセージでもあるのだろうかと期待していたのは、だいぶ違った。この映画においてリアリティがどうのだとか史実がどうのだとか憲法がどうのだとかいう話をしてしまうのは非常にナンセンスなことだ。 いまだ皇室がメディアで見せる表情は非人間的でおしとやかでおくゆかしく人形のような姿しか見せないが、そのタブーを打ち破り、昭和天皇の「人間らしさ」をフィクションによって浮き彫りにすることが、この映画のコンセプトである。天皇のプライベートを徹底的にあらわにし、それを目にした瞬間の衝撃。 DVD化されるのか非常に疑わしいので、映画館で見ておくべきである。 ヒロヒト「私はね、成し遂げたよ・・・。これで私たちは自由だよ・・・」 皇后「何をなさったの?」 ヒロヒト「私はね、もう神ではない・・・この運命を私は拒絶した!」 皇后「そうだと思っていました」 ヒロヒト「あっそう、その必要がなかったとでも?」 皇后「何か不都合がございましたか?」 ヒロヒト「おおむね不便だ、よくないよ」 2006.08.17 Thursday
軍事予算と技術者の夢の狭間で
ヴェルナー・フォン・ブラウン。ガンダムに登場する月面都市の名前で有名なこの人について、NHKで4夜連続で放送していたのでした。この人、簡単に説明すると自身の宇宙旅行への夢のために、ナチス・ドイツのロケット開発予算を使い、ナチス親衛隊の将校にまでなり、第二次世界大戦末期、多くの部品とともにアメリカに投降して、ソ連との宇宙開発競争の中で今度はアメリカの軍事予算をつかって口説いて口説いて、口説き続けて、月面着陸までの間NASAのロケットを開発しつづけた人でした。平和利用なんて言葉はきもちわるいけども、自分の夢に軍費を投入するというセンスは悪くないとおもう。 2006.07.20 Thursday
「今日の料理」のおじさん ムッシュ村上
昭和という時代は10年しか体験できなかった僕らの世代から見るとおそらく、最も近いファンタジーなんですね。高度成長という感覚も理解しきれないし、義務教育が終わる頃には既にバブルも崩壊していた。でも普段生活していくなかで触れるものがリアルにつくられた頃なわけだ。 島秀雄が新幹線をつくった昭和。白洲次郎が日本国憲法のGHQ草案に抗ったりした後、通商産業省をつくった昭和。堺屋太一がプロデュースした大阪万博で丹下健三や岡本太郎やコシノジュンコが活躍して90年代までのトップリーダーになった昭和。三島由紀夫が市ヶ谷で陸上自衛隊に決起を呼びかけ自決したあたりまでの昭和。 そこらへんまで(1970年頃)の昭和が、最も興味深くいつも自分が経験できない事を永久に悔やむのですけども、その頃の方で最近もう一人見つけまして、帝国ホテルに村上信夫さんというシェフがいたんだそうな。 この方、戦後、帝国ホテルの社長にフランス留学を抜擢された後に日本に帰ってきて、スウェーデンの伝統料理スタイルをバイキングという名前で導入したり、NHKの「今日の料理」に出演することで、高級でタコ壷(専門業にはよくある)な世界のフランス料理を、化学調味料の使用を肯定したり、ステーキをハンバーグステーキというかたちで家庭で簡単につくれるようにしたりと、日本の一般家庭に広く普及することをした人であったとは。この村上信夫役に高嶋政伸が挑戦するドラマが今度の土曜日で最終回(全3回)なのだけど、久々にとてもハイクオリティなドラマになってます。 NHK 土曜ドラマ 人生はフルコース 2006.04.09 Sunday
白洲次郎 占領を背負った男
オトコに惚れる。いや、けっしてバイではないし、そういう話でもないですよ。たまに、時空を飛び越えて惚れてしまうことがあるのです。今回は、約60年前にこっそりと活躍した日本人でした。こっそりと。そう。けして英雄として広く祭り上げられているわけではなく、有名でもなくてあまり知られてない人の方が、ヒットする。 白洲次郎。彼は戦前の一実業家でありながら、宰相吉田茂に太平洋戦争の最中出会い、吉田反戦グループに参加したことから少しづつ世の中に登場する。1945年、吉田茂に請われて終戦連絡中央事務局に居たときのこと、GHQのマッカーサーに、天皇の贈り物を届けに行ったとき、マッカーサー本人に「適当にそこらへんに置いておいてくれ」と言われたとき激怒しながら英語でこう叫んだという「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとはなにごとですか!」と。そして贈り物を持って帰ろうとしてマッカーサーをあわてさせた。当時、ナチュラルな視点からものを見、考え、実行し、神にも近いマッカーサーをも叱りつけるという暴挙にも似た行動がとれた日本人は彼しかいない。なぜそのようなことが出来る視座にあったのかが興味深い。 1946年に彼は、憲法改正に参加している。GHQが提案する案をそのまま鵜呑みにしてしまうと、後生に必ず禍根を残すと。そのために出来る限り今抗っておくんだということであったという。しかし新憲法自体は結局マッカーサー案で今に至る。その恨みを1951年、サンフランシスコ講和会議において、吉田茂首相が読み上げる受諾文書を英語で書かれたものから、日本語に書き直させた。「講和をする相手の国の言葉で読み上げるバカがどこの国にいるんですか!」と。ただ書き換えるだけではなく、沖縄諸島返還についての条項を盛り込むことにも成功した。この過程において相当GHQには抗ったらしい。その結果、マッカーサーから直々に吉田茂政権の元で、貿易庁長官として指名される。そして貿易庁長官時代、彼の人生で最も意義深い事業が、通商産業省の設立である。以下、北康利著「白洲次郎 占領を背負った男」より 次郎は国民に呼びかける形で次のように書き残している。「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的の立ち直しを要求しているのだと思う。恐らく吾々の余生の間には、大した好い日も見ずに終わるだろう。それ程事態は深刻で、前途は荊の道である。然し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」 彼は通商産業省の設立直後、一切の政治活動から身を引く。 ピューリッツァー賞を受賞した本、ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」によると、占領日本はマッカーサーが日本語を喋れなかったことが決定的な要因となって、戦前の官僚システムをそのまま戦後に引き継ぐことによって、戦後復興を成し遂げようとした。とある。その結果が60年経ち教育を中心としたさまざまな分野に置いて弊害となっているという論調があるが、居るところには居たわけで、その分野においては実を結んだ後の世界にいることを、改めてリアルに実感する。 2005.07.08 Friday
「欲しがりません勝つまでは」花森安治
戦後「暮らしの手帖」を出版し、戦中「欲しがりません勝つまでは」を世にプロデュースしたコピーライター、花森安治さんの戦前について、広告批評の編集長「天野祐吉」さんに、お話を伺ってきました。 |