tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
子供が生まれたら旦那も仕事やめたらいいのにって思う
名古屋にちょっと変わった夫婦がいる。この日も生後五ヶ月の子供と一緒に4〜5日くらい、僕の京都の家に滞在していた。子供が生まれてから現在まで、家族三人で日本中を旅して回っていて、あまり名古屋には帰っていないらしい。生まれてすぐの子連れでそんなことができるっていったいどういうことなんだろうと思いつつ。この日も、朝から大文字山に(子連れで)登った後に、近所のお寺を散歩していた。二人ともダンスをやっていて、考えるよりは先に体が動いてしまうタイプだ。



だからかどうかは知らないけれど、一年ちょっと前にできちゃった結婚した。丁度子供ができたっていう話を聞いたのが、愛知岡崎にある吉村医院という産婦人科の病院の見学ツアーの日だった。ここの病院のことはだいぶ気になっていたので、ツアーがあるって聞いて新幹線でやって来たまさにその日。旦那のよしおとも僕はその日に知り合ったんだった。

八丁味噌で有名な愛知県岡崎に、吉村医院という産婦人科の病院がある。うわさでは、古民家で出産するとか、妊婦に薪割りをさせるとか、そういう類の話を聞いてはいたけれど、ご本人はちょっと想像を絶したぶっとんだじいちゃんの先生だった。そんな吉村医院に通うようになり、子供を産んでからさらに現在までの話を聞いてみた。

Q.そもそも吉村医院に通うようになったきっかけってなんだったんだろう?

さやか
きっかけはてんつくまんの映画の上映会だった。その後友達四人と吉村医院に行ったのね。まさに横で妊婦さんが産んでる隣で先生と話をしてた。言うこといつも一緒で、いかに現代社会が間違ってるかってことと、私は医者が嫌いだってことと、女がどれだけ素晴らしい生き物かってことと、ゆるさん!とゆるす!っていつも言う。現代の産科学が間違っているかと。神の成すことであって人間が介入してどうにかなるとかってことじゃないとか。

工業的なものって、鉄とかって出来た瞬間が一番綺麗で、どんどん朽ちていくのに対して、元来日本でつかってきた木とかって、使えば使うほどに使い込まれて味が出て磨かれていく。ってのが先生の言い分なんだよね。

男女平等とか言ってどんどん女性の社会進出が進んでいるけれど、それは逆で女性が男性の地位まで自らの地位を下げている。それが男女平等の実態で、女性が男性化していると。女は子供産んで育てることをまずはやるべきなんじゃないかと。男性化が不妊の原因になっていたりする。

先生にカップルで会いにいくと、子供ができちゃう。特にその傾向が見られる。妊婦さん2〜30人が集まって話を聞きにいったり、先生の講演会を聞きに行ったあとに「子供ができたんですよ」って話をよく聞くんだよね。動物的感がうまれるとか。実際不妊治療的なことはなにもしてないと思うんだよね。「ワシのところに来るとみんな子供ができるんだー。はっはっは。」って言ってる。笑。産むまでの診察が楽しい「今日吉村医院行くの!るんるん」て感じだもんね。病院行く感じじゃない。

よしお
できちゃったときはさやかが凹んで、でも、先生に「うむ!元気な子供じゃ!」とか言われて、えー!って感じでびっくりしているのに「なんだ!子供ができて嬉しくないのか!?」とか言われて「子供ができるのに結婚してるも、してないも関係ないんじゃ!」って言われて。既成概念が一蹴される。ポジティブになるね。ふつうはなんかいろいろ医者に注意されるし脅されたりするし、病院なんて行きたくないんだけどね。

そういう話を女の子にすると、よしお、男だからわからないかもしれないんだけど!って言われる

さやか
吉村先生に「子供ができたら、びくびくするな!」って言われた。「びくびくしてないで、わくわくしてろ」と。10ヶ月間楽しかった。ほんと退院したくなかった。お産はグランドフィナーレだったね。


吉村医院のお産の家。ここで薪割りをしたり雑巾がけをしたりしながら出産までを過ごす

さやか
お医者さんが休日出勤したくないから、陣痛促進剤をつかったり、切ったり、吸引したりってことがあたりまえに行われているんだけど、吉村医院にいるとそんなこと信じられなくなるね。ほかの病院だと絶対計画的に出産させようとするからね。実際近くなると予定日を忘れなさいって言われる。

普通の病院だと、そもそも蛍光灯がぱーっとついて、足とか固定されて分娩台とかで産むわけですよ。生まれた赤ちゃんがいきなりわけわからないところに引っ張り出されて、それで泣いちゃうんだよね。普通病院では生まれたての子供は無理矢理でも泣かせなきゃダメなんだって教えるらしいんだけれど、生まれた瞬間に泣く必要はないはずなんだよね。

吉村先生の本にも書いてあるけど、つるんて感じで生まれてくる。自然にやってたらつるんて感じなんだよね。つるんてのが健康そうな感じだよね。出口を切っちゃったりすると、赤ちゃんも血まみれになっちゃうんだよね。吉村医院はほんと綺麗な状態で生まれてくるから、洗い流したりはしないんだよね。

逆子でも普通に出産させる。30週くらいの頃、逆子だった時期があって。びっくりしたんだけれど、先生は直しなさいとか言ってくれなくて「逆子ですね」で終わり。なんでも来い!っていう先生のスタンスが安心感を与えてくれるんだよね。


近所の黒谷金戒光明寺にて

Q.そういえば最近はずっと家にいないとか

よしお
そうそう。子供連れで友達二人とシェアハウスしているんだけど、最近ずっと家族三人で放浪している。年末からずっと名古屋に帰ってないねぇ。赤ちゃん連れで18切符で名古屋〜山梨の富士山の麓まで行って、そこから車で岐阜に行って、京都に行って、それから東京に大晦日に行った。高速バスも使うしフェリーも乗ったし飛行機で九州にも行ったし、ウォークナインてイベントでソウルにも行った。マイナス10度の中でおむつもかえたね。ソウルから北朝鮮の国境まで、途中だけの参加だけれど30キロくらい歩いた。そのときも俺がずっとゆうきを抱いて歩いてた。

さやか
産んで最初の一ヶ月間は家にいた。体力を復活させなきゃなんだよね。最初はメールするのもつらいんだよ。パソコンも一ヶ月はつかってなかった。二ヶ月目からはいきなり動き出していた。

よしお
最初新幹線だったかな。二ヶ月目でヤフードームのナイターを見にいったときに、盛り上がっちゃっちゃってたときにゆうきがびびりまくっていて、あのときは悪いことしたなぁと思った。その前の日には赤提灯に行ってたし。


石川家の一員として今日も日本を駆け巡ります

Q.これから仕事はどうしようって思ってるの?

ふつうみんな旦那さんが働いてるよね。「みんな子供が生まれたら仕事やめたらいいのにって思う」子供は毎日顔が変わるんだよ。最初はマイケルジャクソンのものまねしてたんだよね。原始反応ってうごきがあって、それは二〜三ヶ月で終わっちゃったんだけどそういうのも見れた。

さやか
みんな旦那が働いているから、嫁さんが外に出られないからって不安がっているんだよね。家庭を顧みない人っているじゃん、仕事があるからどうこうっていって家事しないとかって、あれって腹立つと思うんだよね。たぶん家目線てのがあって、そういうのが経験値として解ってないと。私もサラリーマンがどういう世界かわかっているから、よしおに、もっと早く働きなさいよ!とか言ってた可能性はあるし。

よしお
実家にいると「仕事もせんとー!」ってよく言われるけどね。ますます仕事ってなんなんだろう?って思うよね。ただ金を稼ぐだけのことだと思ってたりして、仕事をすごく浅く見てる人もいるだろうな。俺はそうだったけど、考えずに仕事が来るから。それがはたしていい働き方なのか。やめてみてすごく幅が広がった。

さやか
今の生活スタイルも、吉村医院は凄い影響しているよね。なんかの感覚が呼び戻された感じもするよね。人間なのか動物なのか。本来持っていた感覚がすごく呼び戻された感じがする。就職してバリバリ働いていた時期の価値観とは、まったく違う。よしおは農業を始めたいんだけれど、それもわかるし。

サラリーマン社会的には、育児休暇はやっぱりいたいよね。リスクは覚悟の上で育児休暇をとるっていう男性が増えていくといいんじゃないかなあ。まぁ貯金があるからなんとかなるってのもあるんだけれど、今は完全に無職。そういう状態じゃなかったらできないよねぇ。貯金を使い切るまでに次の仕事を考えようと思っている。これがまた面白いことに、よしおが仕事を辞めた直後に吉村医院に出会ったんだよね。それでさやかに子供ができた!って言われたと。計画をたてるよりは、おおむね導かれているっていう感じ。

よしお
もともとリクルートにいたんだけれど。最初やりたいことをやるためにお金が必要だったからあこがれて入ったけれど、なんか違ったね。嘘の仮面で踊ってました。笑。結果的には週末が凄い充実している三年半のサラリーマン生活だったね。そのために稼いでいるような。

さやか
よく驚かれるんだよねー。お母さん以外の人に抱っこされて泣かない赤ちゃんがいるなんてねー。って。こっちがびっくりだよ。笑。最近でも吉村医院に行く理由を見つけてはむりやりいってるよねー。

--インタビュー終わり

よしおとさやかを見ていると、夫婦ってどういうものかっていうことをたくさん学ぶ。それと吉村先生から、生命の本質とはなんなのかってことを教えてもらっているっていうのもあるが、そんな彼らが吉村先生に出会って、これからどういう生き方をしていくのかっていうことにとても興味深く思っている。そんなさやかちゃんも、とある名古屋のメーカー勤めなのだけれど、育児休暇の二年間をうまくつかって、今年の春からSFCの大学院に入学することになったのでした。丁度SFCにも保育制度が整った直後で、その第一号になったそうだ。旦那のよしおはSFCの近くに住んで農業がやりたいらしい。そのための家を現在探しているところだそうなので、なにか情報があったらよしお達に教えてあげてほしい。

よしおTwitter @yosuiwo

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よしおのブログ「育児バカンス」
http://ameblo.jp/yoshio-josh

吉村医院 しあわせなお産をしよう 愛知県岡崎市
http://www.ubushiro.jp/

「幸せなお産」が日本を変える (講談社プラスアルファ新書)
http://www.amazon.co.jp/「幸せなお産」が日本を変える-講談社-α新書
| ひと | 16:28 | comments(2) | - |
慶應義塾大学 井上英之研究会にて
この事件は、なかなか文章では伝わらないかもしれないなー。と、思いつつ。絶対に書かなければならないと思うので書くことにする。

2009年の12月のある日、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに居た僕は、たまたまだけども、素晴らしい瞬間に遭遇して、ついつい貰い泣きしそうでした。井上英之先生の社会起業論の研究会(SFCではゼミのことを研究会と呼ぶ)の中間発表会だった。社会起業とか、ソーシャルアントレプレナーといった言葉にうんざりしていた僕は、どうなんだろう?と思いつつも、興味半分なところでちらっとのぞきに行ったまま帰れなくなってしまった。笑。そこで行われていたことは、社会的な起業云々といったことでは到底言い表せない、もっともっと人間と人間の根本的なぶつかり合いの現場だった。


(写真右がいのさん。「社会起業っぽい!トークをしよう」より)

学部生が、一人15分ずつパワーポイントをつかって、自分がいま進めているMyProjectの発表をしていく。そこで場を共有している学部生のメンバー達が、忌憚なき、またあるときはとても痛烈なコメントを突きつける。ある男子学生は、あまりの出来ていなさにコテンパンに言われてボロボロになっていた。そうやって自己確認をする場なのである。その様子を見ていると、SFCの半学半教ってこういうことかあ。と。改めて目の前で見て思うのだ。井上先生は大学という場所から考えると、まだ30代後半のとても若い先生だ。ちょっと小学校の体育の先生のような雰囲気も持っているが、戦略コンサルティング会社の出身で、学生達のプレゼンテーションにはだいぶキレキレの、しかしとても愛情あふれるコメントをくれる。そして、がんばったときは必ず最後に「よくやったね」という一言を忘れない。

井上先生の、その全身をなげうつようなひとりひとりへのレコメンドっぷりと、半学半教の熱気に押され、当初予定されていた5限から6限にかけての中間発表会は、そうとうな時間押していた。まもなく21時も回ろうかというときに、井上先生がカミングアウトを始めた。来年の春学期をもって、この研究会はなくなりますと。SFCを離れようと思っていると。一部の学生はそのことを既に知っていたようだった。そのとき、一人の男子学生が涙を流しつつ、切々と訴え始めた。「いのさん(先生のことを、皆親しみを込めてそう呼ぶ)は、前に比べてあまり学校に来なくなった。忙しくなるのもわかるけれど、俺たちのことをもっと見ていてほしいんだ」と。

このとき本当にうらやましいと思った。

なにがうらやましいかって、たぶん、その関係性がうらやましいと思ったんだと思う。結局高校生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、成長のために必要な場とかプロセスは一緒なんだ。社会人になるとそのような機会がなくなる。よって井上研のOB、OGは、このような機会があるとこぞって集まってきて、一緒に場を味わおうとしてやってくる。

「僕は正直言って先生っていうステータスが嫌なんだと。教員でなくていい。もっともっと普通に人としてつきあいたいんだ。僕だって悩んでいるわけなんだな。」

いのさんは、さきほどの問いかけに対して、こんなことを言っていた。しかし、学生に泣かれる先生っていうのはホンモノだなあと。あんなに学生に愛されてる先生って、テレビの中でしか見たことなかった。とても言葉には表せられないけれど、目の前で起きていることがあまりにも鮮やかで、いい映画を観た後のような感覚だ。

この日の最大の発見は、先生が学生にどれだけ時間を割けるかが、教育における大事な大事な大事なポイントであると。いくら先生がやっていることをスケールアウトしようとばかり思って仕組みを作ろうとしても実現するのはなかなか難しく。しかし本当に愛情を注ぎ込んでさえいれば、おのずと自然とスケールアウトしていくものだ。っていうことに尽きるだろう。


それから二ヶ月後の先日、2009年度秋学期の最終発表会が行われた。中間発表でボロボロになっていたあの男子学生は、その後の二ヶ月間で、見事素晴らしいプレゼンテーションができた。そして4年生の卒業生に、井上先生は必ずこの文章を読み上げて、彼ら彼女らを送り出してくれるのだ。
目の前の机も、その上のコップも、耳にとどく音楽も。ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。
教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。

たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニア貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。

やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ?」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。それらは隠しようのないものだし、デザインはそれを隠すために拓かれた技術でもない。

また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材の旨味を引き出すべく、手間を惜しむことなくつくられる料理。表面的には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」などという力の出し惜しみはない。このような仕事に触れる時、私たちは「いい仕事をするなあ」と、嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。

人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そしてそれが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。
「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうした棘(とげ)に囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。

大人でも同じだ。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。

しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることによって、世界が変わる可能性もあるのではないか。
この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所ではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外して働いた結果、それを手にした人をも疎外する非人間的な社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。
問題は、なぜ多くの人がそれをできないのか、ということになるが、まずはいくつかの働き方を尋ねるところからはじめてみたい。

自分の仕事をつくる 西村佳哲著 プロローグより

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いのけんのことは #inoken で!
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井上英之研究室
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未来からの留学生
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| ひと | 21:52 | comments(0) | - |
未来のインスピレーション


ほのかちゃん。彼女の笑顔を見ていると、ここのところ抱えてた諸々が吹き飛ぶようだよ。2010年最初の記事に、彼女の写真と、それにまつわるストーリーを書くことは、今年のテーマが「未来」と「インスピレーション」という二つの言葉で始まろうとしているときに彼女の笑顔はふさわしいと思った。

そうそう。僕が彼女のパパに出会わなかったら、今の僕はいないと言えるし、彼女もいないかもしれない。



山本尚明くん、31歳。パナソニックで働くプロダクトデザイナーだ。家電機器や設備を通じたソーシャルコンセプトクリエイションの実践と研究が主な仕事らしい。1999年の夏を過ぎて季節は秋に変わりはじめていたある日、エレファントデザインでの仕事に疲れ果てていた僕が、彼に連れられてSFCに行っていなければ、その後の僕のほぼすべての人間関係も存在しないことになるし、従って今の僕はいないことになる。そのくらい大きな大きな転機だった時期を共に過ごすことになった、初めて知り合ったSFCの学生、当時環境情報学部の2年生だった。

当時の僕は、彼を通してその先にあるSFCの学生達が共通して持っている、未来に対するあふれんばかりのアグレッシブさを感じ取っていた。彼はもともと、空想生活の開発をサポートしてくれるスタッフとして参加していた。そんな彼に誰かが、SFCの学生だったらこのプロジェクトをどのようにつくる?と質問したときに「SFCの学生だったらこんなん自分たちでつくっちゃいますよ」と言っていたのを聞いたのが、SFCという場所に対するファーストインプレッションだった。

SFCって、慶應大学が10年前に藤沢に作った新しいキャンパスということすら知らなかった僕は、その言葉の意味不明なくらい強気で、しかもあたりまえのように言う態度によって、その存在に気がついたように思う。彼は、まさしく「未来からの留学生」そのものだった。



そもそも、センソリウム竹村真一さんについて最初に教えてくれたのも彼だった。彼に2001年にメディア寺子屋に連れて行かれなければ、その後の100万人のキャンドルナイトにしても、そこから派生した全てについてもなにも無かったことになる。

彼とは当時「時間」についてよく語り合った。時間という概念が人によってつくられたものであること。それは特に産業革命以降、19世紀、20世紀を通して社会は時間に都合を合わせて進んできたけども、そこには幸せはなかったのかもしれない。21世紀はそういう概念から脱却しよう。なんでもかんでも同期をとろうという考えはやめましょう。非同期で、お互いにストレスをかけない関係でコミュニケーションして、そこに出来上がってくるものに、何か幸せを見てみましょう。なんていう議論をしていた。それは後々、環境の世界ではスローという言葉で呼ばれていたり、アメリカ人の未来学者アルビン・トフラーによって1980年代に書かれていたことだということを発見した。

ともかく、10年前の僕らは、世紀の変わり目に未来というものをアグレッシブに捉え、来たるべく未来はどのようなものであるか、一つ一つ学んでいっているうちにあっという間の10年が過ぎて、2010年になった。僕は彼が当時示していたコンセプトの世界をひたすらに突き進んでおり、彼は父親になった。



2009年の終わりに、僕のアウトドアの先生である弥生ちゃんとこれからについて話していたとき、彼女は「子供に冒険を教えたりできる場所をつくりたいんだ」と言っていた。

そのとき、僕は、子供達に未来を見せてあげる人になりたいんだ。と強く思った。

みらい。
僕は、宮崎駿さんに、未来をたくさん見せてもらったなー、と思う。ほかにも、いろいろな人に、見せてもらったけれど、そこで何が見えたんだろうか。何が良いか悪いかなんて価値は、自分自身ではわからなくて、こうあるべきだ、これが美しいんだ、美味しいんだ、いいことなんだ、っていう価値は、いろんな人から教えてもらって、それをまねして、知ってきたと思う。

宮崎映画っていうのは、子供達がこういう未来をつくっていったらいいんだよ、っていうことを暗に示しているところが、僕はとても共感するところであるとおもう。そんな、未来。

宮崎駿さんの手段は映画で、僕の手段はまだわからない。だからブログを書いている。景気が悪くなったり、世間の雰囲気が悪くなればなるほど、なにかを照らしていかなきゃと思う。特に東京にいると余計それを感じる。

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未来からの留学生
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sensorium と Night and Day
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「第三の波」The Third Wave アルビン・トフラー
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| ひと | 23:53 | comments(3) | - |
未来からの留学生
いろんないろんな大事なことを、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下SFC)から直接的にも間接的にも学んで、それが僕の血肉になっている。初めて山本尚明くんによってSFCに連れてこられてから、まるまる十年経ちました。あのとき、それまで僕の頭の中で形骸化された大学のイメージが、ガラガラと崩れ去って。学生達が新しいものをつくっていこうと自発的に、そこで実に生き生きとしている姿を見て、やっと自分のフィールドと仲間達が見つかったって思った。



そのとき感じた感覚は、いまでもタロー坂を登ってα館が見えてくると、まったく色褪せることなく鮮烈に思い出して身震いがする。その後たくさんの大学を見てきたけれど、あのとき感じたものは、やはりSFCにしかなかった。

では、そんなSFCに、いったいなにがあるんだろう?今日改めて、メディアセンター、ラムダ館映像編集部屋、デルタ館村井研究室、ドコモハウス小檜山研究室とSFCを案内してもらって思うのは、やっぱりここには常に最先端の情報機器とインフラが満載されていることだ。



僕が2002年当時キャンパスを歩いていた頃は、既にキャンパス中にパスワード不要な無線LANが張り巡らされていた。1996年当時は有線LANケーブルが。そして各教室には最先端のコンピュータが導入され、一年ないし二年置きに最新のコンピュータにすべて置き換えられる。たとえば、今日時点では映像編集用コンピュータは、最新のMacProに16GBのメモリー、4テラバイトの供用ハードディスクスペース。(当然RAID仕様)ソニーのHDVテープ編集装置が取り付けられ、24インチワイドのAppleCinemaLEDディスプレイ、といった仕様だった。表層的にはそんな感じ。そりゃあSFCからIT長者も生まれるよね。でももっと大事なのは、根本部分に存在するコンセプトなんだと思う。


すこっち。本名、須子善彦。30歳、横浜在住、システムエンジニア。学部時代には村井純研究室に所属。現在博士課程。

日本のインターネットの父と呼ばれる村井研究室。インターネット、情報分野における日本の最高学府の中枢に彼が入った経緯と、これからなにをしていきたいのかを聞いてみた。

当時SFCで出来ていたことって?
ホームページを立ち上げるためには1998年当時、月に四千円とか五千円くらいかかっていたよね。そのときに10MBくらいのスペースしかもらえなくて、メールアドレスもドメインなんかもらえないし。インフラストラクチャーとしてあまり使えるものではなかった。当時SFCでは100MBの個人スペースが、全学生に配られていて、そこではすべてのCGIが動く。LANっていう言葉がまだ専門用語だった時代。このケーブルはコンピュータに刺し込んただけでインターネットに高速に接続されて、しかもそれはタダなんだ。って、SFCに入ると教えられる。つまり、SFCのインターネットを使わなければ、できないことが多すぎたんだ。僕らの世代はSFCに来て始めてインターネットに触れたり、始めてパソコンを買うような状況だった。それが2000年入学くらいから変わってきた。

インターネットの世界をつないできた人は、学術系の人たちが多かった。大学の中はLANが広がっているけれど、大学間は電話回線をつかうしかなかったんだ。大学の中は超高速なのに。当時は電話の上にインターネットが乗っていたんだけれど、それを逆にするのが村井先生の仕事だった。日本は当時国策として大変に遅れていた。ISDNっていって、既得権益にこだわるもんだから電話回線の上に高速なインターネットを敷設しようとしていた。そのときに通産省とかNTTが遅れていて、このままじゃ日本がつぶれてしまうよといって。それでまあ戦ってきたと。その成果として日本のブロードバンドの普及率は世界で一位になったんじゃないか?2000年ぐらいだよね。

そのSFCにしかなかったインフラの上で、学生達はなにをやっていたんだろう?

例えば体育の授業の予約システムは、当初は体育館の前においてある紙にわざわざ書きに行かなければならなかった。その予約をインターネット経由でできるようなプログラムを書いた学生がいて、そのシステムを大学側が取り入れた。と、そんなかたちでSFCの学生達は大学生活を自分で作り出すことは、当たり前になっていった。

十年経ってみて。では、SFCの役割はいったいどう変わってきたんだろう?

当時ほど、世の中一般と大学の中のインフラのレベルの違いは顕著ではなくなって、SFCの中で「インターネット」っていう時代はとっくに終わっていて、新たに「社会起業」っていうキーワードがでてきたんだと思う。今ブームになっているけれど、フラットな人間関係とか社会構造ってのがあたりまえになってきて。当時、SFCを卒業した人間は企業ではつかえないって言われたんだけれど、それはこっちからすると企業に勤めることが本当に幸せなのかな?って考えていた。それで起業家がたくさん生まれてくる。生き甲斐ってなんなのかな?こんだけたくさんの人たちが「働く」っていうことをやっているのに、働き方と社会の関係を考え直す、っていうことをインターネット的に始めたのが、SFC発の社会起業だと思うんだ。

「インターネット的」っていう言葉をよくSFCの学生から聞くような気がするね

自律分散協調、アドホック、ベストエフォート等々。インターネットが成立している背景にある技術的思想のひとつひとつが、「インターネット的」な事象である、と言える。たとえば自律分散協調組織ってのは、一人一人がミッションをもっていて、他人に依存をしないで自立して行っているんだけれど、共通のミッションをもっていてその範囲でお互いコミュニケーションをとっていきましょう。たとえば、ある人が突然忙しいからって抜けても、普段協調しているからフォローすることができる。といった具合に、インターネットはそれまでのヒエラルキーに基づく組織論や、既成概念を打ち破った、あるいみ「都合の良い」考え方を生み出すことで成立してきた。

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その他の大学において多くの場合ツールとして位置づけられている、インターネットというものが、SFCにおいてはコンセプト、思想そのものなのである。故に大学としてのオリジンにもなり、そこに集う人々の考え方の根本を成しているわけだ。そのような情報環境の上で、いかなる社会をつくっていくか?ということが、SFCの花形学部である環境情報学部の役割なんだろう。と僕は勝手に推測する。

なんかでも今日、点と点が繋がったのよ。SFCにはセルフモチベイテッドな、自分から問題やテーマを見つけて突き進んでいくことができる人がやたら多いなあって思っていたけれど、よくよく考えてみたらインターネットの持っているコンセプトを換骨奪胎して応用したら、そういう生き方になるのです。そんな環境を作ってきた村井純は有り難いなあと思うし、その先達には相磯秀夫というSFCの創設者がいた。すこっちにはその系譜に並んでほしいなあと常々思うわけです。

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日本のインターネットの父・村井純
http://tamachan.jugem.jp/?eid=399

創造性を最大限発揮できる環境作りの、現代日本における原点・相磯秀夫
http://tamachan.jugem.jp/?eid=595

SFC生その1 吉本龍司
http://tamachan.jugem.jp/?eid=380

SFC生その2 中澤久美
http://tamachan.jugem.jp/?eid=421

SFC生その3 柳明菜
http://tamachan.jugem.jp/?eid=550

SFC生その4 伊藤智子
http://tamachan.jugem.jp/?eid=551
| ひと | 00:15 | comments(0) | - |
華道家 木村貴史


ここ最近は人のイベントなりブログなりをお手伝いすること多し。そして今日もそんな日だった。おととい、華道家の木村くんが東京から車で京都にやってきた。今回は出張で、お仕事ということらしい。



voice of KYOTOなるウェブマガジンをやられている元博報堂の宮下さんという方がプロデュースされた、一年に一度、四条烏丸にある「flowing KARASUMA」というカフェで行われる浴衣イベントに、イベントに関わるアーティストの一人として呼ばれたらしい。



そして彼は、いつものように「コンテンポラリーな生け花」をする。僕の知っている彼は、もともと青山学院大学の学生さんだった。学生時代からフラワーアーティストの東信(あずままこと)がプロデュースする銀座の花屋さん「ジャルダン・デ・フルール」でバイトをしつつ修行をしていた。そんなある日、たしか2005年の秋だったか。彼はなにを思い立ってか、サステナでインターンを始める。



花屋のスキルだけでなくて、プロデュースもできるようになりたい、というようなことを言っていたと記憶しているけれど、その後、彼は、大学を卒業後、サステナにフルコミットで働いていた。彼はいろいろな人から大変しごかれた。いや、可愛がられた。笑。彼はしばらく素敵な宇宙船地球号の終わりの30秒間のミニコーナー、エココロテレビの担当だったり、エスプレという出版社から出していた、月刊誌エココロの、サステナ内での担当者であった。



その後彼は、本来の目標であった華道家に専念すべくサステナから離脱。昨年、海外進出のためにマカオを新天地と定め、新しいプロジェクトに取りかかっていたが100年に一度の不況により断念。僕はぶっちゃけサステナでの彼より、今のお仕事の方が大変向いていると思っている。笑。現在は、東京・青山を拠点に新進気鋭の華道家として活躍中。なのだと思う。

思い返してみれば、重森三玲について熱く語ってくれて、当時サステナに居候していたスウェーデンのプロダクトデザイナーのエヴァ・シュルツと片言の英語を駆使しながら東福寺の方丈庭園に初めて行ったのは、彼とだった。なんだかとても懐かしい。



そんな彼の本日の作品。一夜限りのイベントのための作品なので、終了後はたくさんの花を京都の麗しき女子達に配って、彼は東京に車で帰ってゆきました。

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PLANTICA|木村貴史
http://plantica.net/

Japanese Decorative Gigs 2009 in KYOTO
http://voiceofkyoto.com/jp/project/japanesedecorativegigs/2009/kyoto/

www.flickr.com|2009.07.05 華道家 木村貴史
http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/sets/72157620999222806/
| ひと | 02:47 | comments(1) | - |
泥臭いことをスマートにやりよるんよ グリーンバレー 大南信也さん
前回のつづき

いま、日本中の各地で地域SNSが無数に存在していると思うけれど、どれ一つとしてうまく機能しているものを見たことがない。日本においてはGREEに始まり、mixiで一応の完成を見たSNSと呼ばれるウェブサービスだが、これを地域限定で運用し、地域活性に役立てようとしている方々が、僕の周りの身近なところでもたくさんおられる。がしかし、あえてストレートに苦言を申したい。SNSなどというシステムなどなくても、地域情報発信ができるんだ!ということを身をもって体現されてらっしゃる方が、大南(おおみなみ)信也さんだと思う。



大南さんとは小豆島で出会った。おじいちゃんたちがBMWで島に乗り付けている様は少々異様で、ドン・キホーテの一行さながらな雰囲気ですらあった。うっかりブログにおじいちゃんなどと書いてしまったものだから、その後それをずうっと言われ続けている。笑。

そんな大南さんがリビングワールドの西村さんに出会ってイン神山のサイトをつくったことは、目の前で起こっている地域再生事業のエポックメイキングな最先端事例であるように見えた。



イン神山のサイトは、基本的にはWordpressをカスタマイズしたウェブログである。コメント機能ありトラックバック機能ありのいたって普通のブログシステムを、大南さんを中心とした数人の村人たちが記事を書いたり、コメント機能でコミュニケーションしていたりする。このサイトの大きな特徴は「写真が綺麗なこと」であろう。サイトをつくった西村さんは、一見地味な作業にも思えるが、カメラマンと一緒に神山で写真教室を何度となく行なったことが大きい。神山で行われていることが「そのまま」の形でかざることなくストレートにサイトコンテンツとして表現されるのが、イン神山の最大のポイントだろう。



大南さんは「アートは(地域再生のための)ツールでしかない」と言い切るところが最高に格好いい。日本各地のアートに関連する地域再生の現場を見てきたけれど、越後妻有にしても、代官山にしても、直島にしても。現代アートそのものについてああでないこうでないという話をする方々が大変多くおられるが、そんなことはどうだっていいのだ。有名であろうと、無名であろうと、アートに関わることがきっかけで、地域のおばあちゃんが学芸員のように語るようになったり、都会から若者が集まってくるようになることに真の意味があるはずだ。

僕は2003年の越後妻有で、外から来た人間として、現代アートのその先にある奥に「人と自然」があることを発見した。そこに、エコだのスローだのという言葉でしかいまだに表現できないなにかを感じたから、だからその先にある「DOTS」を「CONNECT」し続けてきて、遂に大南さんに出会った。彼は10年やり続けていたところだった。

1979年、つまり僕が生まれた年に、彼はスタンフォード大学に留学していた。そして神山に帰った。それから29年の変節については詳しく聞いてはいないが、そうやって一度神山を強烈に外から見た体験が「泥臭いことをスマートにやりよるんよ」という彼の言葉に詰まっているように思う。そのモデルは、誰かにとても酷似している。

そんな大南さんによって、徳島の山奥にひとつの理想郷ができつつあった。瀬戸内国際芸術祭のモデルはこの神山である、というけれど、あまりに規模が違いすぎる。さて、どうしたものだろうか。



大南さんのBMWの中に、この本がやはり置いてあった。だが、後部座席にはもっともっと興味深い本が置いてあったのです。

次回につづく
| ひと | 00:18 | comments(0) | - |
写真日記 5月3日 HIP - Home Island Project 伊藤智子


岐阜・中津川の社長、カタリバのくみちゃん、京都の柳明菜と続いてご紹介するのが、香川で四国を盛り上げようと頑張っているSFC生の、ともちゃんだ。東京に住んでいる四国出身の若者を集め、四国に関係あればなんでもあり、というHome Island Project(以下HIP)の代表をしている。会の趣旨について詳しくはウェブサイトを見てください。



なんでもあり、といっても、この人たちがやっているイベントはいちいちクオリティがやたら高いのが特徴であると思う。このときはJALと提携して、東京からラッピングバスに40人が乗り込み、名古屋、大阪を経由して、香川と徳島でイベントを行うというツアーの最中だった。



ともちゃんたちHIPの人たちの目標が、いつか四国へ帰ることである。現在は東京に住んでいる彼女たちは、着々と仕事も結婚も生活もなにも四国へシフトしよう、という非常に先進的なライフスタイルを構想しつつある人たちであると思う。



前日は瀬戸内国際芸術祭にむけての飲み会に一緒に行き、この日は、高松からフェリーに乗り込み、小豆島の農村歌舞伎を見に行った。



彼女たちとは、きっと瀬戸内国際芸術祭で一緒に活動していくことになるのだろう。たのしみ。
| ひと | 01:35 | comments(0) | - |
写真日記 4月28日 六館堂と映画監督 柳明菜


SFC生はほんとに日本全国どこにでもいるもんだが、ここ京都にもいるのでした。柳明菜は京都の清水寺近くにある二年坂に、2008年の9月にカフェをオープンした。六館堂というカフェは、彼女が清水寺に流れている「音羽の滝」を舞台に映画を撮影するというコンセプトのもと、まずはカフェ営業を始めた、ということらしい。詳しくは京都精華大学の筒井先生のブログをどうぞ。

現在25歳の彼女は、22歳のSFCの学部4年生のときに劇場公開を目指した映画「今日という日が最後なら」をつくった。とあるきっかけで行くことになった八丈島に惚れ込み、自分自身が監督となって指揮をとり大きな借金もしたのだそうだ。そして実の妹を主演女優にして、映画の撮影は三ヶ月で行われた。映画のコンセプトを気に入ってくれたサンプラザ中野さんが主題歌を歌ったが、さまざまなトラブルがあり、結局劇場での公開は見送られたのだという。

映画の内容はともかく、22歳で自分がここまで完成度の高い映画作品をつくれたか、と思うと無理だなー。と正直思う。映画制作というのはそれだけ多くの人を巻き込み、かつ、自分の世界観をはっきりとアウトプットしなければ出来ないものだろう。

そんな彼女は、今日も毎日京都・二年坂でカフェを営業している。カフェを黒字化できるかどうかが、彼女が今必死で立ち向かっている壁なのだろう。あんなに自分の世界観を真っ直ぐに表現できることがとてもとても羨ましい。京都で同じく世界観を広げようとしている仲間が近くにいることを嬉しく思う。





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ひと 2008.06.08 NPOカタリバとくみちゃん
http://tamachan.jugem.jp/?eid=421

ひと 2008.01.14「社長」インタビュー
http://tamachan.jugem.jp/?eid=380
| ひと | 00:52 | comments(0) | - |
NPOカタリバとくみちゃん
今週末、一年半ぶりに会って、その後24時間以内にまた偶然会ったくみちゃん。



7年前に、高校生と大学生が語る「NPOカタリバ」を設立し、現在は登録スタッフ数3500名にもなり、都立高校の約四分の一にはカタリバのスタッフが派遣されたことがあるらしい。感慨深いなぁと思う。


2001.12.15 慶應大学にて

彼女との出会いは7年半ほど前にさかのぼる。9.11の後の沸騰していた時期、メディア寺子屋のスタッフをやっていた彼女は、自分のやりたいことはメディアとはちょっと違うんじゃないかと思っていたらしい。

ちょうどその頃大学四年生の冬、就職活動もあまり積極的にやっていなかった彼女は一緒にプロジェクトをやっていた仲間からも独立して、高校生と大学生が勉強や恋愛のことを語れる場所をつくりたいと思っていた。そんな頃に出会った。そしてどこにも就職することなく卒業して22歳の4月1日、周りの友達はみな真新しいスーツで入社式に望み、これからの社会人生活のキックオフをする日に、髪を短く切ってスーツを着て、一人でオフィスにやってきたときの顔は忘れられない。そのときのことは聞いたことがないけれども、相当な不安とプレッシャーがあったんじゃないかと思う。


2002.10.5 第一回カタリバ

高校をやめて以降、日本の教育のいけてなさに憤慨していた僕は、そんな彼女のことがほおっておけなくなりしばらくあれこれ手伝っていた。ウェブサイトつくったり、パンフレットつくったり、やっていることはいつも一緒のことだけれど。そんな彼女がNPOカタリバを設立したそもそもの理由を、昨日久しぶりに聞くことができて嬉しかった。

「私の地元の友達と話していると、昔だったら彼氏の文句、今だったら旦那の文句をいい、文句を言っているだけでなにもしない。だけど私はSFCに来て、とてもショックだったんです。SFCの人たちは、なにか問題があったら自分から行動して変えて行こうとする。私自身そんな風に変われたことがきっかけです。そして高校生がそんな風になれる場所をつくりたかった。」

そっかそっか。そうだった。このあいだ村井純がSFCだって書いたけれども、そういう側面も大きかった。SFCにはセルフモチベイテッドな、自分から問題やテーマを見つけて突き進んでいくことができる人がやたら多い。だから、そこにはじめて本当に仲間を見つけることができたと思ったんだ。彼女はまさにそんな時に出会った一人だ。

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NPOカタリバ http://www.katariba.net/
| ひと | 20:37 | comments(0) | - |
猛吹雪の中で
昨日はスキー合宿で面白い人に出会った。
ウワサには聞いていたけれど、ちょっと考えられるラインを逸脱していた。
彼ならば、生きているうちに宇宙でも月でも行けるだろう。
絶対インタビューしてやろうと思った。
そうとう久しぶりに人に出会って刺激になった。
なんだろうねぇこの感覚は。
マエキタさんとか茂木さんとか上の世代からの影響とは違って
彼が同年代だからそう思うのかも。
彼がもし同じスキルや業種の人間だったならば、徹底的に打ちのめされていただろう。
20代のはじめの頃は自分の生き方に絶大な自信を持っていたことを
彼と出会って思い出した。
そんな自信は若気の至りだと思いこんでいた。
そしてそれを思う努力を怠っていた。
思い込みは、時に大きな力となる。
それと、どんだけ一人でがんばったとしても、
やっぱり、誰と出会って、誰と生きてきたかが
その人を作っていくのだなと、強く、強く、思った。
だから、あのとき藤沢に居たのだし、
だから、あのとき京都に居たのだ。
次はどこに行こうかな、と
少しづつ、思えるようになってきた。
| ひと | 19:57 | comments(0) | - |