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イノベーションは学びのプロセス 東京大学i.school 田村大


INSPIRE lab 第3回 イノベーションは学びのプロセス 田村大
speaker:田村大氏 @tamdai99(東京大学i.school ディレクター)
date & place:2010.08.05 まれびとハウス にて
participant : @MiUKi_None @tamachangg @a_kodama @scommunity @sotacafe @mikitty0905 @ryutaro_i @stkbys @8rukun @DialogueBar @t_mashiko @ikeyu @2gta9
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デザインって本当に人を幸せにしているのか?ランドスケープ・アーキテクト 山崎亮


トビムシ オープニング企画「ランドスケープアワー」studio-L 山崎亮
speaker:山崎亮氏(株式会社studio-L 代表)@yamazakiryo
date & place:2010.03.21
3331 Arts Chiyoda(旧練成中学校)1F 株式会社トビムシオフィスにて

僕はランドスケープデザインということをやってます。風景をデザインする仕事。1862年にニューヨークにセントラルパークをつくったフレデリック・ロー・オルムステッドという人がいます。

日本は幕末ですね。その当時マンハッタンはまだ集落が立ち並ぶ場所だったんですが、その時代に地政学的にいって将来ここに高層ビルが建ち並ぶ場所だといってここにあらかじめ緑の場所をつくっておくことが重要だと予見してつくったという。自分がこのような広い公園をつくる職能をなんと呼ぶかっていうことについて、こういう仕事は建築家って呼ばれちゃうんだけど、ランドスケープデザイナーの第一号だと言われています。庭を設計したり、会社や大きな建物で空いてるスペースに緑をつくる仕事をランドスケープデザイナーと呼んでいます。風景をデザインするって言ったとたんに「そんなことできるのか?」って思えてきてしまいます。あるいは風景の側からするとおまえにデザインされるのか?って思う。同時にコミュニティデザイナーって名乗っているときもあるのですが、コミュニティもどっかにデザインされることでもないと思うのです。ソーシャルデザインとかね。大きなものをデザインするときにつきまとうことなのかなと思っています。それが一点目の違和感

それから次に、これからどんどん日本の人口が減っていきますね。2100年には、1910年とほぼ同じくらいの人口規模になるんじゃないかと言われております。2050年で、1970年くらいの人口規模。つまり、これまで大阪だったとすれば、里山を壊して宅地にしようと言っていて宅地の周りの緑をどういうふうにつくっていこうというのがランドスケープデザイナーの仕事だったものが、これからはなにをつくっていこう?というわけです。人口が減っていくと同時に税収も下がっていきますから、公共事業っていうのも順調に減らしていかなければならないわけですね。
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個人発メディアの作り方 greenz.jp 鈴木菜央


INSPIRE lab 第2回 個人発メディアの作り方 鈴木菜央
speaker:鈴木菜央氏 @suzukinao(greenz.jp編集長)
date & place:2010.03.26
株式会社ビオピオ オフィスにて

written by @tamachangg
participant : @ryutaro_i @a_kodama @stkbys @scommunity @tumaMo @yu_nakamura8

だいぶあいだがあいてしまいましたが。iPadが発売する前、出版業界再編、黒船がやってきた!さあ大変だっていう妄想をばりばりにふくらませていた今年三月の末。ようやく楽しくなってきたと思っていた頃に、greenz.jp 鈴木菜央さんにお話して頂きました。

丁度一年くらい前から、急激に普及し始めたTwitterでたぶん僕の周りでは一番最初に使っていたのは菜央さんだったと思います。個人が発信する情報のポテンシャルが急速に高まっているのを、うまくウェブマガジンというメディアと結びつけ、ただ投げっぱなしの情報発信ではなく、ゆるやかにコミュニティ作りをしている舞台裏から、編集とはなにか?自分自身の暮らしとの一体化までありのままを語っておられます。
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松岡正剛 立命館大学 白川静 生誕100周年フォーラム
立命館大学 白川静 生誕100周年フォーラム
speaker : 松岡正剛氏(編集工学研究所所長)
data & place : 2010.06.06
立命館大学 衣笠キャンパス 以学館2号ホールにて

なんか京都にいると大学にばっかりいるな。と、思いつつ。精華大の翌週は立命館大学におりました。

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できるだけカジュアルな話をしたいと思いますが。1970年に漢字という岩波新書の本を出されたときに「遊」(ゆう)という雑誌を発案し、翌年創刊しました。私の27から8歳にかけての創刊だったんですが、非常に大きな挑戦でした。しかも当時漢字一字の雑誌というものは書店には無かったと思うのですが。私はなにかこれは時代に挑戦するために変えなければいけないと思いましてね。そこで遊というタイトルにしたのですが、それこそが白川先生が当時岩波新書から出された本に強烈なインパクトを受けたせいでした。後に白川先生に連載していただくわけですが「遊」という漢字の意味をお願いします、とお願いして書いて頂いたのですが、今度は道字論、道という字の話になり、約二年間くらい連載をしました。先生が最も好きな漢字が遊という文字だったということが解ったのはそれから更に二十年後のことでした。いったいなぜ白川先生が遊という字に注目され、私が惹かれたのか。それについてお話したいと思います。

私、編集工学や編集ということを仕事や研究にしております。編集というのは新聞を編集するとか雑誌を編集するというふうに使われておりますが、私は必ずしも狭く編集をとらえているのではなくて、人間がイメージを頭の中で浮かべたときに投影して、なにかに定着するまでのすべてを編集と見なしています。私たちの頭の中にはイメージというものがあるわけですけども、それがマネージされている。マネージというのはマネージメントという言葉でいま大変、企業では大事な言葉ですが、もしマネージメントがあるのならば、イメージにもイメージメントという言葉もあったであろう。そう思って、そこに分け入っていく。それが編集の仕事であり、研究だ。というふうに思ってるんですね。ということは、そのためにはいくつか、赴かなければならないことがある。一つは、幼児がどのようにイメージを言葉や身振りや、あるいはコミュニケーションにしているのかということを研究しているわけです。あるいは二つ目は、古代人はどうして言葉や文字というものを持ち出したのか。日本は古代、長らくオラルコミュニケーション、文字はつかっていなかった。少なくても漢字がやってくるまでは文字は使っていないんです。だとするといったいどうやってコミュニケーションをしていたのか?中国の甲骨文化の前はどうしていたのか?白川先生は、このイメージの世界になにがあるのかということ、どう社会化されたのかということを研究されたわけです。みっつめ、古来そのようなことはどのように学問になったのか。例えば言語学というのはいつできたのでしょうか?15世紀でしょうか、ルネッサンスでしょうか?ローマでしょうか?ギリシャ、あるいは漢の時代でしょうか?また、民族、あるいは風習、そのようなものを研究するようになったのはいつでしょうか。おそらくは文字が確定し、そのいくつかが民族あるいは国家にわかれ、民族言語が並立、あるいは林立、ないしは乱立してから、言語やコミュニケーションということが気になり始めたんですね。

国風というふうに書いて、日本ではくにぶりといいますね。脳とどう関係があるのか。手を振ると日本ではこっちに来なさい、ということになるし、英語圏では、あっちにいけっていうことになりますね。それと同じように言語と文字表現は変わってくると思いますね。白川先生の言語学には針が一杯出て来ますけども、身体性を持っていたんだと思います。例えば山水画というのは見上げる、のぞき込む、見通すというヨーロッパとはまったく違った遠近法の見方をしますが。先生は後に共時論をお書きになりますけども。日本の禅は、南の禅の影響を受けているんですね。奈良の仏教は最初、北魏仏教が入ってきていますから北から入ってきているんですね。それらは学問だけでなくて、芸能や芸術にどのような影響を持ったのかが重要です。





暮(くれ)ってのはシャーマンの女性の媚びを売っている姿を現しているわけですね。文字の中に芸能性や芸術性がとってもあったわけですね。野村万之丞は、中国のほぼ大半の芸能を訪ねて、弦楽や能とどう関係しているのかを調べていました。それは白川文字学の奥にある人間のパフォーメントとして大事なんですね。

以上のようなことを、私は白川先生の、漢字という本から衝撃を受けました。イメージとイマージの間にある世界に行かなければいけないと思ったわけでした。自分の仕事として、研究として、文字とか漢字を白川先生から教わりつつ(勝手に私が学ぶだけなんですが)ち、と、さを、子供がよく間違えますね。くさび形文字はだいたい途中で回転します。北九州に出土した卑弥呼の時代に、和という字がこのように 表現されているのですが。

文字の世界には人間の身体があるわけですね。腕のストロークがどれだけ動きやすいかが、文字の文化と非常に関係がある。編集的な思想や、編集的な変化に応じて、白川先生を学ぶということをしてきました。途中からそういう勉強の仕方ではまったく足りないということに気がつきました。それは、何故あのような白川先生が書かれたような世界は、今日無いんだろうか。あんなに素晴らしい生き生きしたものが、どこで失われたんだろうか。じゃあ、いつ失われたんだろうか。たとえば王という字はまさかりを持った字であったり、家という字には犬の犠牲が潜んでいる。くらいは今日でもなんとかわかるし、そういうイメージと連続的に持てるかと思いますが、イメージの中でいくつかの重要なものは、まったくどこかで失われているんですね。先生が言われた「巫祝王」(ふしゅくおう)という。絶対王ですね。こういうシャーマンはどっかでいなくなったわけです。卑弥呼の頃なのか、藤原の頃なのか、後醍醐の頃なのか。私の中で気になったわけですね。漢字というものはいつまで呪能を持っていたのか。やっとそこで白川先生の研究書を読むようになったのですが。





興(きょう)という字。これに驚きました。ピクトグラム、図表文字がいっきに甲骨文字に変わったわけです。それは周、もしくは殷の時代に絶対的な巫祝王が現れたわけです。それを、秦の始皇帝が全ての文字を一旦中止させて、文字を置き換えたわけです。長らく革命は、文字をつくりかえるか、通貨を切り替えるか、暦をおきかえることで成立しています。これはレーニンも言っていますし、ゲバラも書いています。

起興。興を起こすこと、というメソッドがあって、紀貫之が真名字(まなじ)をかいたときに、興というものがひとつのパスワードというかコマンドというか、なにかリーディングフレーズとなっているんですね。三歳、五歳の頃、私たちがなにをしゃべっていたのかを思い出せないように、私たちはあの時代を起興できないわけですね。万葉集は幸い、万葉仮名が入ってきてからまとめています。そこで白川先生は万葉の民俗学を研究されはじめたんですね。万葉の中の変化、たらちねの、と書いたらどうして母が出るんですか、ひさかたの、というとどうして光が出てくるんですか。古今和歌集の頃はまだそれが生きていて、生きたまま流布していて、百人一首にも伝わっている姿が見えるじゃないですか。驚きました。そういうことを持って、自分は単純に編集ということを考えていたな。と。幼児は、学校で文字を学んで、だんだんだんだん成長してくると、単純に思っていたんですね。どうもそうではない。むしろ、一旦失われることが、忘却のみならず棄却もある。本来私たちは発明したことの本筋や本懐を忘れるという本質に気がつきました。聖書の中にバベルの塔のような物語があるように、簡単に聖書には書いてありますけれど、ほんとにそうなのかなと。ネアンデルタール人は、既に死の概念があって、埋葬をしていたという。けれど文字は持っていない。漢字や文字の中で、そのままそこで封印されたこともあるんじゃないか。そのようなことから編集はリニア、線形的に進むということではなく、じぐざぐに、封印され時には殺害され、白川先生の、初期に研究室でお書きになられていた50代前半のものを読み直しますと、白川文字学というのは、封印と殺害と開示、によって構成されていると気がつきました。

さらに申し上げておきたいのは、そのようなことを辞書にされた。そのようなことは衝撃でした。当時先生は大量の原稿をお書きになったとおっしゃられていたのですが、辞書を書かれているとは気がつきませんでした。編集ってのはちょっと大変だぞって思い直しました。その頃に世界中の辞書をトレースするという研究に入りました。たとえばユダヤの民族の十二使のなかにも入っています。レキシコグラファーが、時代時代において、新しい概念革命を起こしていたということに気がつきました。辞書というのは既存の意味ということを対象にするだけでなくて、レキシコグラファーが、その時代時代に、セマンティックな提案をするということだと、やっと気がつきました。インクポッドタームという、例えばどうしてイギリスに議会ができたんですか。あるいはマグナカルタができたんですか。それらは全部レキシコグラファーがつくった理想的な概念なんです。英語というものをつかって、新しい自由ということやジェントルということを作っているんですね。リバーからライバルが生まれてきたり、その前のロビンフッドの時代には使われていたかもしれないけれど、そういう意味では使われていなかったわけですね。辞書というものはただならないものである。

辞書っていうものは戦争なんですね。革命なんです。三つだけエポックメイキングなことをお伝えしたわけです。
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作り手と売り手、そして使い手の関係性。エフスタイルのものづくり


京都精華大でのプレデザイン授業 第三週
speaker : 西村佳哲氏 x 五十嵐恵美氏、星野若菜氏(F/Style エフスタイル)
data & place : 2010.05.29 京都精華大学黎明館 L-001教室 2限〜4限

たぶん、いま一番興味のある分野かもしれない。ものを売って、買って、使うということは、イギリスで18世紀に産業革命が起こってから現在までの間に、分業化、専業化が繰り返され、そして20世紀の初めにアメリカでT型フォードが大量生産されるようになった時点でだいたいの基本形が完成した。その後100年を経て現在の僕たちがものを売り買いしている状況になっているのだけれど、様々な観点からこのシステムの矛盾を日々感じながら暮らしている。大量につくられることで発生する大量のゴミの問題。大量に販売されることによる造形としてのデザイン上の矛盾、プライスと流通の原則の前では、なにをやってもいいかのようなメーカーとマーケット関係者の振るまい。このような矛盾が何故生まれたのかということについて、僕も十数年ずうっと疑問に思い続けているし、そして西村さんという人も思い続けてきたのだろう。今回のお話は、その原因の一つに、作り手と売り手、そして使い手の関係性が希薄になってしまっているのではないかという仮説に基づいて、その最新の調査結果と挑戦の報告といったような内容だったと理解している。

日本のものづくりに魅力がなくなってきたと言われはじめてだいぶ経つけれど、この一年くらいで遂に終わり(と同時にドラスティックな変化の時期を)を向かえつつあることを感じている。崖っぷちのソニーが、自らの最大の弱点であるソフトウェア技術を補うためにグーグルと戦略的提携を行うなどの対策がとられているけれど。ひとつひとつ掘り返していけば、さまざまな問題点があったといくらでも理由付けをすることはできるけれど。そもそものところで一人一人の思いを丁寧に受け渡していくことを僕らは忘れていたんじゃないだろうか。等身大のスケール(ここが重要)で、そういったごく当たり前のことが日本の隅っこから、小さく小さく始まっていることが、どういうことなのかを考えるいい機会になった。
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ホントに持続可能な地域作り「西粟倉・森の学校」


オープニング企画 西粟倉・森の学校ナウ
speaker:牧大介氏(株式会社西粟倉・森の学校 代表取締役)@daisuke_maki
date & place:2010.03.18
3331 Arts Chiyoda(旧練成中学校)1F 株式会社トビムシオフィスにて

最近なんの仕事をしてるの?って聞かれると、なかなか答えに窮する。一言でいうと、ホントに持続可能なかたちでの地域活性をしてるところのお手伝いをしている。っていうことだろうか。たぶんこれからちょくちょくご紹介していくけれど、生物多様性イヤーに、まさかこんなに本質的に生物多様性に関わる仕事に出会うとは思ってなかったな、という感じなのです。

そんな地域作りをされている牧さんが、東京に出てきてお話されるというので行ってきました。大変長いのですが、最後まで読んでいただけると、きっと新しい世界の作り方が、ちょっとだけ見えてくるかなと思います。前回前々回の地球大学に行ってなかったらわからなかった文脈がたくさんある。けれど、その文脈の先から牧さんの話を聞いていると、本当にここには未来があるなあと思えてくるのです。

このところ毎日のように牧さんからのヒアリングを元に、ロゴのデザインを考えたりパンフレットをつくったりウェブの構想を練ったりしているのですが、近いうちに具体的なものをヴィジュアルでお見せすることができると思います。



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岡山県西粟倉村。人口1,600人の村がいまどのような挑戦をしようとしているのかをお話できたらと思います。森っていうのは出来てくるのにけっこう時間がかかる。自分の子供、孫の世代に財産として引き継げたら。そのような価値観がベースにあったわけですけども。家を守ってそれを繋いでいくとか。地域の自然を何世代も渡って繋いでいくということが難しくなりました。今は持続可能性だとか言葉がありますが。昔の人たちも自分たちの世代で消費し尽くしてしまうことはいいことだとは思っていなかったわけですね。青木さんといって地元の人で森の学校のスタッフですが、おじいさんが本当に一生懸命木を植えてこられた方なんですね。いまいるおじいさんおばあさんたちは、将来世代のためを一生懸命に思って植えてきたけれど、財産として興味を失ってしまっている。どんなに苦労をしておじいさんたちが植えてきたのかということを、孫に話す暇が無いんですね。いまのおじいさんたちは子供の頃に囲炉裏端で話を聞かされながら育っていった。



トビムシという会社が「共有の森ファンド」というファンドを立ち上げた。財産とか知識、技術。そこに込めた思いということをみんな一緒にして繋いでいくということはもうできない世の中です。ここ三年の間に40人くらいの人たちが一気に移住してきました。けっこうなインパクトなんですけど。森が好きで来てくれる人が増えたのは大歓迎だとおっしゃってる方がいました。都会に出てしまったお子さんに引き継いで、いくばくか財産にできたらいいと思ってらっしゃるんですけども、必ずしも自分の子供でもなく、外から入ってきていただける方でもいいと思っている。

まだまだ身体は動くと。70代で。だけども気持ちは動かない。誰も期待しれくれていないから。今、都会にいる人たちの中で、ほんとうに森を再生して美しい森に戻していけるといったときに、それを応援してくれる、出資してくれる人たちが生まれているんじゃないか。そしてこの地域作りに参加して頂く。場所を越えた村作り、地域づくりというものができないかという思いで、共有の森ファンドを始めました。その意味とか背景をご理解いただくには、大きく二つの節目を知っていただく必要があるんじゃないかと思います。ひとつは1960年代になにがあったかということ。それから現在に繋がる動きとして2004年。



1964年に東京でオリンピックが行われました。そのちょっと前にエネルギーが変わりました。その前1950年代にトラクターが入ってきました。地域の里山の生態系を循環してきて、木を切り出すとかっていうモーターが発達していない中で活躍していたのが牛なんですが、人間にとって重要なパートナーだった牛がいなくなったのが60年代前半でした。牛を養うために採草地が必要でした。日本中の山は採草地が大変広い面積が採草地だったんですね。西粟倉の山のうち1,000ヘクタールは採草地だった。そういう世の中の移り変わりの中でいらなくなった場所を、次の世代にどう引き継ぐのかということが当時の人々の大きな課題でした。家族ぐるみで山を育てるということをしてきた数少ない村です。そこが重要なひとつの転換期でした。



その次が2004年。当時、岡山県に美作市という大きな市が、合併でできるというときに、その合併協議会の中で合併協議会から離脱するということを決めたのが2004年でした。これもいろんな理由があるんですが、若い子供がいる夫婦は、このままだとあまり友達がいない学校で子供が育つことになると。合併して遠くの学校になってしまったとしても、バスで通うくらいの方が、友達が少ないよりはいいと考える人もいました。人口が減って、交付金も減って、地域自体が存続するのが難しいのならば合併する方がいいのではないかと判断する人もいました。しかし、合併しないということは、自分たちでなんとかしていくということを意味するのです。当時は1,700人くらいはいた人口なんですが、なんとかここで人が暮らし続けていかなければいけない。そのためには攻めに出ないといけないっていう。この村をどうしていくのかということを延々続けていく中で、2008年にひとつの旗を揚げたのが「100年の森構想」あと50年手入れを続けたら、こんな立派な100年製の木に囲まれた村ができる。昔にくらべていなくなった魚も戻ってくる。そんな地域が作れるんじゃないかっていうことで。まだ投資がいる。我々が計算した中であと10年は投資が続く可能性がある。今回役場が中心になって、400世帯が山を持っていると思うんですが、役場が全体を管理したなかで間伐をしっかりやりきろう、というのが「100年の森構想」であります。

貨幣経済が浸透して、1963年に水害が起きて土建事業が入ってくるとによって、人々は一気に金銭的には豊かになったんですけども、森はなくなっていった。
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地球大学アドバンス 第27回 生物多様性シリーズ : 2「生物資源と生物多様性条約」


地球大学アドバンス 第27回 生物多様性シリーズ : 2「生物資源と生物多様性条約」
speaker:竹村真一氏 × 長島孝行氏(東京農業大学 教授)
date & place:2010.02.15
新丸ビル エコッツェリアにて

竹村
蜘蛛の糸。構造的な強靱さ。あれにかなう構造物って人類はつくっているかなと思う。生物界には人間の創造のつかない凄いものがありますね。INAXは汚れないナノ構造のトイレをつくっていたりしますが、それはインドのカタツムリの構造からもってきている。インドネシアの蟻塚、非常に暑くなるんですけども蟻塚はクーリングシステムをもっている。シルクが紫外線とかガンに効くのかなって。人類はいままで進歩しすぎて自然を破壊してきたのではなくて、未熟だったから破壊してきたんだというのが私の持論でありますけども。生物種の大多数がものすごい勢いで失われている。一日あたり70km2の自然がなくなっている。面積において炭素の貯蔵限である森林が失われているとかいう量的な部分だけではなくてソフトウェアとしての部分が失われていること。そこにちゃんと取り組もうというのが今度のCOP10。このあいだのCOP15と同じ歴史を持っているのですが。自然をコンサベーション、多様性の宝庫である自然をいかに回復していくか。地球の気候の安定装置である熱帯雨林を保護していこうということもありますし、経済的な利益をフェアに南北でわかちあおうというのが生物多様性条約の論点であります。ブラジルとかインドネシアが、森を破壊してしか経済的に成長できないのではなく、ちゃんとそういう国々に経済的な資源が帰ってくる可能性。そういう問題も含めて人類の未来を考える岐路に立っている。

長島
生物多様性っていう言葉。中身がすっごく難しい。たまたま昨年夏に国連大学でシルクダイバーシティという名前で、一ヶ月間展示、講演をしました。一つはネイチャーテクノロジーっていったいなんなんだっていうこと。それからシルクダイバーシティ。地球のソフトウェアをもう少し有効に使う手段があるんじゃないか。それから米作りもやっていますがこれは時間があったらお話します。

繭(まゆ)はいろいろなものになります。粉にもなるし溶液にもなる。蚕以外にもまゆはいろいろあるんですね。Silkを超えたシルク。Cottonを超えたシルク。生物多様性条約。これは昔から言われている自然を守ろうと。それから利益を公正に配分していこうということ。生物領域とはちょっとかけ離れたところまで話はいくからいままでの生物学者の話では説明できない。

生き物。自然:シゼン:しぜん。なにも手を入れていないと漢字で書く。人間が手を加えたものをカタカナで書く。これ造園学だとあたりまえなのだそうですが、一番多様性にみちあふれているのはこの真ん中なんですね。田んぼの生き物ってトータルで2147種類もいる。2001年に文部科学省にレポートを出したんですね。人類というのは不思議な行動をとるんですね。再生不能資源(石油などの化石燃料)が21世紀のどこかで枯渇するんですね。それとともに再生可能資源も使ってしまうんですね。そして不思議なのが結果的に人類の人口まで減らしてしまうのです。再生する資源を先進国の人たちは使っていかなければいけないので。僕らが行っている「千年持続学」っていうのはここらへんのことを行っているんですね。千年持続するような、そのくらい長い年月で社会っていうものを考えていかなくてはいけないよ、ってあたりが私の研究の基本です。

20世紀の科学から脱却しなけりゃいけない。これを科学者に言うのはなかなか勇気がいるんですよ。なんてったって20世紀の科学は間違っていたってことを言わなきゃならない。全部ダメだったとは言わないけど失敗も数多くあった。枯渇する資源に委ねてしまったってこと。それに右をならえをしてしまった。今更と僕は思うわけですが。石油が使われ始めてからわずか半世紀です。それまでは自然という資源をつかって活動していたわけです。人類がなにを愛するのか。中にはものすごく自然を愛する人もいます。自然を残したければどうしたらいいのか。それは人類がいなくなればいいわけです。その駆け引きが難しい。
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| ログ | 14:34 | comments(0) | - |
ネットビジネスイノベーション政策フォーラム 孫正義部分のみ


慶應義塾大学SFC研究所 ネットビジネスイノベーション政策フォーラム キックオフシンポジウム
speaker:孫正義氏 @masason(ソフトバンク株式会社代表取締役社長)
date & place:2010.02.04
グランドアーク半蔵門 富士 (4F) にて

ちょっと賑わってたので、テープ起こしならぬustream起こしをしてみました。
録画されたustreamの映像はこちらで。また、twitterでの議論は #nbipol で見ることができます。



孫さん、36:00あたりから

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ちょっと今日は、ソフトバンクのためというよりも、ヤフーのためというよりも日本の成長のためにどうあるべきか。日本の国民すべてのみなさまの願いではないかなと思います。このためになにをすればいいか。ITの角度から考えてみました。12月末に鳩山総理から日本のGDPを2020年に650兆円にしたいと。GDPを毎年3%ずつのばしたいと。大変大賛成であります。ヴィジョンのない国家はたいへんふらつくことになるわけですけども。環境と健康と観光。この分野で50兆、45兆、10兆円増やしたい。合計で105兆円になるわけですけども。650兆円と、現在の500兆円若。これに105兆円足してもギャップの70兆円があるわけです。これをなにでうめるというお話はありませんでした。ここで私は情報立国として70兆円を埋めるということを提言したい。三つの成長分野のところで、一番大きいのがITの70兆円の部分になるのではないかと。過去十数年でいろんな産業を見てみますと、唯一一番伸びているのがこのITの部分なんですが、孫子の兵法にもあるように「勝ちやすきに勝て」という話があります。成功させるためにはのばしやすいところを更にのばす。国家にしてもそうだと思います。いろんな他の産業ものばさないといけないんですけども。80年代、日本は電子立国ということが大いに言われていました。現在では電子部品を組み立てるということについては、台湾、中国、韓国といったところにだいぶ差を縮められてしまった。むしろ逆転された部分もある。だからこれからは情報立国としてレベルアップしなければならないかなと思うわけです。なんか今日はustreamでストリーミングされているようですけども、twitterでみてみるとプレゼンの資料がアップされていないというお話があったようですけども、是非カメラの方はときどき画面も映してほしいなと思いますが。
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地球大学アドバンス 第26回 生物多様性シリーズ : 1「地球の担保『種子』を守る」
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世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。
シンポジウム「伝統の文様・図案・意匠の重み」-京都の知恵が新たなトレンドを生み出す-
speaker:トトアキヒコ氏(唐長・KIRA KARACHOプロデューサー) 
date & place:2009.10.23
京都商工会議所 講堂にて



今年七月に知り合ったトトさんが、唐紙についてお話されるっていうので行ってみた。

ちょっと、ひさびさ、言葉に感動した。文字として読んでもつたわんないかもしんないけれど。和とかモダンとかに囚われてると危ういなあと。その後の登壇者がそういう表層に囚われていることとコントラストがはっきりくっきりしてたからかもしれない。和モダンとかってテーマでインテリアやりまくってきた人が、とても痛いのは、表層に駆られてしまって、ぜんぜん勉強していないからかもしれない。トトさんの締めくくりの言葉に、自分がなにに惹かれているかということの、輪郭がはっきり見えてきた気がする。
僕たちはあまり「和」ってことを思ってないんですね。ユーロアジア全体の人類の営みが文様として入ってきたり、シルクロードを通じて入ってきたこと。世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。唐紙自体には、版木の力、先人達の力がいっぱい宿ってるんですね。そういうものを写し取れたときに、美しい唐紙が生まれるんですね。だから単に装飾されただけのものではありません。
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写真:トトアキヒコ

文様(もんよう)。文(もん)。文様は文化そのものだと思っています。子供が生まれたときに、ひたいに×印を書いたんですね。それが文。非常に呪術的なところから始まっている。京都では子供のことを「ややこ」っていいますけれど、それが文(あや)になっているんですね。

桂離宮でありますとか二条城でありますとか、公家武家商家問わず、しつらいとして唐紙をやってきたのですが、それをどう今の暮らしに溶け込むのか、ということを企画しています。



昨年の春にミッドタウンの「とらや」で行った展示。会場内に水を張って、水面に唐紙の明かりが映り込む。桜の舞い散る静かな空間を感じてもらいたかった。静かさと儚げ。唐紙ととても相通じるものがあった。



「青い桜」
唐紙の美術的価値に光をあてるという試み。唐長はよく伝統工芸っていう言葉をつかいますが、僕は単なる伝統工芸ではないと思っています。和紙の文化であるということと、文様美という二つの価値があいまっている価値だと思います。自然界への畏敬であったり、人類の英知そのものであり、はたまた呪術的な祈りの形だったり。今なお生まれつつある現代の美。妻である愛子とともに四ヶ月展覧会をしました。青い桜をつくりました。明け方の空をイメージしたんですけれど、明け方のあおい舞い散った桜が光を受けていると、桜の色は青なんじゃないかと。



「波紋」
唐紙を通じて世界が平和だったらいいなーっていうことをこの頃から思うようになりまして。この渦の文様はですね、派生と終演。西の極み、今でいうアイルランドに遺跡としてたくさん残っています。それは東の極みである僕たちがいまなお使っているというのは、文様をつかって世界が通じているということなんじゃないかと思います。ケルトのひとたちは、いのち、太陽、死生観としてつかっていたようですが、今の私たちは水を感じる人が多いと思うんですね。宗教、文化もそうだが、時代時代で意味が編集されている。ということで渦の文様っていうのは研究材料になるのではないか。松岡正剛さんの本をたまたま読んでいて山川草木悉有仏性(さんせんそうもく、ことごとく、ぶっしょうあり)ということばがあり「すべてのものに魂は宿っている」山を見ていて、葉の色があったり、蝶の色があったり、そういう山の美しさを表現できないだろうか。そう思って手がけたのがこの紙なんですが。従来の刷毛などで染めるやりかたとは違いまして、ひとつひとつ私の手で染めています。ドットというか点になっていると思うのですが、3メートル全部染めるのに三万回とか四万回という行程でつくっているのです。不揃いの中に透明感をつくるという試み。文化人類学の教授である竹村真一さんという方がおられるのですが「触れる地球」というプロジェクトの一環でイスラム美術館に唐紙が納められることになりました。



「祈りの形」
十字架っていうのは、単にキリストの十字架っていうことを意味しているのではなくて、東と西の融合ということを私なりに考えて、唐紙にメッセージを託した。九曜文(くようもん)。空海がもたらした文様なんですね。もともとインドから中国に渡った星占術の中に描かれているのが九曜紋ですね。これを十字架と組み合わせたことで、東の文化と西の文化として組み合わせた。ちょうどこれをやっていた時期が七夕っていうこともありまして。つくってみてから、はくちょう座のくちばしにアルビレオっていう星があるんですね。気になって調べてみると385光年の星だったんですけど、385年前にきらんと光った光を今見ているんですね。385年前というのは唐長の創業なんです。そういうことが唐紙に自然と現れているのが初代からのメッセージなのかなと。



「Inochi」
鳥がたくさん飛んでいるのですが、先頭の一羽だけ青い鳥なんですね。長いかたは三時間くらい眺めてらっしゃいました。感情という言葉が適切かわからないんですけれど、研ぎ澄まされた感情や感覚の中で生まれたものっていうのは、普遍的に認められるのかなと思うのですが、英語でいうと「ああと」っていう言葉になると思う。先頭の一羽だけは幸せの青い鳥です。実はこの四作目のいのちっていう唐紙は、東洋西洋の古代美術のコレクションをされている国内でも指折りの美術館があるのですが、そこのオーナーさんのコレクションに入れていただくことができました。


僕たちはあまり「和」ってことを思ってないんですね。ユーロアジア全体の人類の営みが文様として入ってきたり、シルクロードを通じて入ってきたこと。世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。唐紙自体には、版木の力、先人達の力がいっぱい宿ってるんですね。そういうものを写し取れたときに、美しい唐紙が生まれるんですね。だから単に装飾されただけのものではありません。

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唐長
http://www.karacho.co.jp/

静寂と美を紡ぐ唐長トトの写真とことばによる「唐長美術館」への軌跡
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