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tamalogOutput and input from 1998 to 2010
2009.12.01 Tuesday
コンセプト
名古屋には、というか愛知にはひとつ心残りになっていることがある。八丁味噌で有名な岡崎にある吉村医院という産婦人科の話。あの大変にぶっ飛んだじいちゃんの先生の話はいつか書かなきゃなぁと思いつつ、一年前のツアーのときは書かなかったのは、いまがそのときではないなーと思ったからで。 まさか昨日、名古屋に柳明菜がいるとは思わなかったが、彼女の口から大本教の話がでて来るとは思わなかった。この数年たびたび聞く大本(おおもと)という名前はそもそも、アレックス・カーが京都亀岡の本部に勤め、そこで日本の伝統芸能を学んだ場所であり 芸術を重んじた活動方針を持った宗教が日本にあるなんてことがとても驚きだった。それもまるで先日のダライ・ラマ法王14世の言っているように、なにかを宗教として押し付けるようなことはなく、とてもオープンな雰囲気を持った大本教とはなんなんだろう。 ただひとつ言えることは、なんらかしらの哲学、コンセプトを持った思想集団というのは、教義の押し付けなり、権威主義化しない限りはとても魅力的であるんだろう。SFCだって大学というよりは宗教みたいなもんだ。 しかし残念ながら慶応義塾自体には現在あまりこのようなコンセプトは感じられない。最近調べていく過程でわかってきた事は、村井純に限らず、24年前に慶応義塾が藤沢に新しい学部を作るにあたり、全学部から集められた23名の教員が開校までの三年間、毎週末集まりディスカッションを続けたという そのディスカッションの中で生み出されたコンセプト、哲学が「未来からの留学生」というコピーになり、成果として創造的な人達の集る場になったということだ。上杉謙信しかり、カストロとゲバラのキューバしかり、生き方のコンセプトを貫いてそれが感じられることに、きっと僕らは共感するんだろう。 しかるに、そのコンセプトや哲学を持った集団が、政党であれ役所であれ宗教であれ大学であれ企業であれNPOであったって、共感するにあたいする点さえ共通すれば、事業体系などというものは目的にあわせておればなんだって良いのではないか。 ただ、おのおのの領域において甚だしく形骸化してしまった成れの果ての、腐乱死体のようなものがあまりにも多く、それに引きずられてゆくことは本意ではない。そのためにはこの世に哲学というものが必要なのであり、コンセプトはなんなのか。なんのために生きているのかということを常々考えていたい。 ...と、そんなことを東海道線の中、名古屋から京都まで二時間ちょっと、延々考えておりました。文章がぶつ切れなのはTwitterに書いているからですが。 2009.11.17 Tuesday
情報発信主義宣言
インターネットを中心とした「情報」を取り巻く環境が、大きな変化の時を迎えている。 2009年11月11日からの数日間。twitter上でこの国におけるインターネットや情報、メディアといった分野の歴史がいくつか生み出された。来年度の日本の国家予算を決める「事業仕分け」のストリーミング映像を見ながらtwitterで呟いていた、いや大激論をしていた人たちは、いくつかの歴史的瞬間を見ることになった。これはちょっとしたはじまりのはじまりなのかもしれないが、インターネット創世記の頃にあった創造的な、エキサイティングな空気を感じる。 事はそれだけではない。先日、深夜twitterを眺めていたら「東龍なう!」と呟かれていた。それはつまり、僕の家の近所のラーメン屋の名前が出ており、そこに友人が、自分がいまそこにいるということをそれとなく伝えていたのだ。それを見た瞬間、僕は彼に電話をかけていた。そんな些細なキャッチボールが成立すること。 それから、最近のtwitter動向を探るためたびたびSFCを訪れているが、とある授業を聴講しているときに、同じ教室のノートをtwitterで書いていた学部生の女の子から、とてもよく知っている人の名前が飛び出してきた。その子の居場所はわからないが、ここかなと思った場所を指し示してみると、彼女は先ほどの子の友達だった。というような出会いが起きたりすること。 このようなことが何故起きうるのか。それはやっぱり情報をある程度開示しているからにほかならない。 情報発信主義宣言 情報は、恥ずかしがらず公開することが大事なのである。誰になんと言われようと公開することが第一歩なんだ。不完全な情報でもいいのです。その瞬間、生み出された言葉は真実なのだから。そして、どんな内容であっても公開された情報をネガティブにバッシングしてはいけません。 公開された情報にポジティブなフィードバックをすることが、きっと誰かを勇気付け次の新しい価値を生み出すんだっていうことを信じなくてはならない。それはなにか、いいことを言わなきゃいけないんだなんて思わなくっていい。ブログでもいい、twitterでもいい。インターネット上に発信すること。伝える事をためらってはいけない。 ひいてはそれが、仮想空間で完結する事なく、生活空間にも結びつけていくことを忘れてはならない。とかくデジタルが否定されがちな風潮をいちいち気にする事はもうやめよう。インターネットがわからないというのは、もはや単なる思考停止でしかないのだから。 発信された情に「報いる」ということが、情報っていう日本語の語源なのだから。情報発信するということが新たな未来を作り出す源泉であると、僕は信じてやまない。 我が国の情報を司る最高学府の一つである、未来を創る大学にて。 -- Twitter「なう」のリアル http://d.hatena.ne.jp/sotacafe/20091029/1256829628 2009.05.09 Saturday
正直者が馬鹿を見ない社会づくり
嘉村賢州率いる京都のNPO。場とつながりラボhome's viの大変フリーダムな面々と、加賀・小松に九谷焼を見に行ってきた帰りに、有益な議論をしました。いや、最初は演説しました。笑。でもいい振りだったと信じています。青春の1ページなのかもしれないけれど、これをここに刻みます。 -- 若者が自炊をしないなどと言われるけれど、そもそもうまいもんをつくろう!と思えるようなインスピレーションが沸くスーパーマーケットがないじゃないか。今のスーパーのレイアウトで、よくなにをつくろうかなどと思いつくもんだと常々思う。 問題はそれだけではまったくないわけで、見渡してみると、世の中の一つ一つが許せないことに気が付く。食の問題への仮説をうちたてているのが木村さんのリンゴで、子供を産み育てることの問題への仮説をうちたてているのが吉村医院だよね。病院なんて行きたくないよね。病気になりそうで。家の問題にしてもそう。東京のマンションに何千万円も支払ってなんて、とても住みたくない。教育の問題、学校に代わるものがまったくと言っていいほど存在しないことが、最大の問題である。いまだ、義務教育は軍隊訓練施設として、戦後も変わることなく兵隊を増産している。武器はお金に代わり、兵隊は毎日満員電車に揺られて戦地へと送り込まれてゆく。この構造の根本的な部分はいまだ「まったく変わってない」のである。 問題の源泉をたどると、霞ヶ関に辿り着くことが多い。農林水産省、国土交通省、厚生労働省、そして文部科学省。文科省は最後の敵だ。ラスボスのようなもんだと思う。しかし、ないないと愚痴を言っていても仕方がない。創造的に新しいものへ、古い物を作り替えていかねばならない。 だから最近のトピックは国をつくることだ。ゲバラの話を僕がいままで29年間に集めてきた知識を総合して判断するに、明治維新なんかよりよっぽどリアリティがあって現実的なストーリーだなと思っている。彼らはそれをやっちゃった。幕藩体制は移動の自由が存在しないことは嫌だけれど、文化と経済のバランスという意味では、理想だったのかもしれない。でもそのときの感覚は僕らには解らない。だから、古き物を伝承している人たちに会いに行かなければならない。 では、政治を変えて地方分権して、政策立案をすることで規制を撤廃していけばいいのではないか?しかし、そんなことをしていても、時間ばかりかかって実例はできてこないだろう。実例をつくってしまって、それにあわせて法律を変えていくしかないのではないかと、最近思い至る。ゲリラでやってしまうしかない。一生ゲリラ戦だ。 社会がどんどん単一的に、効率的に処理可能な記号になっていっている。共産主義にせよ資本主義にせよ、大枠で見たとき、20世紀は普遍的にフラットに交換可能な社会を目指してきた。結局、あらゆる空間は金に変えられるという枠組みからは抜け出すことができなかった。 ここでメタ認知能力というトピックが登場する。村社会というのは、メタ認知が欠如し、かつ単一の思想によって完結している世界のことをいうのだと定義しよう。何度も言うが、このような状況は江戸時代ならずとも、現在でも一般的に起こっている事象である。ある程度自分を廃して、メタに世界を認知することができなければ、アート作品を見て純粋に感動することはできない。 アートに感動するには、それだけの知識と経験の蓄積が必要だ。そもそも、人は生まれた時点で、なにかに感動する価値判断などできないのではないだろうか。もともと生まれながらにして感性は備わっているにせよ、一定の価値判断力を蓄積しばければ、判断のしようがない。人がなにかに驚いて、それを純粋に受け止めることを真似ることでしか価値判断を行うことはできないと最近思う。そうして、いままで出会ってきた人たちの価値判断をインプットし続けてきたからこそ、本物を見つけると、心躍るのだ。 そもそも、そういうことを始めたのは、高校をやめて、レールから外れた瞬間に自分で生きていく必要が生じたからだったのではないかと思う。でも、それだけではなくて、たぶん子供の頃に、一からものを作るということをさんざんやっていたからなんじゃなかろうか、ということに気が付いた。手仕事の大事さということの意味を考えさせられる。なんとかの資格がないから、やってはいけない、では済まされない状況ではないのだろうか。 僕らのおじいさんくらいの世代の人は、人が生きる、ということに対して、平均的なスキルを持っていたのだと常々思う。ちょっと家が壊れても、直すことができることや、食に対しても医療に対しても、最低限のことはこなすことが出来た。それが僕らの世代にはまるまる存在しないのである。仕事も恋愛もなにもかも、すべてが選択式。選ぶことでしか、生きていくことができない。つまり、作り出すことができないという致命的な構造欠陥を内包している世代なのだ。 年金など絶対に払いたくない。人口構成比を考えれば、どこに負担がかかるなどもはや自明なのに、これがもし税金化などしたら、いよいよ戦う時だ。メタに世界を認知したときに、ふと気が付くことは、最大の敵は親の世代なのかもしれないという避けがたい事実がそこにある。どこぞの国のように、銃を持って戦うというリアリティーがこの国にまったく無いこと自体が、既にスポイルされている証拠だ。 自分がなにをしたいのか解らないというようなことは、その人自身が悪いのではなく、システムが悪いのである。そんな社会作りをしていきたいのが、home's viだ。(by 嘉村賢州) 自立心が本物を生み出す源泉だ。自立している心であるから、主体的に、創造的になれるのであろう。 賢州たちは、そんな世界への繋がりをつくれ。僕は常にゲリラとして代案を作り続けよう。 -- とまぁ、こんな話を二時間もしている間、小松から京都へ延々運転してくださった、世界で唯一の竹画家の八十山和代さん、大変ありがとうございました。 2009.04.21 Tuesday
メタ認知と認知限界
目下最近、頭痛がしてくるほど悩ましいテーマだ。どのようなことをしていても、大概のことは「メタ認知」と「認知限界」という2つのキーワードにおいてほぼ共通する。 最近一番困る質問が「どちらにお住まいですか?」というお決まりのやつである。東京と京都と四国を行ったり来たりというライフスタイル自体がまずそもそも認知されなくて毎度毎度説明が大変だ。現代においても、人は必ず定住地があり、そこから毎日決まったサイクルの生活があるもんだと決めてかかってくる。これを説明するだけでひと話盛り上がれるわけだが、これが毎日になってくるとだいぶしんどい。しかしこれを逆に活用すると嬉しいこともある。東京に居るときに、京都の友達から「いまからラーメン食いにいかへん?」とか誘われると内心「やった!」と思ったりする。無論、そんなにすぐに行けるはずもないけれど。 そもそもなんでそんな実験をしているかっていうと、自分自身のメタ認知を突破するためだと思っている。人間不思議なものでずっと同じ場所にいると、自己を認識できなくなってくるのだ。組織にしてもそう。自分の属しているコミュニティにしてもそう。いわゆる村社会化というやつは、メタ認知能力の欠如によって生まれる心理学的な現象だ。現代においても会社の中に一歩入ればそこはメタ認知能力の欠如しまくった世界が広がっている。だから人は皆旅に出たくなるのだ。旅に出ることで自己を発見して、また村社会に帰ってゆく。 その次に困る質問が「なにをされている方ですか?」というやつだ。何年か前までは、いかに自分をわかりやすく他人に伝えるかということに執念を燃やしていたように思う。「ウェブデザイナーです」と一言で説明することはできるけれど、僕はその紹介のされ方が一番嫌いだ。ウェブデザイナーという言葉は、2000年あたりから、商業的な広告仕事の下請け仕事のみを指す言葉として認識されるようになってきた。大変申し訳ないけれど、もう何年も企業の広告になるようなウェブサイトをつくった覚えはないし、それにインターネットは、ただのツールであって、ミッションがあってその解決にとても有効なので使っているだけで、場合によっては紙に印刷するものもつくるし、最近はインテリアだってやっている。説明のしようがないから、もうあとはブログを読んでもらうくらいしか、ご理解いただく方法が無いのですが。 話は飛ぶが、京都という街は認知限界において特に深刻な問題を抱えている。この街が他の地方都市と決定的に違うのは、よそから「人が多く来すぎる」ことだ。その地域性から自己と他者を強烈に区別するために、資本主義の概念とあいまって、観光業、という凄惨なビジネスが、外から来たものを基本的に「食い物」として認識させている。「観光客ユーザー」としてモノカルチャー的に扱われるおきゃくさんは、お金を落としていってくれる装置でしかないという認識をした時点で、不幸のサイクルが加速しているように思われてならない。ここから脱出する道はひとつ。「本物を伝えること」のみである。 その本物を日本文化において追求している人たちを巡り巡っていると、とても外国人が多いことに気が付く。1823年に来日したフォン・シーボルトに始まり、ラフカディオ・ハーンやブルーノ・タウト。それに最近では伊藤若仲を日本人に紹介したといっても過言ではないジョー・プライス、それに最近仕事として関わりを持たせてもらっているアレックス・カー。彼らは本当によく日本のことを知っている最高の先生だ。日本の「本物のある場所」は、どんな観光的なガイドブックにも載っておらず、むしろ彼らが見つけ当てるのだ。なぜなら、日本人にとって日本の文化や自国の文明の特質は、あまりにも当たり前のものでありすぎて自覚されることがなく、異邦人の外からの視点によって発見され、相対化される。 遠さ、という意味では最近、宇宙をテーマとしたプロジェクトにも関わっているのだが、宇宙に行ったということは、人類にとってテクノロジーの進歩を評価するのではなくて、最も認知限界において遠いところまで行ったという点で評価するべきかと思う。スルタン・ビン・サルマン・アル=サウドという宇宙飛行士は、あるミッションにおいてこのようなことを言い残している。 最初の一日か二日は、みんなが自分の国を指さした。・・・と、ここまで書いて、4ヶ月前にも似たようなことを書いていたことを思いだした。 2008.12.05 遠いからこそ、よく見える http://tamachan.jugem.jp/?eid=491 結局のところ「なにを未来であるか」という認知をしているか「世界をどう捉えているか」ということに尽きる。 今年の初め頃、キューバが長年、相対的に共産主義だということで区分けされていたことが間違っていることに気が付いたときに、カストロやチェ・ゲバラが、マルクス、レーニンよろしく共産主義になりたかったわけではなく、彼らの理想とする生き方を実践するためには、1960年代の中米ではあの方法しか無かったのだ、ということを認識した。アメリカに支配されることなく、自立した生き方を、自分たちの未来として認知した場合に、ソ連に近づくことでしか成し得なかったのだ。それをただ、赤、っていうことでしか認知しないのは、記号化に迎合する知的怠慢である。 大義名分としては認知限界を突破するために、極端なまでに我々の住んでいる社会はアルファベットよろしく記号化されつつあるわけだが、単一的に記号化すればするほど現在の状況は深刻になっていくように思えて仕方がない。まあきっとその辺でよく言われていることだけれど、単一的に記号化して、金銭によって交換可能にした果てに2008年の9月のクラッシュがある。その結果がどうなることかがよく解ったにもかかわらず、いまだにすべてが交換可能と信じて、手作りを一切せずに組み合わせだけでものを考えることが、いかに知的怠慢極まる行為であるかを、よくよく認識されたい。 2009.03.09 Monday
僕は個人の経験値から、世界を見たいんだ
ずいぶん前から、おすすめのスポット情報をブログで公開している。 http://tamachan.jugem.jp/?cid=15 なんでこんなことやってるかっていうと、こういうのほんとはちゃんと、googlemapAPIを使ってつくりたいんだよね。おすすめスポットAPI地図的な、あくまでも「自分のブログにエントリーした記事」をベースとして、ボトムアップされるインフラストラクチャー。なんていうか「自分のブログ」と、世界をつなぐ方法が、もっとあってもいいのかなと。今は大半が本のレビューならamazon.com、家電の評価ならkakaku.com、写真ならFlickrの方で一元管理されているのがとてもいやだ。インターネットの大きな方向性として、各個人のブログをベースに情報発信、整理されていく新しい形になっていくんじゃないかというふうに、何年か前から思い始めた。 それが、なにをきっかけで、そういう方向に突破されるかっていうのがいまいち見えて無くて、いまだ上記のようなポータル型を続けている。それがおきると、mixiのような小宇宙モデルは崩壊する。SNSは過渡期のスタイルに過ぎないと思うんだけれど、googleの存在って、つまりそういうことだよねえ?と。 僕はたぶん、あらゆる情報を、マス情報でなくて、ガイドブックではなくてものすごく恣意的な、個人の経験値から世界を見たいんだ。 僕は、好きな人が好きなものを徹底的に取り込んでしまうクセがあるのですよ。だからね、余計、そういう個人情報発信的な世界であってほしいと望む。価値判断を、なにを基準に行うのかっていうところで、知り合いの、友達の、さらには恋人の、いいっていっているものが、いいと思う。なんかね、たぶん、僕は情報を「自分の目指す道を選ぶための指標」としてずっと考え続けていて、ただ単においしいお店ってどこ?っていう平坦でありきたりなグローバルな価値なんて、最初から無いと思っていて、グローバルに見渡した上で、どれがいいかを「選ぶ」。選択社会においての生きていく道筋であったのね。 そりゃまあひとことでマスメディアの次の世界っていう言い方をすれば、インターネットが標榜している世界って、そうやってみんなで経験を共有することによって、最適化していこうっていう動きなんじゃないの?まあなんかここで言いたかったのは、世界を良くしていくためには、みんなきちんと情報発信しなきゃねぇ、っていうこととと、あとは切り取り方ですよねぇ、っていうことかなあ。そういう意味ではクリエイティブ・コモンズ以前に、情報は共有することが前提で当然だ。 昔。日記サイトが始まった頃、好きな娘の日記とか読んでて、ものすごい妄想したり、男の話が出てくるとショックだったり 笑。それが今はmixiとかブログで起きているんだけれど、あれって価値判断の大きな動機であって、価値の刷り込みがされるんだなあ。好きな娘の日記読んで、同じことをしてみたくなったり、同じものに共感しようとする本能が、価値観を与えているという。でもそれって、誰かにコントロールされた価値観を広告を通じて刷り込まれるよりは、まだだいぶマシかなと思う。バリエーションもあるし。その辺に、ブログとか公開日記の力があると思っているのですが、如何に。 2009.02.22 Sunday
選択式にっぽん
去年のある一時期、一番欲しかったものは、すべてお金では買えなかったときがあった。お金で買えるって、どういうことだろう? 江戸時代の遊郭には、なにか非常に憧れるものがある。遊郭の場合は、現在の風俗とはまったく違い、女性側に拒否権みたいなのものがあって、お金のやりとりは前提だけれど、関係性にきわめて恋愛に近いものがあったのだって。愛情をお金で買うことは、究極のパラドックスだと思う。つまり、それが現在は存在しないっていうか、お金のやりとりのみになっているというつまらなさ。 どんどん記号化している。 すべてが交換可能という前提のつまらなさ。 選択することしかできないことのつまらなさ。 恋愛も選択式になっていることのつまらさな。 仕事も選択式。キャリアも選択式。 そんなものはまとめて洗濯しちまえ(笑) 恋愛も選択式なのだ。結婚式とか、もう、最悪。結婚式屋と式場儲からせるだけの仕組みになってるところが。クリスマスにバレンタイン。挙げ句の果てには恋愛していないとやばいんじゃないかっていう恐怖感。あおるあおる。あおっている当事者ですら、あおられているという本末転倒な状況。紋切り型を、いちいち言ってるときりがないけどさ。 そのつまらなさに気が付くきっかけって、人それぞれいろいろあるんだろう。今日出会った京大生のチベット研究者は、それを「チベットで出会った僧侶がお祈りしているのを見て目覚めた」と言っていた。祈りが、力強かったんだって。すごく自分がひ弱に思ったって。つまり、資本にまみれた世界観から、チベット仏教を見たときの強烈なショックが。相対的にギャップが大きかったわけだ。 それって僕の場合は若仲の絵に出会った時だね。僕がいままでやってきた仕事は、多かれ少なかれ、資本主義のくくりにおいての、価値のやりとりの中での、つまり大量生産大量消費システムの「ための」製作技術でしかなかったことに、そのとき決定的にうちのめされたのね。 チベットの僧侶の祈りの力強さって、そりゃあ当然ですよ。 キューバ独立の意志の強さって、そりゃあ当然ですよ。 江戸時代の日本画のが、いまのデザインより美しく感じるのも当然ですよ。 そんな選択式の世の中で「お金を稼ぐ」ということに最適化すれば、そりゃあ稼げるだろうよ。一晩の麻雀で家賃が稼げるらしい。それができるスキルが凄いのだが、三人でグルになって、金持ちをカモるという素晴らしい戦法らしい。 で、・・・・アメリカの政府って、つまりそういうことでしょ? カモる相手は金持ちではなくて、その反対側ってところがミソですが。 結局、「なにを至上のもの」とするか エーリッヒ・フロム「愛するということ」なんかそれにぜーんぶ書いてあった気がする。如何にして生きるかという基本的概念が。愛とかって綺麗事としてしか、それまでは認識していなかったんだけどね。やっぱり、価値交換手段として、基本中の基本なのだよね。その場合、価値「交換」ではないのだけれど「価値循環システム」とでも言おうか。それは、どう返ってくるかを、想定してはならないという大前提があって。 その上で「与える」。 その本の中で、親子愛、兄弟愛、恋愛、みたいに、項目が定義されている。すごいね、ユダヤ人てのは。フロムはやはりユダヤの民なのですよ。だからこそ、愛というものを、そこまで考えるにふさわしい民族だと思う。ユダヤ人てのは最も愛という概念がいま、必要な民族なんじゃあないですかね。だから、村上春樹の演説でエーリッヒ・フロムを思い出さざるをえなかった。 チベットには、それがあふれてるのかな。ダライ・ラマ14世の魅力って、まさにそこだものね。 岡崎吉村医院の吉村先生がやばいなーって思ったのは、出産もまた記号化されてるってことを、商売ベースで紋切り型でアルファベットだって言い切ってるとこなのだよね。 アレックス・カーは、日本の住宅に、文化に、それを言っているわけでしょう。 宮崎駿は、風の谷のナウシカで、いわゆるところの生物多様性に、それを言っているわけでしょう。 ミヒャエル・エンデはお金に対して、つまり交換経済に対して、それを言っているわけでしょう。 水戸岡鋭治は、工業デザインに対して、それを言っているわけでしょう。 現代生きているか、死んだ直後くらいの人で「すごいなーっ」って最近思う人は、みな、そういう共通の同じ未来を見ているのだよね。その未来感を共有している人が、いまもっとも素敵だなあと思うわけで。 僕はまずはそれを一個一個実践していきたい。家づくりはその最初の最初の一歩だ。 2009.02.20 Friday
ワークライフバランスなどという言葉は死語だ!
ワークライフバランスなどという言葉は死語だ!死語以前にナンセンスだ! 本日は長文です。本気で書いているので意味がわからないことも多々あるかもしれません。 さて「仕事=趣味」でありたいと多くの人はそう思うであろう。理想ではあるし、最近の僕はそうなりつつある。しかしそこまで来るには大変時間がかかった。少なくとも10年かかったことになる。18歳でelephant designに居たときはすくなくとも、ワークライフバランスという概念があった。12時間(労働基準法では8時間と定められているやつ)を会社に捧げています、みたいな概念の中で仕事をしていた。 その後、20歳で会社をやめたときに、その概念が崩壊した。しかし、仕事=趣味とまでは、まだぜんぜんたどり着かないのである。その次に来るのは「死の恐怖」だ。食っていかなければならないことに従属してしまうのだ。それは、会社から自由になるだけでは、到達されないものなのである。死の恐怖から解放されるにあたって「スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチ」と西村さんの「自分の仕事をつくる」という書籍から得たインスピレーションは大きいし、その二つがなければ、仕事=趣味という領域まで来ることはできなかっただろう。 その結果、現在はポジティブになることでしか、本当の意味での仕事はできないという仮説の元、さまざまな活動をしている。そのはずなのに自分でもそれを時々、いや、かなりよく忘れる。仕事の上でポジティブになるためには、仕事を趣味化するしかなかったんだ。自分の興味のある方向に持っていくしかなかった。それが29歳、最新の状況であり、最新の仮説だ。 そうなってくると、需要と供給という概念が成立しなくなる。というか、需要に対応するのが仕事じゃなくなる。需要に対応するための供給仕事をしているうちは、ワークライフバランスとか言う概念の世界の中に居ざるを得ない。今は確実に需要がないのに、仕事をつくっているという自覚がある。 仕事を「受ける」と。仕事を「つくる」の違いかもしれない。後者は趣味になりうる。前者は、需要に対する供給でしかない。仕事をつくることが、つまり、クリエイティブだということだ。需要に対応する仕事は、たとえデザインだとしても、クリエイティブと呼べるのだろうか。そこが、僕が誰かにデザイナーと呼ばれることに対する懸念事項だ。残念ながら、まだまだデザイナーという職業はクリエイティブな環境でないことが多い。あとは、自発性の存在と、自足できているかどうかだということが重要だ。それからイノベーションがなければクリエイティブではないかもしれない。だからそういう意味でいうと一般的なデザインの業界には興味がないことが最近はっきりとしてきた。 ある時期のソニーは、とてもクリエイティブだった。それは、他社が絶対につくっていないものをつくっていたからだった。常にイノベーションが存在していた。その遺伝子はアップルが継承した。 国でいえば、キューバは非常にイノベーティブで、クリエイティブだと思った。戦後日本がある時期までは非常にイノベーティブで、クリエイティブなのは当然。それはなにもなくなったのだから。 自立できていないものを、勝ち取ろうとする動きは、だから常に美しいんだね。白洲次郎が日本国憲法を日本人の手で作りだそうとしたものも、同様のロジックだと思う。しかしそれには失敗した。60年代半ばから、この国はまた元のもくあみに戻っていった。全共闘運動は、悲しいかなそんな時代のあだ花のようなものだ。 話がちょっとズレた。 少なくとも、1999年の時点で、僕が理解に至ったのが、T型フォード以来今日まで丁度100年間の間続いてきた大量生産・大量消費はクリエイティブから遠ざかるということだった。それがelephant designで得られた最大の学びだった。 マスプロダクト、マスメディア、マス広告、etc... マスメディアに対してはインターネットがその代案として有望視されたのは周知の通りだが、そのような構造は社会の隅々まで普遍的に存在していると思うようになっていった。だから、構造的に、トップダウンになってしまうことで、全体のクリエイティビティが一気に低下してしまうんだね。自発性の欠如。つまり今の日本社会の姿だ。 だいぶ元に戻るけれど、それはつまり、仕事を「受ける」ことしかないように思えてしまう元凶を生み出すことにもなっている。なんかクリエイティブとか創造性とかが結局根底にあるのは自発性なのかなと思う。それをある人は、ポジティブアプローチと呼んでいる。僕の周りにいる人たちは、こういう人種がやたら多い。いままでは単なるクソポジだと思っていたが、一つの方法論として確立されているようだ。結局「自分で生きる」ということは「自分に自分で責任をもてるか」ということだ。 支配されないようにするのがレベル1。死なないようにするとこまでは、レベル2的な段階だ。レベル3が、好奇心のバランスかなと考えている。このレベルはいくつくらいまであるんだろう?僕にもまだわからない。レベル1で止まっている人に相談されることが多くて、ちょっと困る。もちろん、組織の中にいるけど支配されていない人、というのもあるとは思う。そこは相対的にどちらにもありうる構造だ。 いままでの、大航海時代以来の組織論で考えたらレベル1がなるべく多くなければ成り立たなかった。それが、東インド会社以前にアラビアに存在したというコンパニアの起源である。大西洋を横断するためには組織の結成が不可欠であって、そのために株式会社制度が誕生したけれど、それってもはや500年も前の話だよね。時代錯誤もいいところだ。 いままでこのような話を共有しなければならない人は多数いたと思うけれど、それを僕はやってこなかった気がする。文脈や暗黙知がありすぎてそれを共有していないから、そもそも話にならないのだ。それをひとつひとつ説明しているうちに、なんの話をしていたのかがわからなくなるし、第一疲れるので、あきらめてきた。その上、それを上回る速度で知識がインプットされていくから、結果的に間に合わなくて、ギャップは拡大の一途をたどっていく。 では、そのギャップの存在に対してどういうアクションをとれるかということだが、まずそもそもの株式会社制度が古いという問題がある。株式会社というか、資本主義というか、それがどう変わっていくのか、だいたいそこに行き着く。 「我々がどうあるべきか」 20世紀において、それは三択であった。資本主義、共産主義、ファシズム。極端に言えばどの仮説も、結局は失敗した。僕らはいまだ資本主義に対する「処方箋」ばかりを思考しているということに気付く。ここらで「処方箋」より「理想」を作るべきなのかもしれないと2006年くらいから思い始めた。 しかし、実際問題「処方箋」の方が主戦場なのだ。地球温暖化云々にやたら予算が付き、盛り上がるのは、記号化しないと主戦場での武器にならないからである。そこで、2004年の時点ではサステナという仮説ではその主戦場で戦うことにしたのだった。それは今も変わらないし、今後も当面は変えないだろう。シンプルモダンイズベスト。オシャレエコ万歳。 でも、2006年以来いまは、ポスト「我々がどうあるべきか」を模索したいという気持ちに駆られている。それを模索しているうちに京都や関西、四国、つまり地方に行き着き、そこらへんの整理がつかないから、東京と京都を物理的に分けるしかなかったのだった。どちらも僕の中の最適解のつもりだ。 それを二年考え続けた結論が、東京と京都の50%づつの分割というライフスタイルだ。きっと、30半ばにさしかかるくらいまでにはそれらを融合する方策が見つかるといいなと思っている。時勢も変わってくるだろうし。東京に居続けたのでは、ポスト社会がどうあるべきか、すらわからないというのが、29歳の現時点での仮説である。 時勢がどう変わってくるかが、まだなんとも見えないし、しかし意外と早く変転がやってきたという感がある。 まあ、なんか、こういうことをなにかに一度きちんとまとめなきゃってことだね。相当無意識に言語化していないことがあるみたいだ。しかも、その仮説は一生実践しつづけて、その経過報告ができるに過ぎないかもしれないけれど。 2008.12.24 Wednesday
インターネット・コミュニケーション
この記事は、すべての広告に関わる立場の方で、インターネットのコミュニケーションに関わる方に言いたい。 いまだかつて、僕自身の経験として、真の意味でのインターネット・コミュニケーションが出来ていたなと思える仕事は、空想生活のウェブサイトと、100万人のキャンドルナイトのウェブサイトだけです。それ以外はすべて作りきり、悪く言えば作りっぱなしだったと思います。 上記2件はいずれも、自分自身が主体として関わっているような関わり方の中で作った仕事でした。 既存の広告代理店や制作会社のビジネスモデルの枠組みの中では到底このようなクオリティに達することは難しく、その抜本的な方法は残念ながら、まったくわかりません。 結局自分自身が事業主体になるか、事業主体自身(クライアント)が自分で技術を身につけて作れるようになるしかないのだとまで思うようになりました。 事業主体者が本当に自分の事業がかけがえのないもので、専門技術を積極的に学ぶような姿勢がなければ物作りを専門業者に託すのではなくて、少しづつでも自分自身が自分の手でやっていこうと思う気持ちがなければいいものはできないと言い切れます。 そう考えると、自分自身もマス・コミュニケーションの概念をそのままインターネット・コミュニケーションの世界に移植、投入することを推進していた時期があることは否定できず、そのような考え方は、捨て去るべきだと確信しています。 客観視の視点が文化人類学的にも重要だと、いままで再三書いてきて、そういう意味では広告代理店や制作会社、それにコンサルティングという業種がなくなることはないとは思いますが。 しかし、よくよく思い出してもみれば、僕が言っていることはアルビン・トフラーの「第三の波」に書かれているプロシューマーのお話でした。 第三の波 プロシューマー http://22nd.urume.net/2006,0131,431.html アルビン・トフラーを初めて知ったのは、丁度10年前でした。原書は読んだことがありませんが、この本の内容にふれたことが、僕のインターネットとの関わりの原点かつ最も重要な出来事の一つであったと言えます。 それから着々と、トフラーの予言は本当に現実になっていくなと今日改めて思いました。 結局僕は「生産者と消費者が厳密に分かれた文明」というやつに嫌悪感を感じているのだと思います。少なくともインターネットにその概念がマッチしないのです。インターネット・コミュニケーションがこれから益々求められていく中、このようなことが今後問題として大きな日種になっていくことが、僕の目には見えるのです。 2008.11.27 Thursday
いよいよ面白くなってきたな
もっとも生きていくことがしんどかった28歳が終わって、もうとにかくとんでもない嵐をやり過ごしたなぁー、と、すべてを年齢のせいにしてひとここちついた気分なのですが、リハビリ気分も束の間、怒濤の如く追い風がやってきつつあるという感じがあります。というのも、全面機能停止していた一年間というか、もっともっと、2005年くらいからほおっておいた仕事達が、あまり明確な成果も出せずにいるということが見えてきてしまって、よくもまぁ、というくらい呆れる状況になっているではありませんか。 それはともかく、もっと凄い追い風が来ているんじゃないかと、薄々感じつつあります。今年9月に起きたという金融経済危機がどういう意味を持つものなのかが、すこしづつではあるけれどどのように捉えるべきことなのかを理解しつつあります。 ここ数ヶ月、金融危機と叫ばれて、景気が悪いと言われて、おまえのところはだいじょうぶか!?と言われるたびに、他人事のように感じていて、言いようのない違和感を感じていたのでした。しかし、よくよく考えてもみたら、金融危機が起きてバタバタとつぶれていく会社というのは、本当の意味で人間に向き合ってこなかった業界ばかりじゃないかと思うのです。金融業界、不動産業界、三井住友銀行、みずほ銀行。最近では、電通、博報堂までもっていうような噂話も耳にするようになった。そんな会社、なくなったってそもそも仕方がない。そのような会社にお勤めになっていた方には申し訳ないけれど。そもそもそんな経済一辺倒な世界にはいないので、大丈夫か?と心配されるたびに、一緒にしないでくれよ、と思うのです。 そして金融危機の流れとしてオルタナティブが採用されるようになった。考えられもしなかった黒人のアメリカ大統領が誕生することになった。このようなオルタナティブは、なにもアメリカの大統領選挙だけの話にとどまらず、いままでマイノリティとされてきた考え方が採用されたり、もっと具体的に言えば金にならないから不採用、みたいなかつてであったら捨てられてしまった(今の資本主義社会の上での表層的な環境ムーブメントではない本質的な)環境ネイティブな考え方が、いよいよポスト資本主義として台頭してくるようなことが起きるかもしれなかったり、前述の水戸岡さんのように密かに地方でやられてきた活動のような、いよいよ資本主義の論理では説明のつかない心地よさに価値が置かれるようになるかもしれないわけです。2001年あたりから見え隠れしていた社会の変革が、こうして動き始めるのか!とリアリティを持ちつつある。なるほど、一度とことんまで壊れるところまで行かなければ、変わり始めたりはしないのだなと。 世の中暗くなっていくどころか、いよいよ面白くなってきたな、と思うのですが。 2008.10.23 Thursday
東京にいなければならない理由って
一昨日、たまたま一緒に食事をした20代前半の若者は、東京にいなければならない理由について「食っていかなきゃならないですか」と、言った。そうだ。20代前半の頃は食っていくことに必死だった。東京にいれば仕事がある、ように思える。衣服の延長線上として、都市は発達してきたと、都市計画の専門家は誰でも言うだろう。・・・なんだろうこの幻想は。 東京にいれば友達がいる。・・・そうかな?昔、仲がよかった友人は皆ヨーロッパにアメリカに、名古屋に京都に大阪に、と遠くへ行ってしまった。でもね、そういうことじゃないんだよね。 「生き方」の問題なのです。 最近友達になったデザイナーの女の子は、東京に居つつも目の前は鬱蒼とした竹林に囲まれて、家の中に大きな大きな蜘蛛が住んでいて(これがまたとても足が長い・・・)彼の抜け殻について説明してくれた。近所には古民家がたくさん保存されている世田谷区営の古民家村があって、近所の畑からとれた野菜を食べて生活していた。家の中に蜘蛛があるいていたら、気持ち悪いと思う人もいるだろうし、僕も正直苦手だが、自然と共存するっていうのはこういうことだろうなあと思うわけで、これはかなり東京都内でできる20代のライフスタイルの一つの極みだなと思った。 倉敷で泊まった町屋はたったたたみ六畳しかないんだけれど、廊下が縁側になっていて、ちょっと高台にあるから倉敷の瓦屋根が延々と続く風景が見えていて、お風呂とキッチンは新品。まさにいま探している部屋のスペックそのものだった。でもここは倉敷。東京>倉敷間の新幹線代は片道で16,860円。往復で33,720円。じゃあ東京に、ってそんな物件あるわけないんですね。しかし瀬戸内はいい!いずれ住みたい。尾道あたりの海岸線から見える多島海の風景にはかなわない。 一年前の夏に京都で町家を借りる寸前までいって、いろいろとあってとりやめたんだけれど。京都には大きな町屋を二人で借りて、二階をオープンスペースとして「一見さんお断りコミュニティ」をやっている友達がいる。彼らにはあまりプライバシーがないがしかし、突然やってきた友達(とその繋がりの人々)を受け入れて、三年間で何百人ものネットワークができたという。でも、京都の盆地特有の夏は容赦なく暑く、冬の比叡山から吹いてくる風は湿っていてとても冷たく、寒い。 はたまた、僕の友人で唯一20代で家を建てた人がいる。彼は岐阜の田舎に、しかし田舎とはとても思えないくらいコンピュータに囲まれてはいるが、大学を卒業すると実家の隣に家を建てて、たくさんの部屋を持てあましつつも日々持ち込まれるたくさんのエンジニアリングの相談にのって生活している。田舎に拠点を持ちつつも、電話をするとよく東京にいたりするフットワークさを備えつつ、田舎に拠点を持つことができているのは、彼の両親をはじめとする地域のネットワークがあるからこそではあると思うが、これはこれで一つの方法だ。 最近、どれだけか近所の不動産物件を見てまわったけど、どれひとつとして腑に落ちないのは、結局そもそもの「生き方」の部分が腑に落ちてないからなんだろうなあ、というところまではわかってきているのだけれど。 |