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「欲しがりません勝つまでは」花森安治
戦後「暮らしの手帖」を出版し、戦中「欲しがりません勝つまでは」を世にプロデュースしたコピーライター、花森安治さんの戦前について、広告批評の編集長「天野祐吉」さんに、お話を伺ってきました。
マエキタ:
花森安治さんのことについてお聞きしたくて来ました。NGOの人たちってすごくネタは豊かでニュースもあって、でもマスコミだとか芸能界だとかにあまりパイプラインがなくって、表現物は固くなってしまったり。なので広告の力を使ってやわらかく、親しみやすくしています。で、海外でもシリアスものはシリアスで、チャーミングっぽい者は少ないらしく、グリーンピースのキャンペーンをやったときに「ふにゃ」って線で新聞広告つくったりしたんです。で、グリーンピース本部の方から、グリーンピース史上もっともベストなアド、と言われました。誰かがお世辞いってるんだろうとしか思って無くて、オランダからあの話の経緯を聞きたいっていわれまして、まあなんか気にいってくれてるんだなあ。それをどうにかグリーンピースのキャンペーンに取り入れたいと思っているんだけど、いままでアグレッシブなものばかりだったから、チャーミングをどうやって取り入れていいのかわからない。意外と日本オリジナルのムーブメントが西洋諸国にも働きかけてるんじゃないかなー、って思っています。

マエキタ:
で、今日伺いたかったのは、花森安治さんが大政翼賛会にいたころの話を聞かせてください。「暮らしの手帖」以降の花森さんしかしらなくって、花森さんはその話はしたくないんだろうと、その頃を知っているのは誰なんですか、って聞いたところ、梶さんと、天野祐吉さんだろうと。

天野:
それはボクもよくはしらないんですね。その頃のことを知っている人はほとんど死んじゃっているんだろうと。あのころの気分はね、そういうことをやらなきゃいけないってことは、もう罪悪感なんてないんですよ。時代の空気だよね。軍国主義に協力するというよりも、そういう流れなんだろうと。でも、積極的に抵抗しても、そういうごく少数の人は、強固なイデオロギーをもっている人はいましたけども、強固に徹頭徹尾反戦を貫いた人がいまして、その反対に日本教の信者もいまして、ほとんどの人は時代の空気に流されていた。中国にいかされても別に抵抗無く行ってきてね、でも、むこうではだらだらしていたひとが多い。そういう空気なんですよ。しょうがないからいくけど、ほどほどに自分なりに遊びにいくよっていうかんじ。多川精一さんの「FRONT」なんてのもね、国家のお金でデザインの実験ができる、ってんでチャンスだとおもって、やろうよやろうよってとこがある。特にアーティストは反戦主義でもないんだよね。だいたいが非戦主義者なんだよね。ムーブメントっていうと、日本だとあまり政治的なことはしたくない、先生たちはA旧戦犯になっているから、あまり派手なことはしたくない、っていう感じなんですよね、芸大の先生達は。

ボクは戦争が終わったときはまだ小学校の6年生だったので、あまり大人達がなにを考えているのかわかんないですね。ちょっとでもやりゃ監獄に放り込むとかいう時代でしょ。そこまでやる気はないけど、そこまで積極的にやろうとはしない。花森さんもボクはそうだと思うんだけど、これはあんまり証拠がないんですけど、あのひとはまじめなひとだったから、やるならきちんとやらなきゃいかんだろうと。国家の金をつかってちゃらんぽらんあそぼうってことはあの人はやらんだとろうと。大政翼賛会っていろんな戦時中のスローガンを公募しましたよね。でよく審査員をやっていたみたいですね。「欲しがりません勝つまでは」は当時の小学生の作品で、それを花森さんが審査したんですね。そのお父さんが書いて送ったんだってことが、後日談として分かるんですけどね、あの人の選択眼は確かですね。贅沢は敵だ、なんていうえげつないスローガンをあのひとは書かない。鬼畜米英なんて広告は、先導的に情緒的に憎しみをスローガンにすることが常套作戦ですが、そういうことは書かない。ものをやたらと欲しがる生活みたいなのはやめましょう、っていう意味ですからね。それであの人の考え方は実は戦前にもそうだったし、戦後はパピリオっていう化粧品のコピーをかくんですね。あきらかにされてないんだけど、あれは花森さんだったとボクはにらんでいる。やたらつかえばいいってもんじゃない、みたいなコピーなんですね。大事にものをつかうことがオシャレなんだという哲学に裏付けられたコピーなんです。これは戦後の大変なコピーのひとつだと思ってるんだよね。書いたような気がするボクが。それで「暮らしの手帖」に頼まれてね、そう書くと大橋さんなんかが、知っててね。で、違いますとも言わないし、それはあんまり言いたくないんだと思う。特定の企業の広告をやっていたなんてことはね。あの人はイデオロギーの人ではなくて、美意識の人なんですよ。ださいのがだいっきらいな人だったと思うんですよ。だから当時のパピリオの広告ってのは、オシャレなの。オシャレじゃなくって、広告は売れるか!ってことなんだと思う。だから、あなたのやられていることもオシャレの精神がなくてエコがやれるか、って思ってるとこが素晴らしいと思うの。で、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」ってのは、連合国に勝つまでって話でしょ、で、「暮らしの手帖」の「欲しがりません勝つまでは」ってのは、悪徳業者に勝つまでってことなんですよ。

花森さんとは会ったこともない。ボクは始め、1950年代の半ばくらいに、社会人になって勤め人になったわけですが、始めに勤めた会社は出版社だったから、本の装丁を手伝ったり、当時装丁なんてのは、だいたいが内部の編集者がやっていたわけですよ。デザイナーなんて人はいないわけで、そういうことをやっているときに、どういうのがかっこいいかってのがわかんないで、本屋さんでみてたら「暮らしの手帖」が、こういうのが、かっこいいんだ!ってのがわかった。タイトルが太い目の明朝で、自分の出版社のレイアウトをするのを考えたりしてたんだけど、花森さんのレイアウトやデザインは、直接教わるよりもっと教わった気がするの。どうしてここにゴシックおいたんだろうと、どうして二段組みなんだろうと。あのひとの原稿用紙を移したりして、お師匠さんなんですよ。独学でなにも知らない男の子が、貧乏出版社でなるべくいいものをつくろうってときに、花森さんのものはお手本だったんですね。それでこのひとは100%美意識の人だなあと思いましたよ。「暮らしの手帖」はあのひとがぜんぶ切り張りしてつくったんでしょ。「暮らしの手帖」はなんで広告を載せなかったか。花森さんは広告が嫌いだからだ、って言われてますけど違いますよ。花森さんは広告大好き人間ですよ。センスの悪い広告があることは許せないんですよ彼は。自分がつくった「暮らしの手帖」の広告は入れてるんですよ。広告がいやだったんじゃなくて、センスの悪い広告はいやだったんですよ。しゃれてるしゃれてないで選別できないから、いっせいに広告を入れないことにしたんですよ。それで今、なんでもいいからうれればいいなんてことになっているんですよ。「欲しがりません勝つまでは」型の広告だったらいいんですけど、「暮らしの手帖」からなにも言ってこないから合ってると思うんですけど。

もっといい商品をつくってほしいから、商品テストをやっているんだろうと。問題はメーカーにいい商品をつくってほしい。そのためにメーカーの製品テストをやってもらいたい。本当にいい広告てのは、商品の改良の提案を含んでいるものなんですよ。それで商品を改良した例はたくさんあるんですよ。

広告よりも、「暮らしの手帖」でとりあげられたほうが売れると。ということは優れた批評は広告になっていると。

マエキタ:
どうして広告批評という名前にしたか?

天野:
広告は商品についての批評になっていなければいけないと。いいところみつけるのが批評だと。でもダメなものはダメといわなきゃいけないでしょ。でも広告でダメとは言えないでしょ。

ボクがどうーーしたって、ひとに進められないものは、広告できないでしょう。自衛隊が気がつかないように、実はおちょくった広告を書いたら実に高級だね。個人としては言えるけど、電通としては金にならないとやれないでしょ。

おやりになっているような仕事だとNGOと企業でぶつかったりしますでしょう。アメリカにそういうのを専門にやっている広告プロダクションがあるでしょう。日本の水産庁がアメリカのPR会社に広告を出しているんですけどっていうことがあったんですよ。

博報堂に入って広告ってのはグッドニュースをあつかっているんだと。ある意味で福音ですね。しかしいまあつかっているものはバッドニュースなんですよ。温暖化だとか貧困だとか。グッドニュースばかりをつくっていた会社がバッドニュースの作り方をしらないんじゃないかと思うんだよね。バッドニュースの素材をグッドニュース化して伝えるってことが必要だと思うんですけどね。やまぐちひとみさんが、花森さんのことを嫌いでね、「暮らしの手帖」に料理のことがのっていたんだけど、ザリガニが大量に繁殖して、あのころはくさるようにとれたんですよね。とることを奨励されていたんですけど、ザリガニをつかった料理を紹介していてね、ザリガニがとれないばあいは、伊勢エビでもいいって(笑)それをみて怒ってね〜。そんなこと言っている感覚はおだいじんのおぼっちゃんだって。花森さんの息が掛かっているレストランてあるんですけど、超高級店ですよ。すごい貧乏生活を堪え忍んできたっていうキャリアはないですね。神戸のどこかで生まれたんですけど、あのころ、あのへんで生まれたひとは、へんなリベラリストが多いんだ。淀川長治さんがそうでしょ。淀川さん、花森さんて、あの辺のひとは思い浮かぶんだ。

ボクは足立区千住という場末の貧乏長屋の育ちですよ、ボクは江戸っ子だとおもっていたんですが、足立区千住の生まれっていったら、地図がでてきてね、朱引きがしてあってね、江戸ってのはこの線から内側だっていうんだ、ってご丁寧に説明されましたよ。

マエキタ:
天野さんはどうして広告批評を。

天野:
一番最初は創元社ですよ。初めは文芸書を、小林秀雄さんだとかの本がいっぱい出ていたんですよ。でそこがつぶれまして、かわでせぼうだとか、いくとこいくとこつぶれて、失業保険をもらって、その日暮らしをしているうちに、ある人から博報堂を紹介されたんですよ。当時1960年ですから、最初本屋かと思ったんですよ。つぶれるからやだ、って思ったんですけど、広告代理店だったんですよ。よくわかんなかったんだけど、つぶれないとこいきたかったから、博報堂入ったんですよ。26、7か。博報堂に入ったときに、当時テレビコマーシャルが始まったばっかりでね、それをやると給料がこうこうになりますっていうんで、で、あなたがPR誌の編集をやってくれるってことなら、給料がすごい増えますよと。編集者としてのキャリアがすぐに生きるから、中途採用者の場合こちらの方が多いんですっていうんで編集の方にいったんです。で、広告って雑誌の編集をやっていたんです。ボクは四代目ですよ。あれは昭和26年くらいからあるんですよね。すごいカタイ雑誌だったんですね。それでボクがいたときにだいぶやわらかくしまして、作家の人とか、漫画家の人とかに登場してもらったんですけどね。で、ある日休刊すると、会社の方針で決まったって呼ばれてね。でいろいろ問題が起こっているっていうんですよ。出ている人達が、ちょっと左がかっているんじゃないかって言われたんですよ。おおくまのぶゆきさんていう、消費者とは生活者だって言ってくれた人なんですけど、その人の生活者論なんてのは、消費者サイドにたって、メーカー批判したりしたんですけど。さらに当時博報堂ってのはお家騒動があって、一時期右翼の連中が来てたりして、一時期、新入社員は自衛隊に入って鍛えてこいみたいな状況だったんですね。で、ああいうのを外でやるとどうなるかな、って思って広告批評を始めたんですよ。別に広告批評を博報堂で出したっていいんですけど、自由にやりたかったんで。そしたらそのあとオーナーカンパニーが完全に崩壊して、株主が全面的にかわって、それで広告って雑誌が復刊したんです。

マエキタ:
池田さんのときも、ジョナサン・バーン・ブルックからおくられてきたアートワークが、原子力発電所の前にキティちゃんがいて、鼻血が出ているんですって。で、これ、うわー、どうしようかって迷ったらしいんですけど、回収沙汰になって。

天野:
政治と公告ってキワドイじゃないですか。民主主義ってコミュニケーション主義じゃないかって思うんですね。なのに小学校でコミュニケーションを教えたり、政治ってどうやって動かしたりとかっていう基本的なことを教えないじゃないですか。無関心層がふえちゃっていて、選挙以外かえるほうほうがないのに、教育ができていないですね。

ボクなんかの世代は大日本帝国憲法なんてのが昨日まであったのに、突然なくなった世代だから、投票にいくってことが義務で無くって権利なんだってことが身にしみてるからね。「あたらしい憲法の話」は新鮮でしたよ。

高度成長期を支える企業戦士を育てることになってしまって、処理能力を磨け、みたいな人が出てきちゃうようになっちゃったでしょ。それで社会が効率第一主義になっちゃうから、自分で考えるってことをしないってことが大問題だ。なんでも聞くなよ方法論を。きくなよー。って思う。教科書っていらないんだよね。諸悪の根元ですよ。

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あたらしい憲法のはなし
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