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<< 信じること。祈ること。少なくとも信じてみたくなること。 ジョー・プライス氏との対話 >>
デジタルメディアの出現は、地球の生命史における4番目の跳躍だ
ウェブサーバから消えていたのでサルベージしました。
個人的に、竹村さんのインタビューの中で最も好きな文章なので、サーバから消してしまうとはちょっといただけないのです。

バックミンスター・フラーが60年代に「われわれの文明はまだきわめて未熟なんだ。未熟だから公害を出しているんだ」って言ってましたけど、全くそうですよ。よく「文明が進みすぎて自然破壊している」とかいう論調があるけど、とんでもない。われわれが19世紀に生み出した等身大のパワーを超えた力、それをフィードバック的に制御し得るだけの神経系の成熟がなかったから、非常に遅れていたから大変な破壊をしていたんです。
生体のメタファーを延長して言うと、我々の身体は内分泌系、ホルモン系の情報システムと、ボトムアップの神経系の情報システムというのが二つ相乗的に絡むことによってうまく働いているわけですよね。ところが、20世紀の前半、いや少なくとも80年代ぐらいまではホルモン系(内分泌系)だけが突出していたんじゃないか。もちろん、全てのメディアが必ずしもブロードキャスト型の一極中心型、一方通行型だけを志向していたわけではないけれど、結果的に時代としては戦争とか政治、あるいは資本主義的な経済の絡みで、アドレナリンを急激に分泌して全細胞をある一定方向へ向かせるというような、かなりホルモン系的なメディアが幅を利かせていた。そういう意味では、人口が増え、社会が大きく複雑になった割に神経系を持たない非常に愚鈍な社会でしかなかったんです。愚鈍な社会に統一的な動きをさせようと思うと、未熟な段階ではホルモン系のほうが速いんです。そこに、ようやく神経系という形で末端の情報がフィードバックされながら全体を形成していく気配ができてきた、それが20世紀のメディアなんだと思います。そうした神経系の代表的な存在がインターネットでしょう。
for SCIaS magazine/asahi-np.co.jp
■デジタルメディアの生態史
 ―コンピュータと人間の20世紀―

words/渡辺保史(yw@writingengine.com)

episode 25(最終回):
デジタルメディアの出現は、地球の生命史における4番目の跳躍だ。
 ――竹村真一氏(東北芸術工科大学助教授)に聞く


 [本文]

 渡辺 この連載を始める際に前提にしていたのは二点あるんです。まず、情報メディアというのは、情報産業とかコミュニケーションとか狭い領域だけにインパクトを及ぼすものじゃなく、僕らの生活とか社会、あるいは生命観とか、そういうすべての領域でさまざまな変貌を引き起こしつつある。だから毎回、情報メディアと社会を構成する事物の二つを対比させて、その二つの関係性の歩みを概観してみよう、そういう切り口にしたんです。もう一つは、過去を振り返るだけじゃなくて、未来もある程度意識しながら考えてみよう、と。それで、この1年間続けてきて、まだ消化不良のところはあるけれど、ひとまず締めくくりにあたって未来をポジティブに展望したいと思い、竹村さんにご登場願いました。最初に、20世紀のメディアというのは一体どういう意味をもっていたのか、竹村さんなりの捉え方を最初に伺いたいのですが。

 竹村 僕は20世紀の情報メディアには、三つぐらい重要な柱があると思っているんです。第一には、デジタルメディアの出現、これは地球の生命系の歴史のなかで4番目の大きなジャンプではないか、ということです。
 40億年前、単なる物質的な混沌だったなかに、自己維持する秩序としての生命という情報系ができた。それはDNAという媒体に依拠していました。次にDNAという固定プログラムに依拠しないメタの情報系として脳神経系というのが生まれてきた。次に人類の段階になって、言語や図像さらに文字という形で、情報を外部メディア化するフェーズが出てきました。それによって脳神経系からもジャンプして、情報が個体から遊離して独り歩きするようになったわけですよね。
 そして、いま進行中のデジタルネットワーク革命では、まず物質的な媒体からの自由、身体性からの自由という面、それからヴァーチャルリアリティに見られるような、実在しないものさえもシミュレーション的に生み出してしまうという自由も獲得しようとしている。
 これをキーワード的にまとめると、「情報が実在から離陸していく」あるいは「情報が物財から離陸していく」というプロセスといえます。この惑星の上では今まさに、情報系の歴史における4番目の跳躍の時期を迎えているんだと思います。

 渡辺 この連載の「生命」の回でも触れたんですが、デジタルコンピュータの出現や情報科学の台頭とDNAの二重らせんの発見というのは時期的にちょうど重なるんですね。これは後世の歴史家から見ると、単なる偶然ではなくて、すごく必然的な出来事だったんじゃないかなという書き方をしたんですけれど。

 竹村 そうですね、コンピュータの開発や二重らせんの発見よりも50年ほど遡ると、ちょうど20世紀メディアの黎明期です。さらに半世紀以上前の写真の発明から映画や蓄音機、電話、無線まで、色々出てきた。こうしたメディアの出現によって、言葉以外の情報もポータブルになって遍在できるようになった。情報がマルチモーダルに自律化するという兆しがでてきたのが20世紀前夜だったと思うんですね。
 ところが、情報が実在から完全に離脱するためにはもう一段必要だった。それがデジタル革命です。デジタル化してしまうと、いくらコピーしようが、いくら長距離を伝送しようが劣化しない。そういう意味では本当に情報が自立化するということが可能になるわけですね。
 しかも、人間がコンピュータを手に入れてデジタル化を成し遂げた瞬間に、生命も40億年前からデジタルという戦略を採っていということが同期的に発見されたんですね。ドーキンスは「生命観のデジタル化」という表現で言っていますけれども、それまで生命というのはアナログなものだと思われていたわけです。しかし、生命が自己形成していくプロセスが全部、実はA-T-G-Cという4文字のデジタル言語で書かれていた。結局、デジタルな形で自己を維持し、自律化することによってしか、本当に情報は自己展開できなかったという部分が見えてきたのが20世紀だったんじゃないでしょうか。

 渡辺 二つ目の特徴は?

 竹村 生体のメタファーを延長して言うと、我々の身体は内分泌系、ホルモン系の情報システムと、ボトムアップの神経系の情報システムというのが二つ相乗的に絡むことによってうまく働いているわけですよね。
 ところが、20世紀の前半、いや少なくとも80年代ぐらいまではホルモン系(内分泌系)だけが突出していたんじゃないか。もちろん、全てのメディアが必ずしもブロードキャスト型の一極中心型、一方通行型だけを志向していたわけではないけれど、結果的に時代としては戦争とか政治、あるいは資本主義的な経済の絡みで、アドレナリンを急激に分泌して全細胞をある一定方向へ向かせるというような、かなりホルモン系的なメディアが幅を利かせていた。そういう意味では、人口が増え、社会が大きく複雑になった割に神経系を持たない非常に愚鈍な社会でしかなかったんです。愚鈍な社会に統一的な動きをさせようと思うと、未熟な段階ではホルモン系のほうが速いんです。そこに、ようやく神経系という形で末端の情報がフィードバックされながら全体を形成していく気配ができてきた、それが20世紀のメディアなんだと思います。
 そうした神経系の代表的な存在がインターネットでしょう。それを僕は「ネットワークする群盲」と表現しているんです[*1]。例えば我々がやっている「ブリージング・アース」[*2]のように、世界中に分散した地震計がジグゾーパズルのように少しずつ情報を寄せ合うことによって、それらがボトムアップでシナジェティックに関わり出すことによって、全体と個のフィードバックがなされていくような環境が生まれてきたわけです。

 渡辺 最近注目しているもので、「SETI@home」[*3]というプロジェクトがネット上であるんです。地球外文明のデータ解析をネットにつながっているユーザーのPCで分散協調的に行おうというもので、発想としてはまさにジグソーパズル的です。

 竹村 それから、渡辺さんも連載の最初で書いていた、20世紀最大の物財だった自動車。その自動車にしても単体としてしか動けなかったのが、情報ネットワーク化によって、それぞれが自律的に動きながらもお互いにコミュニケートし合い、フィードバックすることによって、下らない渋滞をなくせる時代が迫っていますよね。
 今までは個々人が自由に移動できるという可能性が全体のキャパを圧迫し始め、自由が膨大な不自由に転化してきたわけですね。でも、いま村井純さんの研究室がやっているインターネット・カー[*4]のように、 自分の位置情報や速度情報とか、あるいは雨が降ってきたといった情報を集積していくことによって、ボトムアップ的に都市全体の渋滞状況や天候の状況が見えてきて、それをみんながまたフィードバックで共有化する。「そっちが混んでいるんだったらこっちへ迂回しよう」とか、交通を分散化していくことができる。自己と他者、あるいは全体と個が情報論的に結びついて、本当の自由が得られるところまで来たわけです。
 
 渡辺 竹村さんがよく言われる、「エコロジーとエコノミーの統合」の可能性ですね。

 竹村 バックミンスター・フラーが60年代に「われわれの文明はまだきわめて未熟なんだ。未熟だから公害を出しているんだ」って言ってましたけど、全くそうですよ。よく「文明が進みすぎて自然破壊している」とかいう論調があるけど、とんでもない。われわれが19世紀に生み出した等身大のパワーを超えた力、それをフィードバック的に制御し得るだけの神経系の成熟がなかったから、非常に遅れていたから大変な破壊をしていたんです。
 自分のアウトプットがどんな結果をもたらし、逆に自分をどう圧迫するのかすらわからなかった。噛まれてもお尻の痛みがわからない巨象みたいな感じだったわけです。そこがようやくフィードバックされてきたという意味では、今までは本当に愚鈍で未熟な社会をつくってきていたけど、ようやくそこに神経系が生まれて、まともになってきた。
 だから僕は、21世紀というのはものすごくラディカルに、いまの環境問題をはじめいろいろな問題を解決し得ると思っています。「こんな進み過ぎた文明をどうしようか」というよりも、「早くこの未熟な愚鈍な文明を正気のものにしようじゃないか」、そういう感じで僕は21世紀を迎えつつあるんです。

 渡辺 僕はこの間、屋根が全てソーラーパネルになっている住宅を取材したんですけど、個々の住宅が自己保身的に自分のところで使う電気をつくるだけじゃ勿体ない、それらが売買電の方式でネットワーク化されて、電力がインターネット的なインフラになれば面白いんじゃないか、って思ったんですよ。でも案外、そういう商品を作って売っている人達って、意外と自分たちの持っているポテンシャルに気がついていないところがありますよね。

 竹村 30億年ほど前に生まれた光合成で太陽光をエネルギーに転化し自家栄養でやっていくという、当たり前にそのへんの植物がやっているようなことがどれだけ凄いのか、やっと気づき始めたところなんですね。いまの話にしても、渡辺さんが言ったような方向ですら、たぶん過渡的なことですよ。この全地表面をエネルギーに転化するパネルになっていないのが実は異常なわけであって、たぶん100年後、あるいは200年後の人たちは現代を振り返って「何でビルをつくるのに、そのサーフェーズをエネルギー・インターフェイスにしなかったのだろう?」って非常に不思議がると思うんじゃないかな。そうなって初めてエネルギーは希少性の誤謬から解き放たれるわけです。
 いまのところ、微生物の化石によって生まれた資源をみんなで奪い合って、非常に非効率な形で燃焼しているので、エネルギーが稀少なっている。でも、何かが稀少財であるときに健康な社会は絶対できないんですよ。結局、極端に言うとそれを奪い合うことで終始してしまう。
 それと同じで、情報財も情報というものがエネルギー資源と同じように稀少であった時代には、本当に健全な情報社会ってなかったわけですよね。

 渡辺 囲い込み、独占をすると。著作権だってそうして出てきた。

 竹村 そう、独占すればするほど強くなるというパターンです。それが宗教革命やグーテンベルグの活版印刷革命などを経て、情報が教会や大学や一部の特権者の手を離れて遍在し始めた。ようやく情報は稀少財ではなくなってきたんだけれども、その段階ではまだ本という媒体に依存していた。
 でも、今やようやくデジタルネットワークが張り巡らされ、情報が自律化し遍在し、本当に稀少財ではなくなってきた。僕はこの状況がさらに進展することで初めて新しい段階が始まると思うんです[*5]。それが20世紀メディアの3番目のポイントです。
 つまり、これまで情報は稀少財だから独占すればよかった。だが、もう情報は稀少財じゃない。ユビキュタスにある。情報そのものにはそれほど特権的な価値はない。となると、逆に今度はそれをどう解釈するか。誰でも利用し得る、誰でもアクセスし得る情報をどう意味づけをしてどう使うかということのほうに情報生産的な価値が生まれてくるわけですよね。
 つまり言い方を変えると、テキスト情報からコンテクスト情報に重点が移っていく。あるいは情報がどの個人にとってもアグレッシブルなものになることによって、個というものの価値が再び顕現してくる時代だと思うんですね。要するに情報は遍在しているから1人ひとりの個人が持っているコンテクスト、個人の経験、資源のコンテクストのほうに情報生産能力の基盤が移ってきた。個と個がある共通の共有化されたプラットフォームでつながることによって、実は自分も知らなかった自分の特性とか情報とか資源というのが引き出されてくる。だから決して孤立した個という意味ではなくて、トランスパーソナル、インターパーソナルな文脈で初めて出てくるパーソナリティーみたいなことがものすごく重要なんですね。

 渡辺 最近邦訳が出たエスター・ダイソンも「重要なのはコンテンツじゃない、コンテクスト」だって言ってますね[*6]。
 
 竹村 ええ。それから、もう一つ、第4のポイントとして付け加えると、僕はやはりマルチ性ということだと思うんですよ。マルチメディア、マルチモーダルということがポイントになる。
 いままでグーテンベルグの銀河系で活字中心、視覚中心みたいなところがあったわけですね。アルファベット、たった26文字覚えれば読み書きができる。それは大変なリテラシー革命で、それによって一挙に読み書きが世界中に広がったり、キーボード中心的な情報環境が世界をこうやって先行的に広がっているというのは必然かも知れない。
 ですけど、アルファベットは効率的だからいいのか、漢字なんかは非効率だから消えていっていいんだろうかといったときに、恐らく大変重要な資源だと思うんですよ。いまの基準でいって無駄と見えるものも、実は未来のマルチメディア・プラットフォームを考えていくときに、必ず必要な資源になるはずなんですね。例えば遺伝子診断の問題なんかに関しても、「これは病気の遺伝子だから消しましょう」という感じでやっていくと、実はそれは眠れる遺伝子で、別の環境になったらものすごい有用な遺伝子になるかも知れないという問題がありますね。
 人類の情報系の文化遺伝子も同じです。声の文化というのはグーテンベルグ以来だんだん稀薄になっていった。しかし、電話や蓄音機でようやく再生される環境、可能性が出てきていて、そうなると失われた声の文化遺伝子というのは大変重要なものとして再び浮上してくることができます。
 そう考えると、僕はマルチメディア時代というのは、一つには文字も音声も画像も五感もフルに生かしたメディアという常識的に言われる方向もあるけれど、例えばいまの「健常」と「正常」とかという硬い一元的な基準での人間観さえ超えて、人間の可能性とか人間のあり方がマルチ化していくような方向に開いていく時代なんじゃないかと思うわけです。

 渡辺 話題を変えます。良くも悪くも結局、ほとんどのデジタルメディアというのはアメリカで生まれた。それはアメリカが民族的・文化的に多様な社会だから、という背景もありますが、それはさておいて、例えばナノテクノロジーとか、デジタル的な不死の可能性とか、自然を改変してい人類のフロンティアを拡張していこうという欲望が潜在しているような気がするんです。それは人工国家ゆえのオブセッションなのかも知れませんが。
 ナノテクノロジーにしても、デジタルメディアにしても、両者は実は通底していて、世界を解読し尽くせば後は幾らでも改変可能であるというようなテクノロジーだと思うんです。だとすれば、デジタルメディア環境のこれからの進化の方向性は、そうしたアメリカ文化の究極の形態なのか、それとも竹村さんがおっしゃったように、物質からの離陸という長い地球の生命系の進化として捉えるべきなのか。どうなんでしょう。

 竹村 情報の物質からの離陸という問題と、過去の伝統からの離脱というのは、僕はイコールではないと思うんですよ。例えば、生命情報にしても1953年にいちおう4文字に同定されて、それを要素論的に読んでいけばすべてわかると思っていたプロセスが、どうもそうじゃないというところが見えてきたわけですね。
 要素的にいうと、これだけでいいはずなのに、膨大な非合理な部分を別の情報系として抱え込んでいて、それがしかし、案外、環境適応とかという意味では有用なことを持ってたりとかですね、あとはそういう動きのある遺伝子が同じ遺伝子セットを組み替えて、どんどんどんどん免疫系なんかでは多様なものをつくり出していくことによって相当適応性を高めているとか、どうも要素論的に機能主義的にきれいにはなっていない。
 逆にそれだけわれわれのこの19世紀的な未熟な機能主義の概念を超えたようなレベルで自己再編する能力、その自由を確保するためにこそデジタル化が必要なんだみたいなところまでいま見えてきていると思うんですよ。
 そうすると、結局、ヒトゲノム計画にしても、あるいはクローン、ナノテクにしても、何でも人間が恣意的にいじれるんだというような未熟な世界観に帰結するとは限らないと思うんです。情報が物質から離脱し、情報の自由が確保されていけばいくほど、そんなナイーブなものではないことがが見えてきた。
 おそらくアメリカ的なテクノロジーが抱えているのは「過去の自明とされている制約は自明ではない。脱ぎ捨てられる前提なのではないか」という発想で、僕の考えではそれは大いなる自由だし、アメリカ的自由のポジティブな側面だと思うんですね。まあ、ナイーブなアメリカニズムは御免こうむりたいですが。

 渡辺 では、日本のことを考えたいと思うんですけど、結局、デジタル社会における日本のポジションというのは、例えばアメリカに対して何年遅れているとかいう産業政策論だったり、あるいは日本こそネットワーク文化をもともと持っていた地域であるみたいな話もあるし、あるいは竹村さんが数年前に「DoP2」でプレゼンテーションした[*7]ように、日本の空間経験のなかに実はマルチメディアの豊かな枠を持っていたという視点もあります。テクノナショナリズムに陥ることなく、今後のデジタルメディアのデザインに日本が何を付け加えていけるんでしょうか。

 竹村 そうですね、日本が遅れているのは技術やパソコンの普及度ではなくて、社会意識だと思います。結局、自分の意思でどういう社会をつくっていきたいのか、考えることを完全に停止する選択をしたわけです。しかも自ら選択したというよりも、非常に代償的な戦争責任の回避ということでね。
 それによって思考停止し、子供の教育のなかで全く考える土壌をつくってこなかったわけで、逆になぜインターネットやパソコンがあれだけアメリカ社会に浸透したかといえば、それは技術が進んでいるからではなくて、それを必要とするような土壌、社会意識があったからですよね。
 そういう意味では、いくら政府がネットワークの普及の音頭を取っても、ぜんぜん状況は変わらない。大事なのは結局、「ネットワークする群盲」によってこれだけ状況が変わり得るんだ、変える必要があるんだという意識を持つことですよね。それによってしか本当の意味でコンピュータ環境というのは生きていかない。それをやらないかぎり、哀しい端末市民でしかない。

 渡辺 情報社会論とかメディア論がどうもつまんないなと思うのは、当事者としての感覚がほとんどないからだと思うんですよね。知識人も官僚も、たぶん実際に自分がパソコンを使って日々何か苦労しているとか、「どうもこういうのじゃないよな」って薄々思っている感覚というのがそのなかに生きてないような気がするんです。

 竹村 ほんと、だから誠実じゃないんですよね。何か商売で言説を転がしているという感じでね。まあ、それはともかく、日本人は昔から表立って正面から議論をしたり、強く自己主張というのではない、婉曲的なコミュニケーション回路をデザインしてきた伝統がありますね。実はそれらがデジタルメディアの多系進化を考えるときに大きな資源になるんじゃないか、と。
 日本空間の床の間に花を活けるとか、掛け軸を変えるとか、襖を開ければぱっと風景が変わるとか、日本の伝統空間というのは非常にマルチメディア的で、振る舞い、もてなし、しつらえみたいなところでつくられてきましたね。同時に、表立って言わない婉曲な表現が求められてきたというのは、例えばネット空間でもいろんな形での非言語コミュニケーションが発達していくのではないかという予感にもつながる。あるいは、先に言った別のアイコン体系としての漢字文化なども含めて、新たな可能性や兆しというのは既に出ているんじゃないかと思うんですよ[*8]。

 渡辺 では、竹村さん自身はこれから何を目指していかれるんでしょうか。

 竹村 僕らが例えばセンソリウムを作ってきたのは、われわれが生きている世界は、ちょっとしたトリガーがあれば、どんどん豊かに見えてくるんだということを知って欲しかったからです。われわれの側の受けるフィルターが貧しい故にこの世界がつまらなくなっている。だから勉強もつまらない、世界もつまらないというのが若い世代に蔓延しているのは、何よりも広い意味での教育の問題ですね。
 でも一旦、世界の隠れた豊かさに気づいてしまうと、この大地も不動じゃなくて浮動する大地だとか、自分の身体も変わっていないつもりで昨日の自分ではないとか、非常に面白く見えてくる。それは何に関してもそうです。ちょっとした下敷き、フィルターを介することでどれだけ世界が面白くなるか。どういうコンテクストをかませるかによって、この世界は意味を持ち始めていくわけですから、本当にそのコンテクストを相乗作用でお互いが教育し合っていくメディア環境、プラットフォームを作っていくことが重要なのではないか、と思っているんです。
 一言でいえば、「もったいない」というのが僕の仕事の動機づけですよ。もったいないというのは、省エネ的・節約的なことじゃなくて、この世界はもっと豊かなのに、あるいは情報もエネルギーも使ってもっと面白くなっていけるのに、そうしていないというのがもったいないというか。さっきのフラーの言葉じゃないですけど、少なくとも僕に見えているぐらい面白い世界を、子供たちが同じように見れていないのがもったいなくてしようがないというか、残念でしようがない。
 みんな1人ひとりがこの世界は面白いと思って経験して、1人ひとりのコンテクストが花が開いていくと、それが全部お互いにとって公共の資源になるわけじゃないですか。いまはみんなの花が開いていないから使える花のフィルターも少ないわけで、みんなその花のフィルターを広げていけば、お互いにそれを利用し合えるわけで、もっと相乗的に面白くなっていくわけでね。
 今はまだそんな面白い時代の前夜です。40億年の歴史からすると、人間は今ちょっと屈んで、ようやく跳び始めたところです。屈んだところで人生終わったらもったいないから、ちゃんと飛ぶまでやりたいという感じですね(笑)。

 渡辺 連載を終えるにあたって本当に前向きな議論ができました。どうもありがとうございました[*9]。


 [サブテキスト]

 *1-->『呼吸するネットワーク』(岩波書店刊)の中で、インターネットがもたらす世界体験の本質について竹村氏はこう語っている。「へばりついたノミたちが感じている地球の認識は皆ローカルでバラバラなもの――。その限りにおいては『群盲象をなでる』のことわざ通り、このノミたちは『群盲』にすぎない。しかし、仮にそれらがネットワークでつながり、たがいのデータを交換・共有し始めたとしら――。(略)おたがいの持つ小さな認識の断片を寄せ集めて貼りあわせてみると、そこにはいわば『ジグソーパズル』のように、思わぬ全体象(傍点)が立ち現れてくるのだ。(略)ネットワークでつながった時、ノミたちはもはや群盲(傍点)ではない。それは、もう一つの全体観、あるいは特権的な『神』の視点からではない『内部者』としての地球認識のアプローチだ」
 *2-->「ブリージング・アース(Breathing Earth)」は、竹村氏がプロデューサを務め、筆者も参加するウェブサイト「センソリウム(sensorium)」(http://www.sensorium.org/)で公開している「実験的表現」の一つ。地下核実験を監視する米IDCが設置する地震計の観測データをインターネット経由で自動収集し、過去2週間に地球上で起こった地震をボコボコとした泡のように地球の三次元CGとして可視化している。詳細についてはやはりスタッフの一人である西村佳哲氏が本誌に寄稿した記事(97年12月 日号)を参照のこと。
 *3-->SETI@homeは、地球外文明の探査を世界中のインターネットユーザーの協調作業によって成し遂げようという「ロマンティック」なプロジェクト。プエルトリコにあるアレシボ電波天文台が観測しているデータをインターネットユーザーに細かく切り分けて配分し、ユーザーは自分のPCにインストールしたスクリーンセーバー型のソフトを使ってデータ解析を行い、それらの解析結果は再びインターネットを通じてSETI@homeのサーバーにフィードバックされる。98年末の本格始動へ向けて準備が進められている。日本語のウェブサイトを東北大の山根信二氏が開設している(http://www.vacia.is.tohoku.ac.jp/~s-yamane/articles/setiathome/home_japanese.html)。
 *4-->慶應義塾大学環境情報学部の村井純教授が代表を務めるWIDEプロジェクトでは、乗用車に無線インターネット接続の装備一式と各種センサーを積み込んだインターネット・カーの研究開発を進めている(http://www.mist.sfc.wide.ad.jp/InternetCAR/index-j.html)。
 *5-->デジタル情報革命による「希少性からの解放」の可能性については、前回登場頂いた森亮一氏も語っている。
 *6-->エスター・ダイソン『未来地球からのメール』(集英社刊)。同書の中で彼女はネット上の知的財産の在り方について、次のようなビジョンを示している。コンテンツの相対価値は下落し、より価値を増すのは人間関係をベースとした知的プロセス(換言すればコンテクスト)になるだろう、と。これは、物財の私的所有や希少性にもとづく旧来の経済パラダイムから情報経済が離陸する上で何が重要なファクターとなるのかを言明したものとして注目される。
 *7-->オランダ国立デザイン研究所が94年11月に開いた国際会議「ドアーズ・オブ・パーセプション2(DoP-2)」で、竹村氏は日本の伝統空間が本質的に豊かなマルチメディア性を内包しており、今後の情報空間のデザインにとってのシーズであることをプレゼンテーションした。
 *8-->「鳥獣戯画」に始まるマンガ(テキストとビジュアルの融合)や、松尾芭蕉を先駆とする元祖「モバイラー」の系譜、マルチセンソリーな経験である茶道、ネットワーク的な表現といえる連歌など、「古い」「伝統的な」領域に属するものと見なされている文化資源を情報メディアの有益なデザインリソースとして捉えることは、今後の重要なテーマであろう。もちろん、それが無根拠に日本の優位性を称揚する底の浅いテクノナショナリズムに繋がることだけは回避しなくてはならないだろうが。
 *9-->20世紀の情報メディア史を再構成しようとしたこの連載も、これで幕を閉じる。まだ十分に深堀りできなかった部分も少なくないが、単行本に収録する際にバージョンアップしたいと思う。ともあれ、お付き合い頂いた読者の皆さんと有益な仕事の場を提供して頂いた編集部にお礼を述べたい。なお、筆者のメールアドレスはyw@writingengine.com、ウェブサイトはhttp://www1.odn.ne.jp/~cab35690/である。
| 情報デザイン・メディアデザイン | 02:20 | comments(2) | trackbacks(0) |
玉利さん、こんにちは。
使わなくなったプロバイダのサーバーに置いてあった記事だったので、解約と同時に消えてしまったようです。うっかりしてました。見て下さっていたのですね。サルベージしてもらって、ありがたい限りです。
nextdesign.jpのサイトをちゃんと組み立てることにしているので、その際にこれらコンテンツも復活させますので、その時までしばらくお待ちください。
| ワタナヴェ | 2006/10/12 6:12 AM |
どうもご無沙汰してます(^^;
ワタナベさんご本人のサイトだったんですね。
| tama | 2006/10/12 1:52 PM |









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