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余白の意味を探る「松林図屏風」長谷川等伯




京都に来てからずっと雨雨雨。そして明日も雨。水墨画のような東山も最初はいいと思ったけど、そろそろどうかと思うぞ。。。

さて、一昨日大学にて、嵐山の山並みに暮れる夕陽を眺めていたら横で、やっぱり夕陽を眺めていた竹村さんに出くわして、日本画について、庭について、久々にゆっくり会話をしたような気がする。長谷川等伯の「松林図屏風」。日本画においてこれに勝るものは無いと断言されて、更に彼自身がそれについて話している雑誌まで持ってきてくれてしまった。

気楽な気持ちで打ち込んでみたけど、ちょっと後悔した。。。やたらめったら難しい字ばっかりなんだけども、この二人の話、きちんと噛み合ってるんだろうか極めて謎だ。竹村さんは例の如く、ガンガン人類学の話に持っていく。余白の話から、97%のDNAはゴミ遺伝子なんだけどもそれがニンゲンの大切な「余白」なのだと。

ログ史上多分最高記録の6080文字。興味ある方はどうぞ。

和樂 2006年五月号

竹村
「松林図」はぼくにとってとても大事な絵で、一見なんでもない松林のたたずまいに無性に惹かれます。樹木は宇宙とコミュニケートするアンテナのような存在で、呼吸しながら人間と宇宙を繋いでくれる。仏像も、ギリシャ彫刻の影響でつくられるようになる前は、もともと自然樹が仏の依代として信仰されていた。そういう樹木の根源的なイメージを、「松林図」の中に感じました。
もともと中国の絵は、龍に象徴される宇宙的な力をわが身に写実するものです。千住さんの画業にも、宇宙的なプロセスに自分が参入して、奉仕していこうっていう、非常に大きなアートの根元的な意志を感じる。そこに共感するんですね。

等伯の余白はひとつの宇宙である

千住
お話を聞いていると、「松林図」はただの木を描いているんじゃないってことがわかってきました。空間をいかに深々とした、崇高なものとして描き出すかに非常に注意を払っています。そのために墨の濃淡を極端に出して、作者の長谷川等伯自身が宇宙のリズムを感じながら、空間を描こうとしている。空間は即ち宇宙です。何も描かれてない、こここそが宇宙空間であって、その宇宙の中に点在している松によって鈍化されたエッセンスを描こうとしている。
中国の古い絵、梁楷の「雪景山水図」も、まったく描かれていないところに彼がいちばん描きたかったものがある。郭熙の「早春図」も、雪が溶けて春になるときの植物が芽吹いている音を描いている。
水墨画は、そもそも中国では墨を使った占いのようなものだったといいます。中国の長い書の歴史とフュージョンして水墨画という形に固まっていったのが11世紀だと考えています。「占いのようなもの」と「書のようなもの」の特長がうまく生きてる日本の絵もいっぱいあるんですよ。たとえば、雪舟の「達磨図」は服の線がまるで書のようだったり。等伯は「宇宙を見据えていた」という意味で、さらに展開した、まったく異質のものを感じる。

竹村
近代的な知性は、変化していくものをひとつの層だけで静的に捉えてしまう。それによって取り逃してしまっう部分について、アジアの文化はものすごく敏感だった。流れる身体とか流れる大地に対して、敏感な感性と精緻な理論体系をつくった。たとえば「合谷 ごうこく」とか「足の三里」とか、ツボの呼び方は一種の地名です。人体を地形として見る。逆に風水という形で、人体に模して地形を捉えてもきた。ミクロコスモスとマクロコスモスを相同的に捉えるシステムです。山水画も非常にマクロなダイナミックな流れを描いていると同時に、細部に対する情熱がすごいでしょう。微細に描くことは、大地のツボを押したり、風景に鍼を打つような行為なのかもしれない。世界を調律するような・・・・・・。

千住
そういえば「景気」っていう言葉はもともと「景色」の「気」のことなんです。経済用語のように使われますが、そもそも絵画の言葉として中国で生まれた。中国の「山水」と「風水」は、非常に繋がっているんじゃないのかな。

竹村
人間も調律者として参加さいながら理想の風水を成就させ、景気をよくしていく。これが近代エコロジーと違うところです。近代のエコロジーは、なるべく人間は入らないように自然保護をしようとする。でも、日本とか中国はそうではない。昔からツボに鍼を打って流れを調律するよう暴れ川を治水する。日本でも水を調律して豊かな水田、里山をつくり、それによってあらゆる草木虫魚が繁殖しやすい環境をデザインしてきた。これは環境思想としても、未来性をもったものではないかな。
このように東アジアにおいては、人間は決して自然から排除されるファクターではなくて、自然の中にあって自然をより高次元に変えていく、非常に能動的な要素として位置づけられている。アートもそういう意味で、単に自然を受動的に描くのではなく、人間がそこに参加して一緒に宇宙を高めていく行為だったのだと思います。
茶道なども「茶」という植物を介して宇宙と人間が繋がるアートです。茶はもともと一種のドラッグで「茶を喫する」ことそのものが、人間の心と体を調律する医術的な側面をもっていた。
「医術」「芸術」と治水も含めた人間の「技術」・・・・・・今はバラバラに捉えられてるけど、ひと連なりのものとしてわれわれの文化の中にあった。

千住
郭熙の「早春図」って、すごく好きな作品なんです。梁楷の「雪景山水図」もそうですけれども、絵のことだけわかる人の絵ではない。総合的なものとして芸術が存在している。ピタッと決まったすべての位置関係は「医術」「武術」「サイエンス」であり、「人文学」でもある。総合的なものとして伝わるから、すべての人に感銘を与えることができるんでしょう。

竹村
人間の美の営みのキャンバスはもともと自分の身体だった。化粧や入れ墨は、非常に宇宙性をもった行為です。身体をしっかり秩序化して宇宙と同調させる思想を今に伝えるのが化粧という概念で「コスメティックス」とはまさに宇宙(コスモス)を身にまとうことです。
宇宙を体現して自分がそれに同調していく行為として山水画の話をしていますが、もっと日常的なところでは、自分の身体を山水画のように描きこんで、大事なところに入れ墨をし、縛り、特に目や口などの開口部やジョイント部分をしっかり調律して、秩序ある身体にしていく。人間のアートの原点として、そういうプロセスがあったと思いますね。

千住
ホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家が、「結局どんな作品も全部自画像だ」と言っています。そういう意味でいったら、この絵はまるで人体を表している、
水墨画がひとつの色で表すことは文章を書いたりすることに近い。色を使い出すと曖昧なところが逃げて掴み損なってしまうところ、ありませんか。

竹村
すごい大事な話ですね。余白の話にも繋がるけど、美を表現しながら、どう人間的な意味での美から自由になるか、自己抑制するかっていうことですね。
たとえば、岡本太郎さんは、曼荼羅について、せっかく精緻に宇宙の豊かさを描きながら、そこい極彩色の色を付けた瞬間に、堕落、不潔だって言うんですね。色によって官能的な美は与えられた。仏に純粋に帰依したい多くの民衆を没我状態にはするかもしれない。でも、それは大我、即ち宇宙と一体化する自分には至らない。
岡本さんはそれを、「アートの矛盾」って言ってるんです。感覚的な美を表現すればするほど、本来のアートの目的から遠ざかると。

千住
「表現」っていうのは「表す」と同時に「現れる」って書くんですね。「表す」ことによって、そこに何かが立ち「現れて」くるとき、表現が完成する。この水墨画は、表現のレベルで完結したんです。色も必要ないぐらい緊張感に満ちている。だから、いろんなものが観想できる境地に立ったのかなと思うんです。

使われていないDNAは未来へのヒント

竹村
「松林図」は一見簡素ですが、細部まで見ていくと、ものすごく多くのものが立ち上がってくる。驚くほど贅沢ですよね。贅沢というのは、水面下に膨大な試行錯誤を内包し、あらゆる多様性やゆらぎを許容した上で、表現型としては極めてシンプルになっているということ。それは生命や遺伝子のロジックにも通じます。
人間のゲノムを調べると、意外なことに97%はジャンク(屑)DNAなんです。われわれの生命的な営みには3%あれば事足りるはずなんですが、残りの97%のむだがあることで、新たな進化を引き起こすような「遊び」ができる。あるいは環境が激変したときに、多様なオプションを抱えていることが役に立つかもしれない。
膨大なむだを抱えているがゆえの自由というものもあるわけです。人間の脳もそうです。われわれの脳は、何も入力がないときにも常に振動し、動いている。そこがコンピュータと違うところです。
生命は、膨大な無駄を前提としてものすごく贅沢なことをやっている。

千住
ソニーの元CEOの出井さんの「本は買っておくだけでいい」って言葉があるんです。「いつか役に立つ」って。「なければ見たいと思ったときに見られない」と。ぼくはすごくリアリティのある実学を生きた方の意見として聞いたんだけど、竹村さんからDNAの話を聞いてみると、そういうレベルでもこの話は一致するんだな。

竹村
ぼくは専門が人類学ですが、「人間って何か」と同時に、「この宇宙にどうして人間という存在が生まれてきたんだろう」、逆に言うと「宇宙はなぜ人間という存在を内包する方向に進化してきたんだろう」ということを若いときから考えざるを得なかった。高度成長の直後も公害とか戦争とか人間のネガティブな面が出てきて・・・・・・。

千住
そうですね。環境破壊の問題もありましたし。

竹村
「それでも、人間がポジティブな意味をもってこの宇宙に存在しうるのか」っていう問いを避けて通れない世代なんですよね。考えていきて思い至った結論は「生命は善悪を判断しない」ってことです。
たとえば、体質的にコレステロールが溜まりやすい遺伝子のタイプがあったとします。今でこそ飽食の時代で毎日肉を食えるからコレステロールが溜まらないほうが便利ですけど、長い人類史を通じて肉なんて一年に数回しか食べられなかった。となればコレステロールが溜まりやすいほうが絶対にいいはずですよね。
つまり、いい遺伝子か悪い遺伝子かっていうのは、環境によって180度価値観が変わるわけです。となると生命にとって唯一正しい戦略は、その時々の一時的な理由で善悪を判断しないで、多様なオプションを残しておくこと。何かをデザインする、あるいは余白を残さずにびっしり設計しようとする知性は人間の強みでもあるんだけども、逆に大切なものを失ってしまう部分がある。

千住
文化においてもまったく同じことが言えますね。ピエロ・デッラ・フランチェスカってルネサンスの画家が評価されたのは、20世紀になってからです。時代によって光が当たる作家と、膨大な数の光の当たらない作家がある。しかし、世の中がまた大きく変わったら、今まで光が当たってなかった作家が俄然ものすごく重要な作家になったり、大変な人気だった作家が、まったく意味を成さなかくなる。そのときの人類にとって何がメッセージとして注目されるか、必要とされるかも違ってくるのです。

竹村
世界をデザインしたい、全部自分の望む色で埋め尽くそうとする欲望と、それに留保をつけて余白を残す知性とのバランスを今問われている時代だなと思います。

千住
「膨大な余白にこそ未来の可能性がある」ということですね。郭熙の「早春図」にしてもこの余白の部分は、雲だし、水だし、道だし、あるときは土なんですね。余白が膨大な情報をわれわれに暗示してるんです。梁楷の「雪景山水図」にしても・・・・・・。

竹村
遺伝子のありように似てるかもしれない。

千住
余白というものが非常に重要な情報に満ちているのが、水墨画なんですね。
等伯の「松林図」の何も描かれていないところこそ、膨大な余白のもつ濃密な可能性の暗示なんですよね。水墨画の余白は謎に満ちていて、謎に見えるような位置に樹木を配置している。その絶妙な成功例が等伯の「松林図」じゃないか。

竹村
この瞬間だけで見ると余白だけど、たなびく雲、水蒸気はほんの数時間後には雨水となって地に巡り、あるいは樹木の一部となって、また天に還っていく。時間軸をここに入れてみると、これは現実態だけど可能態でもあり、過去であり未来である。そういう多様な時間が蓄層されて表現されている。

千住
時間と空間なんですね。

竹村
遺伝子もそうですよね。まだ発見していない、今は必要とされていないかもしれないけど、未来に発現すべき遺伝子もあるかもしれない。
時間的な位相で見たときに、あるいは生命的な風景の中で見たときに、はっきりと描かれていない部分の豊穣さ、そういうものまで抱え込める贅沢な設計原理を持っているからこそ強くて美しい。

千住
いや、面白い話になりましたね。

竹村
描く側にしてみると、この余白がちゃんと磁場をもつように、木や風景を調律してゆくということが、絵画の本質なのかなと思いましたね。

千住
むだと思われるDNAこそが余白なるものの本質であって、実はぜんぜんむだじゃない。世の中が激変したときに、忽然とその中から解決のヒントが現れてくる。
世の中にむだは存在していないってことを、雄弁に語りかけてくるのが水墨画なのかな。

意識して描かないものが絵画の裏にある

竹村
そう考えると、この「松林図」ってますますもって恐ろしい絵ですね。

千住
ただ、実景ってこう見えるんです。霧が晴れてみれば、「ああ、あそこが山だったんだ」っていうように。これはリアリティに忠実な絵でもあるんですね。
ずっとあとのことですけども、松尾芭蕉は「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」と言った。等伯のよりどころは徹底的な描写と観察だってことは明白です。画室の中でひねり出したものではなくて、徹底的なフィールドワークの結果に掴んだ真理の世界だと思うんですよ。霧に隠れてるところにこそ、終(つい)へのヒントがある。そのことを日本では昔から「幽玄」とか「余情」という言葉で表しています。何ものかが立ち現れてくる、想像の源泉であるというふうに、正体がわからないながら非常に評価をしているひとつの存在感なんですよ。

竹村
ここにあるのは中途半端な余白ではなく、いまだ顕れてないけれども、ありうべき可能態全体を引き受けていくのは、すごくエネルギーのいることで、そのエネルギーが全部凝縮されてるからこれだけの強度を感じるんでしょう。

千住
不必要なものは描いてないけれど、不必要なものがこの根底に存在しているという意識はあるんですよ。絵画は、不必要なものを一切画面から省いていくべきものだけれども、意識して描かないものが裏にあることは必要ですね。

竹村
「技術」「芸術」「医術」「武術」がもっとトータリティをもってつながっていたと言いました。「美術」(アート)を美術館とか、美術大学の世界に囲い込んじゃったのは近代で、その前はもっとトータルなアート・オブ・ライフだった。そうやって狭くなりすぎた「美術」を広げるっていう意味でそう言いました。
じゃあ、逆にトータルな営みという立場から、「美術」(アート)はどうしてあるのかを考えてみると、医術とか技術は、日常性の中にどうしても埋没していくのに対して、生命世界の贅沢さを十全に表現し、なおかつそれをぎゅうっと圧縮してすごい表現にする美術という行為は、やはり特権性を持ってるわけですよ。
ですから「美術」(アート)は高値が付くから高尚なのではなく、生存や生活の営みから解放された次元にあるからでもなく、この世界の本来の贅沢さにダイレクトに触れる回路だからこそ、本当の意味で「贅沢」な営みなのだと思うんです。

千住
すると、水墨画の世界は、画家たちがふだん考えているものとはまったく意味の違うものですね。でもとても恐ろしい話です。
改めてこういうことを見出すと、怖くて絵が描けなくなるかもしれないなあ(笑)
| 日本の残像 | 01:32 | comments(1) | trackbacks(0) |
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国宝「松林図屏風絵」(東京国立博物館収蔵)と「月夜松林図屏風絵」(京都国立博物館収蔵)は石川県能美市内のかつての名勝「根上の松」から写生した絵であると主張しています。(「根上の松」はヤンキースで活躍した松井秀喜選手の実家のすぐ近くです。)
次のような文章や写真や図で実証しています。
Facebookページ「霊峰白山」で公開していますので、ぜひご覧下さい。。
長谷川等伯の名画、国宝「松林図屏風絵」(東京国立博物館収蔵)と同じ構図で「月夜松林図屏風絵」(京都国立博物館収蔵)というのあります。
9月27日に、能美市根上の「根上の松」から「中秋の名月」が「奥獅子吼山」の上に昇った時の様子を撮影することが出来ましたが、これは「松林図屏風絵」も「月夜松林図屏風絵」も共に、夕靄ごしに「根上の松」から南東方向の白山(二曲一双の中央が白山)を望んだ絵であることを証明するものであります。「月夜松林図屏風絵」では山は描かれていなく、二曲一双の左端に月の出直後の満月(「根上の松」からは真東の方向)が描かれています。これには白山が描かれていないので、「中秋の名月」の翌日の十六夜の月、先日9月28日のような「スーパー・ムーン」かもしれません。
位置関係を考察すると理にかなっていることが解ります。
| 後藤朗 | 2015/11/10 7:39 PM |









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