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伝統文化の破壊 重森三玲のモダニズム
東福寺方丈庭園北庭、小市松の庭園


重森三玲はモダンだ。彼の作品の中でもデビュー作にあたる昭和14年に作られた東福寺の方丈庭園に最もモダンさを感じる。これが昭和14年の作であるということはどういうことなのか、モダンなんていう言葉は非常に相対的なのかもしれないが。昭和14年の時点で彼は一つの大きなテーマを抱えていた。それは日本庭園の中でも特に「枯山水」が長い年月をかけて洗練されていき、室町時代に作られた「龍安寺の石庭」で遂に抽象の極みに達するとされる、日本の庭園文化にこびりついた「余白」と「間」についての既成概念である。龍安寺の石庭以後「枯山水」はものすごい勢いで普及していき、普及するとともに、徐々に庭園文化から創造性が低下していった。それから500年ほどたった昭和初期、このままでは日本の庭園文化は廃れてしまうのではないかという思いから彼は、市松模様のモチーフを投入してみたり、北斗七星の形に、石を配置することによって、空間をダイナミックに埋め、それまで究極の完成品とされていた「龍安寺の石庭」に敢えて挑んだのであった。

東福寺方丈庭園東庭、東寺の基礎で構成された北斗七星


旧重森三玲邸庭園


京都大学の近所、吉田山の麓にある自邸。1942年、吉田神社の社家の家だったものを三玲が買い取った。写真右、敷石と玉砂利が海の波頭を表している。



写真左、重森邸には、親友イサム・ノグチから送られた照明と、ノグチ設計の庭の設計図を書いた書がかけられている。
京都・東山 重森三玲邸で見つけたのは・・・

発掘!重森邸に残されているのは、イサムが贈った<あかり>と、ほとんど人の目を触れることのなかった掛け軸と幻の茶釜である。重森三玲とイサムの関係はユネスコ庭園に始まる。イサムに日本の石を教えたのは重森。イサムがユネスコ庭園を手がけることになった時、日本の石こそが庭園の骨格になると考えていたイサムに紹介されたのだ。
庭園の研究家であるばかりでなく、名庭といわれる数多くの庭を手がけ、モダンな作風で知られていた重森三玲は、ただ純粋な日本庭園を作りたかったワケではないイサムにとって、最適な人だったのだろう。代表作である東福寺方丈庭園の、市松模様に敷石と苔で構成された北庭を見て、「モンドリアン風の新しい角度の庭だ」と驚いたことが、当時の新聞にも掲載されたほどである。
重森三玲は、この自邸でも使っている徳島の青石を進め、1957年、一緒に石を探しに(石を釣りに)行く。1日に80個もの石を釣り、翌月に徳島の空き地で試作に取りかかる。何度も試作して、やっと満足のいく石組みが出来たその夜、重森とイサムは記念に書を一幅交換し合う。それが、この掛け軸。当然、彼が描いたのはユネスコ庭園の図である。
一方の茶釜だが、イサム・ノグチ財団からの問い合わせにより、この2003年に蔵から発見されたばかり。重森のことを「茶人」と称したイサムの贈り物だ。鋳物で出来ているが、釜というよりも彫刻作品といったほうがいいような作風である。58年暮れに、イサムから茶釜が届いたと重森三玲の日記にはある。
一節を要約すると「確かにこの茶釜、今までの釜の概念からは全然異なったものである。だが困ったことには、重量が何倍かあって使いづらい。芸術的には新しくても、茶への新しさが分かっていない・・・・・・」。このためか忘れられ、蔵の奥底に眠っていたという。
なかなか辛口批評。石の心は分かっても、茶の心はまだまだってことだったんですか、イサムさん。

岸和田城庭園八陣の庭と天守閣


天守閣から見下ろした時に見える幾何学模様の風景は、諸葛孔明の八陣法の陣形がモチーフとなっている。この兵法は守りの方であり、戦後における恒久的な平和を意図されている。
| ワココロ | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |









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