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星の王子とわたし 内藤濯
「自分の仕事をつくる」の西村さんのオススメで、栃木県の益子に行った。益子は、隣町の笠間と並んで関東圏で唯一の陶芸の里だ。西村さんも個展をやったという有名なカフェ「スターネット」で1976年に内藤濯が自ら「星の王子さま」を翻訳したときのことを語った本があって、読んでみていろいろサン・テグジュペリと、この作品について新たな発見があった。

ひとつは、サン・テグジュペリは四六時中文章に向き合った、文学作家ではなかったということである。人生の大半を航空士として飛び回り、その多くの体験を、ごくごく一部の時間で書いていたということである。つまるところ、職業作家にならずともその人の経験が文章の内容的価値を決定しているという事実である。これは、最近、文章を生業とすべきか否か、と考え始めた自分への一つの答えであると思う。

もうひとつは、僕らが「星の王子さま」として認識している文学は、サン・テグジュペリ一人の世界観ではなく、内藤濯という訳者があってこそのものだったといえることである。この訳者がなければ、ただの「小さい王子(原題:Le Petit Prince)」のままであったといえる。彼が王子に「星の」という名前を与え、本文の内容も原著よりももっとも魅力的なものにつくりかえたことにより、原文より優れた訳文が生み出され、至高の文学作品として記憶されることになったことである。
はしがき 内藤濯

もはや二十三年ほど前のことである。児童文学に堪能な石井桃子さんが、美しいフランス本を私のところへお持ちになった。英訳で読んでみたのだが図ぬけて秀れた作だと思うので、いま私の関係している書店で本にしてみたい。で、もしお気が向くようだったら、日本語訳を試してみて下さらないか、とおっしゃる。おっしゃり方に、なみ大抵でなく熱がこもっているのに引かされて、石井さんがお帰りになるとさっそく、ページを繰りはじめた。そして何よりもまず、短い序文の結びとなっている一句「おとなは、だれもはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」というのにぶつかった。私は身のすくむ思いがした。おとなの悪さを、やんわりつついている志の高さに、頭があがらなかったからである。問題の書はほかでもない。アントワヌ・ド・サン・テグジュペリの「星の王子さま」(ル・プチ・プランス)である。

サン・テグジュペリといえば、今はもはや故人で、七月三十一日が祥月命日に当たる。二十歳の頃から、航空に宿命的な情熱を傾けはじめた異常人だった。したがって、肉体を底の底までゆさぶった経験といえば、なん度とも数知れぬ搭乗機の不時着だった。見はてのつかぬほどまで拡がっている砂漠に向かっての激突だった。したがって「星の王子さま」は、ただの作家の作ではない。航空士といたいけな王子とが、一週間そこそこ、人間の大地を遍歴する記録ではあっても、つまるところは、人心の純真さを失わぬおとなの眼に映じた社会批判の書である。

正直なとこと、私は石井桃子さんを介して、はじめてこの作の存在を知った。そして作者の無類な人間価値が、作の経緯となっていることに気づくと、昼となく夜となく、翻訳の仕事を進めながら、一方では、リズムに綾どられた日本語の発見を楽しんだ。読んで読んで読み抜いて、この作の値打ちに浸り、社会批判のくだりで、自分自身の愚かさをつつき出されたあげく、それに苦しむほどの人には、私がこの作に心ひかれているわけを、たやすく察して頂けるだろうと独りぎめしている。フランス文学と日本文学との間を行きつ戻りつしながら、童心のいたいけさを解きほぐしたこの作のために、こうお心打たれることになろうとは、まったく思いもよらぬことだった。サン・テグジュペリのおかげで、私はすくなくとも、ただの理屈で自分を縛ることの悪さだけは、知ったらしいのである。この小著は、サン・テグジュペリの生涯を追いながら、同時に私の心の中に住む「星の王子さま」を探し求めた私の生活の反映である。
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