tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
Main
<< 僕は個人の経験値から、世界を見たいんだ 町家近況 >>
東京も適度に水没して自然に返るくらいが丁度いいんじゃあないかって思っているんですけれど。笑
Earth Literacy Program WORKSHOP 第2回
speaker:竹村真一氏
date & place:2009.03.09
原宿コープオリンピアにて

今日の竹村さんはちょっとだけ本気でした。
これを聞いて、応答せよ、ということだと思うけれど。なにを応答しようかね。

---

世界中で冬至ってのは太陽が死んで生き返るプロセス。節分を過ぎるとほんと日差しが強くなりますよね。張り切っているので「春(はる)」。山で増えてはりきったエネルギーがほとばしり出てくる。そうやって出てくる山のスピリチュアルエナジーのことを「さ」という。さがおりてくるから「さおり」さがおりてくる月が「さつき」それが田の神になって稲を実らせて、山にかえっていく「さのぼり」さが降りてくるプロセスで、一時的に可視化される瞬間が、さくら。もともとはソメイヨシノはなくて、山の中腹に山桜があった。あれが一時的にさのエネルギーとして、可視化される。座。そういうかたちでさくらってのはですねぇ、見えないエネルギーを可視化する寄り代でしたから、花見っていうのはそういうエネルギーを浴びに行くことなんですね。中国では樹木の中で気功する。樹木と気を交換する。「かる」ってのは、交換するっていう意味合いがあって、交換ていうことはお互いインタラクティブなんです。あるいは同一化してしまう。熊が人間となり、人間が熊となるみたいな相互関係が生まれたりする。熊をかるとか、豚をかる、っていうのは生命力を交換してそれと一体化するっていう。はなかり、ってのもそういう意味では、さくらと同一化していくというか。英語で参加っていうとパーティスペーションていって、日本語でも自分、っていいますが。そういう大きな循環に中の分になるっていう感覚がある。さっきから言っていることは日本民族史に基づいてますので、あてずっぽうで言っているわけじゃない。基本的に日本人てのは、そういうさくらっていう小さな花のなかに、大きな宇宙的な循環をみていた。そういう、なんでもないありふれた現象の中に、宇宙的な大きな原理を見る感性というか知性が。それを21世紀的な文脈で見ることができると思うし、ほんとに骨太な地球に生まれてきた意味を語っていける道なんじゃないか。なんでこんなこと言うかっていうと、現代の我々ほど、そういうありふれた現象の中に驚くことができる世代はないんじゃないかって思うんですね。我々だって、僕らの体が日々3000億の細胞が生まれて死んでいく。季節外れの花が咲くっていうのがやたら早くなっていることに環境変動を感じるっていう人がいますけれど、僕は、季節通りあたりまえのように花が咲くことのなかに、隠れた大きな意味を見いだすってことが、本当の意味での環境意識だと思う。よくこれは現代の科学の言葉でいうと、花がさく、これも太陽からエネルギーが降りそそいで、エネルギーを捕獲して植物が光合成をして花を咲かせていくわけですけれど、地球が太陽から与えられているエネルギーっていうのは、石油メタボリック社会の中で無駄にエネルギーをつかっている中でも、それに比較して一万五千倍くらいのエネルギーが太陽から降り注いでいる。この惑星はエネルギー問題なんて本来は生じようもないくらい、うまく宇宙船地球号ってのはエネルギー切れがおこらないように設計されているんですよね。ここまでは本に書いた。

量と質の話でいうと、質的な意味ではエネルギー問題は生じないって言いましたけれど、地球に降り注いだエネルギーは、それだけでは終わらないんですよ。動力源としてつかっていますけど、植物はそれを光合成、葉緑素でそれをとらえて高分子活動として蓄えていくわけですよ。水素を六つと炭素が十二個と炭素が六つかな。それくらいを結合させるととうができて、それがデンプンになる。これは炭素という非常に柔軟性を持ったシステムが、結合力という形で太陽エネルギーを貯蓄しているわけですね、それを僕らはとっている。本当だったら太陽エネルギーってのは、ばーーーっとやってきて、宇宙に放出されて終わっちゃうところが、地球には植物プランクトンがいる。それをエネルギーのお金として貯めてくれている。それを僕らはとうぶん、グルコースだとか言っているわけですけれど。それが千円札とか一万円札みたく貯蓄されているのがデンプンで、それをさらに効率的に貯蓄されているのがお米なんですね。そこからエネルギーを引き出して僕らは生きている。で、なにを言いたいかっていうと、太陽の立場からすると、地球ってすげー星だなあって思ってると思うんですよ。太陽は火星も水星も同じようにあっためているのに、あいつらはあったまったら、ただ冷めていくだけなんですよ。それを地球は貯蓄していて、それを動物が食べる。このプロセスをインフォーメーションて僕は訳しますけれど、情報じゃあない。この地球ではインフォルムしている。とてつもなく豊かで、なによりも美しい。高次元の貯蓄をこの地球では生んでいる。これは凄いことが起きていますね。

太陽エネルギーがあるから、原発はもういらないよっていうのがもう当たり前なのですが、ドイツとかデンマークが20年も前からやってますから、同じことをやればいいだけで、そんなものはクリエイティブじゃあない。ただソーラーパネルから取り込んで、それをもっと凄いものに変化させていっているわけですよ。より上位の、美の秩序へを絶えざるジャンプをしているわけですね。この凄いことが地球でおこっているわけで、その上で生きているのが僕らである。自然界に対する胞子であるまま、インフォルムされているのがさくらという花であったり。米をたべたりさまざまなことをしながら、アイデアという花に咲かせているのが人間であったりするわけですよね。人間てほんとに愚かで未熟だと思いますけれど。セルフリスペクト、そういう感覚を子供達に伝えていないってことは僕は犯罪だと思いますね。それを認識する鏡というような役割として人間ていうのは存在していると思いますね。太陽エネルギー、ちょうど太陽から第三惑星として存在していて、気圧と気温の関係って相対的ですから一概にはいえないですけれども、お隣の火星ではぜんぶ蒸発してしまっているし、金星では凍りついてしまっている。地球は、水を液体であるように自分で自己調節してきたという形跡もありますし、こんなにレアな星が生まれた。最近の物理学の発達で、いい加減に満ちている。物理法則でもいろんなものがちょっとでもずれていたら、こんなに奇跡的な宇宙は生まれていなかっただろうって言われていて、陽子とか中性子を生み出す、核力ってのがあって、いまよりちょっと核力が弱かったら、酸素とか炭素とか、生命を作り出すのに不可欠な原子は生まれなかっただろうっていわれていますね。水素二つくっついてヘリウムってのがあるけど、それが三つくっついて炭素になるし、四つくっつくと酸素になる。簡単に言うとビリヤードのたま三つくっついているのが炭素なんだけれど、ビリヤード玉みっつもよっつもくっつけるのにけっこうな力がいるわけですよ。その力がなければ、そこから生命が生まれるなんていうシナリオはなかっただろうって言われているんですよ。原始のレベルで非常に微妙なところがあって、もうちょっと強かったら水素が全部なかったかもしれないし、ほんとに「いいかげん」なところで、宇宙が存在する基礎があった。でも、その条件は宇宙にあまねくあるんですよ。その条件をベースにして、酸素と炭素と水素を組み合わせた、さっき言った、糖分とか、炭水化物っていう、いわゆる有機物ですよ。それがまた複雑に繋がっているんだけれど、簡単にいえば全部炭素と酸素と水素の結合物なんです。丁度いい加減の力で奇跡的にこの宇宙で生まれてきたにしても、それをパワーユーズして、生命という力をインフォルムすることができていることは、この宇宙で滅多に無い。20世紀最大の発見はアインシュタインとかみんな言いますけれど、この宇宙がどんだけ奇跡的なバランスで存在しているか、とんでもなく奇跡的な豪華絢爛な花々をさかせることができたということが、僕は20世紀最大の発見だと思うんですね。

そういうことを語ってくれている本がまだ一冊もないってことが犯罪的だと思うんですね。こういう発見を20世紀後半に見つけたにもかかわらず、この地球の未来は悲惨だとか、だからレジ袋をつかわないでおこうね、とか、ほんとせせこましいじゃあないですか。もっとプライオリティが高いことがありますよね。温暖化をなんとかして止めよう!って言っている人たちからみたら、僕の本に書いてあることはいやなことが書いてあるかもしれませんね。どこに行くために地球温暖化対策っていうのがあるのか。どこに僕らが解放されていくプロセスとしてあるのか。そういうことを考えずに、とにかくレジ袋は使わない方がいいよとかっていうのは、猿でもできることですね。


今日、季節の話から始めたのは、三浦梅園の「枯れ木に花咲くより、生木に花咲くを驚け」ってもう200年くらい前に言われているんですけれど、梅園さんに言われなくたってそのすごさに気付いている時代なはずなんですよ。この宇宙の知性化プロセスですよね。この地球っていう星にだけ、とんでもない破格な展開をしているんですね。そういう解像度で世界が見えてきているはずなのに、特に人類は70億のメタボリック社会で、ちょっとアメリカでなんかあっただけで、とっても風邪を引きやすい免疫のない社会であることをなんとかしなきゃいけないってことはあたりまえなんだけども、その前にどこに行きたいの?ってことを子供達に語ってあげられる時代になっているわけじゃあないですか。たかが石油を使いすぎているだけで人類社会が滅亡するようであればそれは本当にもったいないことですよね。食べ物を残すことよりも、こういうことのほうがもっと「もったいない」ですよ。


石油を燃やして火力発電所で燃やして送電しているときに、投入している石油エネルギーの40%くらいが発電のプロセスでなくなり、30%くらいが送電のプロセスでなくなる。僕らが得たいのは光なんですけど、光という目的に向かっていることはその全体の中の1%くらいなんですよ。これはとても美しくないと思うんですよ。とてつもなく美しいバランスで生命系が成り立っているのにもかかわらず、これは美しくないと思うわけです。これが僕は許せないんですよ。エコ・エコノミーって言っているうちはだめですよ。最近のそういうことをがんばっている人たちからしてみたら僕はいやなやつだと思うんですけれど、カーボンオフセットでがんばっておられる方も大事だと思うんですけれど、もっと骨太なところでやれることがあるんじゃないかって。そういう骨太な経済をデザインしていこうっていうモチベーションは、僕は経済的なものでも政治的な問題でもなく、僕の中では「美意識」の問題である。こんな99%のエネルギーを無駄にしてしか生きられない生き方でいいんですか?って。そんな感じですね。実際僕もしょうがなく車だって乗ってますし、パソコンだってつかっていますけれど。アイドリングだってしてりゃあ200万頭の馬が交差点ではねているだけ。笑。っていう。これがただ跳馬美しくないですよねって話ではなく、この生命のプロセスをどこまで理解した上で、美しいと感じることができるかどうか。さっき言いましたけれども、季節外れの花に気候変動を感じて驚くよりも、当たり前に花が咲くことのとてつもなさ。そういうことを可視化したり、伝えていくっていうことにおいて、それがぜんぜんされていないことが犯罪的だって言いましたけれど、僕らもやっとそういうことを始めたわけで、ああいう地球儀をつくったのも、直感的にそれを感じることができるために作った。まずあの雲の流れる地球をちゃんと感じてもらって。宇宙人からしてみれば、どこもインフォームされない星々ばかり見てきた宇宙人が、この地球をみると本当に目を見張るだろう。そういう宇宙人的な感覚で驚いてもらおう。そういうポジティブは発見を共有していこうっていうことがほとんどされていなくて、とにかく削減をしましょうとか、これも行き過ぎるとエコファシズムみたいなもので、丁度恐慌の後の大変な状況のなかでナチズムによって救われるとか、共産主義によって救われるとか、そういう単純なアリバイ工作による、複雑な現実の隠蔽みたいなことって、人類はずいぶん反省してきたはずなんだけれど、ひょっとしたらさっきのカーボンオフセットみたいなものって、本当に大事な地球リテラシー的なものが無視されるのであれば、ナチズムに傾倒した頃のようになっちゃうのであれば非常に危険だと思っている。東京も適度に水没して自然に返るくらいが丁度いいんじゃあないかって思っているんですけれど 笑 それはまた別の機会に。

いまの理科離れだって当然だと思いますよ。現代地球科学が発見していることって、とてつもなく面白いことなのに、それを驚かさせないで、酸素16とか、炭素12とか、ただ覚えさせているだけ。レイチェル・カーソンの言葉を借りるとセンス・オブ・ワンダーですよ。センス・オブ・ワンダーを育てることが、理科離れを回復させる最大の鍵でもあるし。宇宙がそういう増えるプロセス、自己増殖するプロセスで成り立っているんだっていう気付いていく十分なスローな時間と空間があれば、勝手に言語感覚に繋がっていくんじゃないか。挑発的に言えば国の教育は縦割りで結構。


モンテッソーリの教育にあるんだけれど「魚は海を動かす。魚は水を動かす」って。普通逆だろ?あの頃からこういう地球物理化学的なことが語られていたんだけれど。石灰岩だとかそういう地球の炭素循環を担っていたんですけれど。魚なんかに貯蓄して、生まれた川に帰って、陸と海を繋ぐようなかたちで循環させているわけですよね。そういうことを念頭に起きつつ、そういうことを書いてらっしゃいますけれど。そこでモンテッソーリが一番強調したかったのは、魚は水の中で生かされている、生かしている存在である、ということを言いたい。もっとコズミックな、宇宙論的なところを説明することが教育の最も大事なところだ。さくらがインフォームしているということをこの場で話したかったのは、そういうつもりで言ったんですね。モンテッソーリの学校がすべてそういうことをやってくれているのかってのは、きびしく見ていたいですけれどね。ゆくゆくはそういう学校を作っていくみたいなところに繋がっていくんでしょうけれど。いまはネットとかそういういろんなかたちでね。クルーズというのも特権的な学習空間であるかもしれないですね。ピースボートみたいきちんと志がないところでも、陸から離れるっていうのは、陸の鎧を外していくんですよ。陸の教育システムではなかなかしきれないところを、洋上学校ということに徹してやっていくということは、けしてピースボートさんが来ているからやっていることではなくて。

ほんとクリエイターって名ばかりで、案件病になっちゃって、ほんとに大事な仕事ができないっていう。ほんとに自由にやれる責任があるのに、それを放棄しているのはどういうことかと。

しんぜんび 真善美

真が善に昇華して美になる。この三つは並列ではなくって、入れ子構造になっているんだよね。日本人は善のとこまではもっていっていたんだよね。
| ログ | 01:45 | comments(0) | - |