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メタ認知と認知限界
目下最近、頭痛がしてくるほど悩ましいテーマだ。どのようなことをしていても、大概のことは「メタ認知」と「認知限界」という2つのキーワードにおいてほぼ共通する。

最近一番困る質問が「どちらにお住まいですか?」というお決まりのやつである。東京と京都と四国を行ったり来たりというライフスタイル自体がまずそもそも認知されなくて毎度毎度説明が大変だ。現代においても、人は必ず定住地があり、そこから毎日決まったサイクルの生活があるもんだと決めてかかってくる。これを説明するだけでひと話盛り上がれるわけだが、これが毎日になってくるとだいぶしんどい。しかしこれを逆に活用すると嬉しいこともある。東京に居るときに、京都の友達から「いまからラーメン食いにいかへん?」とか誘われると内心「やった!」と思ったりする。無論、そんなにすぐに行けるはずもないけれど。

そもそもなんでそんな実験をしているかっていうと、自分自身のメタ認知を突破するためだと思っている。人間不思議なものでずっと同じ場所にいると、自己を認識できなくなってくるのだ。組織にしてもそう。自分の属しているコミュニティにしてもそう。いわゆる村社会化というやつは、メタ認知能力の欠如によって生まれる心理学的な現象だ。現代においても会社の中に一歩入ればそこはメタ認知能力の欠如しまくった世界が広がっている。だから人は皆旅に出たくなるのだ。旅に出ることで自己を発見して、また村社会に帰ってゆく。

その次に困る質問が「なにをされている方ですか?」というやつだ。何年か前までは、いかに自分をわかりやすく他人に伝えるかということに執念を燃やしていたように思う。「ウェブデザイナーです」と一言で説明することはできるけれど、僕はその紹介のされ方が一番嫌いだ。ウェブデザイナーという言葉は、2000年あたりから、商業的な広告仕事の下請け仕事のみを指す言葉として認識されるようになってきた。大変申し訳ないけれど、もう何年も企業の広告になるようなウェブサイトをつくった覚えはないし、それにインターネットは、ただのツールであって、ミッションがあってその解決にとても有効なので使っているだけで、場合によっては紙に印刷するものもつくるし、最近はインテリアだってやっている。説明のしようがないから、もうあとはブログを読んでもらうくらいしか、ご理解いただく方法が無いのですが。

話は飛ぶが、京都という街は認知限界において特に深刻な問題を抱えている。この街が他の地方都市と決定的に違うのは、よそから「人が多く来すぎる」ことだ。その地域性から自己と他者を強烈に区別するために、資本主義の概念とあいまって、観光業、という凄惨なビジネスが、外から来たものを基本的に「食い物」として認識させている。「観光客ユーザー」としてモノカルチャー的に扱われるおきゃくさんは、お金を落としていってくれる装置でしかないという認識をした時点で、不幸のサイクルが加速しているように思われてならない。ここから脱出する道はひとつ。「本物を伝えること」のみである。

その本物を日本文化において追求している人たちを巡り巡っていると、とても外国人が多いことに気が付く。1823年に来日したフォン・シーボルトに始まり、ラフカディオ・ハーンやブルーノ・タウト。それに最近では伊藤若仲を日本人に紹介したといっても過言ではないジョー・プライス、それに最近仕事として関わりを持たせてもらっているアレックス・カー。彼らは本当によく日本のことを知っている最高の先生だ。日本の「本物のある場所」は、どんな観光的なガイドブックにも載っておらず、むしろ彼らが見つけ当てるのだ。なぜなら、日本人にとって日本の文化や自国の文明の特質は、あまりにも当たり前のものでありすぎて自覚されることがなく、異邦人の外からの視点によって発見され、相対化される。

遠さ、という意味では最近、宇宙をテーマとしたプロジェクトにも関わっているのだが、宇宙に行ったということは、人類にとってテクノロジーの進歩を評価するのではなくて、最も認知限界において遠いところまで行ったという点で評価するべきかと思う。スルタン・ビン・サルマン・アル=サウドという宇宙飛行士は、あるミッションにおいてこのようなことを言い残している。
最初の一日か二日は、みんなが自分の国を指さした。
三日目、四日目は、それぞれ自分の大陸を指さした。
五日目には、わたしたちの目の写っているのは
たったひとつの地球しか無いことがわかった。
・・・と、ここまで書いて、4ヶ月前にも似たようなことを書いていたことを思いだした。
2008.12.05 遠いからこそ、よく見える
http://tamachan.jugem.jp/?eid=491


結局のところ「なにを未来であるか」という認知をしているか「世界をどう捉えているか」ということに尽きる。

今年の初め頃、キューバが長年、相対的に共産主義だということで区分けされていたことが間違っていることに気が付いたときに、カストロやチェ・ゲバラが、マルクス、レーニンよろしく共産主義になりたかったわけではなく、彼らの理想とする生き方を実践するためには、1960年代の中米ではあの方法しか無かったのだ、ということを認識した。アメリカに支配されることなく、自立した生き方を、自分たちの未来として認知した場合に、ソ連に近づくことでしか成し得なかったのだ。それをただ、赤、っていうことでしか認知しないのは、記号化に迎合する知的怠慢である。

大義名分としては認知限界を突破するために、極端なまでに我々の住んでいる社会はアルファベットよろしく記号化されつつあるわけだが、単一的に記号化すればするほど現在の状況は深刻になっていくように思えて仕方がない。まあきっとその辺でよく言われていることだけれど、単一的に記号化して、金銭によって交換可能にした果てに2008年の9月のクラッシュがある。その結果がどうなることかがよく解ったにもかかわらず、いまだにすべてが交換可能と信じて、手作りを一切せずに組み合わせだけでものを考えることが、いかに知的怠慢極まる行為であるかを、よくよく認識されたい。
| 無意識の意識化 | 03:46 | comments(0) | - |
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