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ホントに持続可能な地域作り「西粟倉・森の学校」


オープニング企画 西粟倉・森の学校ナウ
speaker:牧大介氏(株式会社西粟倉・森の学校 代表取締役)@daisuke_maki
date & place:2010.03.18
3331 Arts Chiyoda(旧練成中学校)1F 株式会社トビムシオフィスにて

最近なんの仕事をしてるの?って聞かれると、なかなか答えに窮する。一言でいうと、ホントに持続可能なかたちでの地域活性をしてるところのお手伝いをしている。っていうことだろうか。たぶんこれからちょくちょくご紹介していくけれど、生物多様性イヤーに、まさかこんなに本質的に生物多様性に関わる仕事に出会うとは思ってなかったな、という感じなのです。

そんな地域作りをされている牧さんが、東京に出てきてお話されるというので行ってきました。大変長いのですが、最後まで読んでいただけると、きっと新しい世界の作り方が、ちょっとだけ見えてくるかなと思います。前回前々回の地球大学に行ってなかったらわからなかった文脈がたくさんある。けれど、その文脈の先から牧さんの話を聞いていると、本当にここには未来があるなあと思えてくるのです。

このところ毎日のように牧さんからのヒアリングを元に、ロゴのデザインを考えたりパンフレットをつくったりウェブの構想を練ったりしているのですが、近いうちに具体的なものをヴィジュアルでお見せすることができると思います。



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岡山県西粟倉村。人口1,600人の村がいまどのような挑戦をしようとしているのかをお話できたらと思います。森っていうのは出来てくるのにけっこう時間がかかる。自分の子供、孫の世代に財産として引き継げたら。そのような価値観がベースにあったわけですけども。家を守ってそれを繋いでいくとか。地域の自然を何世代も渡って繋いでいくということが難しくなりました。今は持続可能性だとか言葉がありますが。昔の人たちも自分たちの世代で消費し尽くしてしまうことはいいことだとは思っていなかったわけですね。青木さんといって地元の人で森の学校のスタッフですが、おじいさんが本当に一生懸命木を植えてこられた方なんですね。いまいるおじいさんおばあさんたちは、将来世代のためを一生懸命に思って植えてきたけれど、財産として興味を失ってしまっている。どんなに苦労をしておじいさんたちが植えてきたのかということを、孫に話す暇が無いんですね。いまのおじいさんたちは子供の頃に囲炉裏端で話を聞かされながら育っていった。



トビムシという会社が「共有の森ファンド」というファンドを立ち上げた。財産とか知識、技術。そこに込めた思いということをみんな一緒にして繋いでいくということはもうできない世の中です。ここ三年の間に40人くらいの人たちが一気に移住してきました。けっこうなインパクトなんですけど。森が好きで来てくれる人が増えたのは大歓迎だとおっしゃってる方がいました。都会に出てしまったお子さんに引き継いで、いくばくか財産にできたらいいと思ってらっしゃるんですけども、必ずしも自分の子供でもなく、外から入ってきていただける方でもいいと思っている。

まだまだ身体は動くと。70代で。だけども気持ちは動かない。誰も期待しれくれていないから。今、都会にいる人たちの中で、ほんとうに森を再生して美しい森に戻していけるといったときに、それを応援してくれる、出資してくれる人たちが生まれているんじゃないか。そしてこの地域作りに参加して頂く。場所を越えた村作り、地域づくりというものができないかという思いで、共有の森ファンドを始めました。その意味とか背景をご理解いただくには、大きく二つの節目を知っていただく必要があるんじゃないかと思います。ひとつは1960年代になにがあったかということ。それから現在に繋がる動きとして2004年。



1964年に東京でオリンピックが行われました。そのちょっと前にエネルギーが変わりました。その前1950年代にトラクターが入ってきました。地域の里山の生態系を循環してきて、木を切り出すとかっていうモーターが発達していない中で活躍していたのが牛なんですが、人間にとって重要なパートナーだった牛がいなくなったのが60年代前半でした。牛を養うために採草地が必要でした。日本中の山は採草地が大変広い面積が採草地だったんですね。西粟倉の山のうち1,000ヘクタールは採草地だった。そういう世の中の移り変わりの中でいらなくなった場所を、次の世代にどう引き継ぐのかということが当時の人々の大きな課題でした。家族ぐるみで山を育てるということをしてきた数少ない村です。そこが重要なひとつの転換期でした。



その次が2004年。当時、岡山県に美作市という大きな市が、合併でできるというときに、その合併協議会の中で合併協議会から離脱するということを決めたのが2004年でした。これもいろんな理由があるんですが、若い子供がいる夫婦は、このままだとあまり友達がいない学校で子供が育つことになると。合併して遠くの学校になってしまったとしても、バスで通うくらいの方が、友達が少ないよりはいいと考える人もいました。人口が減って、交付金も減って、地域自体が存続するのが難しいのならば合併する方がいいのではないかと判断する人もいました。しかし、合併しないということは、自分たちでなんとかしていくということを意味するのです。当時は1,700人くらいはいた人口なんですが、なんとかここで人が暮らし続けていかなければいけない。そのためには攻めに出ないといけないっていう。この村をどうしていくのかということを延々続けていく中で、2008年にひとつの旗を揚げたのが「100年の森構想」あと50年手入れを続けたら、こんな立派な100年製の木に囲まれた村ができる。昔にくらべていなくなった魚も戻ってくる。そんな地域が作れるんじゃないかっていうことで。まだ投資がいる。我々が計算した中であと10年は投資が続く可能性がある。今回役場が中心になって、400世帯が山を持っていると思うんですが、役場が全体を管理したなかで間伐をしっかりやりきろう、というのが「100年の森構想」であります。

貨幣経済が浸透して、1963年に水害が起きて土建事業が入ってくるとによって、人々は一気に金銭的には豊かになったんですけども、森はなくなっていった。
2007年から、雇用対策協議会、我々は村の人事部と呼んでいますけども。特に採用に特化した人事部ですね。東京大阪で説明会をやり、挑戦者求むと言っているうちに徐々に人が入ってきました。当時70件あったオーナーに、これからそとから人が入ってくるというために家を貸してほしいと、役場の課長が一軒一軒交渉しました。田舎では家を借りるのは難しいというのですけども、それでもなんとか役場が責任を持つからといって、なんとかお借りすることができました。一件2万円くらいを基本的な家賃として。残っている人は40名。出て行ってしまった人も含めたらのべ46名くらいになると思います。8割方は残っている。100人、200人も入ってきている地域もあるのですが、だいたい半分も残らない。しっかり地域をつくっていく中でやっていくことで、人の歩留まりも悪くない。それなりの人たちが来てくれているということがあります。


10人中9人が外から入ってきた、森の学校のスタッフと。

その中で2009年に「共有の森ファンド」というものを始めました。地権者との交渉も目処がつきはじめているところで、手入れを始めるためにはそれなりにお金がかかってきます。単にお金を集めるというだけではなくて、それを原木として売るだけでは地域の雇用には繋がらない。原木は非常に値段が下がってしまっているのでそのまま売ってもお金にはならない。地域が自立していくということは、お客様にファンになっていただかなければならない。それは中国ですとかそういったところとの競争にさらされていく中で、日本の田舎はいなくてもいいですよと、つきつけられているのと同じです。短期的には誰がどう困るの?と。そこに村があって、そこに人が住み続けてこられていてよかったと思うコアなお客様をつくるというのをひとつ目指してはいかがかと。結果として250名近くの方が、ファンドのメンバーになっていただけたのですが。一口5万円で三年間寝かしてなんになるんだ?と、金融商品としてはなかなか説明がつかないものなのですが。名古屋に住んでいる方が有志でファンドメンバーを募るために説明会をしていこうという動きが始まりました。我々は会場費数万円だけを負担して説明会をすることができました。

そういったかたちで徐々に広がってきているのですけども、山菜だとか山芋が昔のように戻ってくる可能性があるわけですが、そのことをきちんと商品にしていくことを村が持たなければならない。この四月から本格的に稼働を始めていこうというのが「株式会社 森の学校」という会社になります。地域の中では営業組織だと位置付けていますが、眠っている商品を地域からみつけてくることもするので、地域商社であるともいえます。しかしやっぱり地域にいらっしゃる方が動かなければ地域は元気にならないだろう。なので我々は村民の伴走車であるとも言えます。地域プロデュース会社であるともいえます。


森の学校でミーティング中の牧さんと、営業担当の井上さん

ダイヤモンドや金の原材料を掘り出している地域はいつまでも豊かにならないように。木もそれを売り出す能力が無かった。そういったことを、大きな時代の流れの中で。ほっておけば過疎化高齢化が止まらなくて、どのように限界集落から撤退していくのか、そのような議論がされているなかで、どのようにして自立していくか。今の世の中の流れから離脱して、ひとつの経済圏をつくるといった挑戦をしています。今、やっと機械が入って、売り先も順調に伸びていけば、地域の中で製材所をつくることになります。そこで地域の雇用が生まれてくる。そこから生まれてくるはざいだけで、地域の暖房につかっている三倍のエネルギーを生み出すことができる。電気に関しても日本全体で例が無いことなんですけども、村営の水力発電所を持っています。西粟倉は独自に小さな水力発電所を持っています。今は中国電力に全部売っているのですが。それができるのは地形的に水の高低差があるので発電ができているのです。これで西粟倉中の家庭の電気をすべてまかなえるくらいあるのですが、地域のモビリティにつかえるんじゃないかと。電気自動車がこれから普及してくる中で、病院にたまっているようなおばあちゃんたちが、充電スポットに集まってきたり。モビリティに電気を使うことができるようになるとガソリンを買わなくてよくなる。世の中全体の石油価格が高騰するような状況があったとしても自立してますので、まったく影響を受けなくてよくなる。なんとかそのあたりまでいこうよ、と、一部の村民の中で言い出している状況であると。そのような将来の夢も描いてなんとかやっていこうと。

山の木はどうしても切って捨てなければいけないことがある。しかしそれが台風なんかで川に流れて橋にひっかかって洪水が起きてしまうということがおきています。なんとか山に人が関わり続けることが続かないと。おじいちゃんおばあちゃんたちがなんとか原料としてつかえないかと。関西に森の町内会というものがあるのですけれども、そこがクレジット方式ともうしまして、企業が使う紙に、一定の金額を上乗せすることで、チップ用の原木が一本3000円くらいなんですけども、それに森の町内会という仕組みに乗せると、8,300円が上乗せされるという。


現在完成間近の西粟倉の木によるモデルハウス

西粟倉の家を売っていくということも始まっておりまして。人口1,600人に対して、我々10人の営業部隊しかおりません。1,600人の方の親戚だけで、5,000人、6,000人はいたわけです。紹介してくれたら受注額の2%くらい渡してもいいかもしれない。お客様をつくるというマインドがなかった人たちが村のお客さんをつくるということを始めれば、村というブランドを高めていくことができる。村の中で価値を持ち始める。そういった仕掛けのための布石として、森の学校の株主になってくださいという呼びかけをしました。71世帯、13%が株主になっていただけました。最初はそのくらいで十分で、そこから広げていけばいいわけです。株主という立場があれば、勝手に森の学校という会社がやっているのではなくて、一緒にやっているので嬉しいわけです。都会のお客様も含めたみんなの村にしなければならない。実際にいろんな仕組みを作りながら、自分たちの村だと思って始めなければならない。村民の営業マン化。切り捨て間伐材を買い取って売る仕組み。着々とそのような仕組みが整ってきまして、着々と一歩づつ次のステップに上がっていく。未来を切り開いていくための流れをどうやってつくるのか、というのが株式会社トビムシでもありますし、西粟倉・森の学校でもあります。


Q.村の経済をフルに回して、何年くらいで人口を増やしていけるか?

あと100人くらいは増やせる。村民の所得が上がるということと、雇用が増えるという二つのファクターがありまして、一人増えれば家族が2人、3人。日本中の地域で過疎化が止まらないと言われている中で、今後十年くらいで2,000人くらいになるのでは、と思っています。若い世代が増えてくると小学校がなんとかまわせていけるかな、という状況です。小学校だけ隣の地域と合併するというようなことはできないといった中で、小さい地域のなかで、いかに循環できるか。スモールメリットという言い方が適切かどうかはわかりませんが、コンパクトであることのメリットを最大限引き出していくことも我々の仕事であります。

Q.このスキームの中で森林組合をかませなければ機能しないのか?

森林組合をはずすやり方はあります。民間の優秀な施行会社がやればいいといえばいいのですが。政治的なことがありますし、森林組合がそれなりの機能を果たしてきた中で、この村の場合は森林組合を強化した方がうまくまわるであろうと。そうでなければ収まりがつかないといったところと、両方なのですが。

Q.経済合理性から見たら、直接トビムシさんがやられたほうがいいのでは?

投資家さんに対しては説明しやすいのですが、ずうっとそういうことをやっていないとできないとか。あとはもう村民との関係ですね。我々がすべて森を管理しますといったときに、おそらく出だしにそうとう苦戦します。そういう意味では資金調達と、よそ者の立場として出来る資金調達に特化した事が良かったのでは、と思っています。これがもう地域で森林組合がやることで「俺はもう山を預けねえ」といった地域の場合はそこを預かっちゃうというのもあるかもしれません。

Q.今の日本の山の姿が、あと10年続いたら、生態系はどうなるんでしょうか?

全体的に(木を植えてから)40年から50年の山が多い。西粟倉の場合は、全国平均よりは前倒しの人間構成なんですが。これがあと10年ほおっておくと、下草が生えていない、雨が降ると土がさらわれていくという状況になります。隣の佐用町の場合は台風でたいへん山が痛みました。大変痛んでいる状態で風が吹くと木がバタバタバタとなぎ倒されていきます。これから10年放置しておくと、人命を脅かす可能性が高くなります。それから材木の価値が、いくらか背は伸びると思うのですけども切り出したときに価値のない木が増えてしまう。徹底的にリストラしなければならない。10年後非常に問題が増えてくる。そこにあとどれくらい雨とか台風とか地震とかが、じわじわとダメージを与えていくということが予想されます。はっきりと数字で言えるものではないのですけども、けっこう地域のコミュニティがしっかりしているところでないと、山の管理はできない。まとまって山の管理をするということがおぼつかないわけですけども、そこがしっかりしていないところは、災害の管理をすることもできない。宮崎県の諸塚村も、しっかり木をつくっている地域なのですが、2004年に大水が出たときに一人も死者がいなかったのですが、まったく同じような条件の隣の地域では残念ながら死者がたくさん出てしまいました。

Q.商店街の活性化をやっているコンサル業として、どれくらいこの西粟倉に通われて、地元の方との信頼だとか、入り込むポイントだとか、どのくらいコミュニケーションされたのか。

さかのぼると2004年でして、合併する、しないっていう、村の運命を決めるという決定がどうなされるのかというときに。アミタ株式会社として入ってきまして。総務省の地域再生マネージャー事業として、最初の三年間は結果がそれほど出ていない地域として西粟倉は位置付けれらていました。具体的な動きは三年目くらいから出て来たのですけども。報告書が要らないという総務省にしては画期的な事業だったんですが。「これぐらい売れた」という小さな成功をたくさん見せていくのがうまいひとたちがいる地域もあるんですが。西粟倉はコンセプトレベルの議論を3年間くらい丁寧すぎるくらいやりました。具体的に形が見えはじめたのは、2007年、8年、9年。私自身が本格的に入ってきたのは2007年くらい。月に一回くらい申し訳程度の訪問をしている時期もありましたし、同じような規模の地域を全国で10件くらいかかえていた頃もあったんですけど。自分のフィールドの中心として2008年くらいから集中するようになりました。2009年のトビムシの設立と共にその地域の担当者になりました。やっと村民を巻き込んで、前に進んでいくことができるようになったのは森の学校の立ち上げくらいからですかね。なんか暇があればおばあちゃんと立ち話をしたりとかはしてたのですが、地域のことをひとつひとつ村の人たちとやっていけるようになったのは去年くらいからですね。特に村の営業である25歳の井上くんは、製材所から森林組合から、かなり入り込んでくれているので。自分一人ではなく会社として入っていくという方法にシフトしたというのがあります。役場含めたキーパーソンとの議論の積み重ねはできていたので、役場の声かけは比較的スムーズになりました。とはいえ「トビムシは村を食い物にしている」とかいう怪文書が流れたりもしましたけども、もう慣れていますからそういうのがわからない若いスタッフはおびえてしまったりもするんですけども。ちゃんと信念を持ってやっていれば怯えることはない。

Q.そのコンセプトメイクの三年間の間、村民全体でスローガンだけではない自立を具現化しようというときに、どんなことに一番気を配ったのか。

アミタホールディングスの会長の熊野が一月に一回は西粟倉に来ていたというのもありますが、コンセプトがあって合併しなかったのではなくて、合併しないと決めてからコンセプトを考えた。心産業(しんさんぎょう)というコンセプトを考えて、結局そういう所に行き着くというか。心というところにどこまでこだわって、経済のあり方とか、地域のあり方を、延々議論しまして、特に熊野はポスト工業ということ、社会の構造や時間の流れを丁寧に議論をするというか。通常そこまで田舎では議論をしないんですが、そこまでをやっておいてくれたというか。地域再生マネージャー事業は全国何十カ所やっているんですが、そんなにかたちにならないことに一年以上の時間をつかっていたのは西粟倉だけですね。僕も最初に入ったときは「なんか急いで形にしないとやばいぞ」って思いましたからね。コンセプトに関してはある程度わかり合えるまで粘らなければいけない。チラシとか営業資料をつくることにしても、そこにあるコンセプトはどこにあるのか。みんなが納得するまで議論をする。立ち上がり大変なんですけど、長い目でみるとすごく進めやすくなる。根っこのところでそんなに共有できていなくてもビジネスとして進めることができることはあるんですけども、やっぱりそこそこのところで収束しちゃうんですね。そういう自分自身の失敗の経験もあるし、西粟倉が動き出しているのを見ていて、丁寧にやらなければいけないなあと。

あと、田舎でやるときは、おじいさんおばあさんの話をとにかく聞く。自分の意見とか言わない。相手に対しての敬意を持ちながら、自分の意見をぶつけるってのが大事なんじゃないですかね。何世代も前からこの地域に住んで、その子孫がいるところに、地域のためにがんばろうって言っても。自分はそこに入れさしてもらっているわけなんで。とにかく丁寧に話を聞いて、無駄にだらだらはなしを聞くくらいでもよくて。ぜんぜんすぐに売り上げに繋がらないんですけれど。バタバタしているときに、おばあちゃんに話しかけれて、いまちょっとすぐにつくらないといけない書類があるんだけれど。とかって、いいたくなるのを我慢するか、ってことですね。

Q.地場産品の企画販売について

既にあるもの。りんごもゆずも村でつくっていて、いくらでもあって。家で植えられている。空き家でも柚子がなっていて、誰も採らないでおられるのですが。地元の給食をつくっていたおばちゃんたちが、ポラリスの会っていってやっているのだけども、あまり売り先が無かったりとか。ボケ防止でやっておられていたりして。瓶の原価が高すぎるので、もっと安くできるとかいう話をしています。


家具デザイナーの大島さん

あと地域に眠っている。地域にあって使われていないものが、いろいろあるんですけども。例えば西粟倉は大工さんがたくさんいます。手刻みで非常にいい仕事ができるんですけども、家一棟建てていくという中で、時間が余ったりしていて。けっこう空いてしまう時間がある。特に子供がおられると、しっかり稼ごうという気持ちもあるけどもうまく稼げないでいる。あと、大島くんていう家具デザイナーが岐阜の有名な工房を辞めて移り住んでこられたんですけども。非常に緻密な家具を、一個一個丁寧に売っていくっていうだけでは食っていけないんですね。図面まで落とすことができる。職人てのはけっこう凄くてCADまでしっかり落とし込める。大工さんの空き時間と、大島くんの空き時間でけっこう精密で安い家具がつくれるんじゃないかと思っているんですね。関係者も唸るくらいのいいものができたそうなんですけども。かなり大きめの無垢のテーブルを7万くらいでつくれました。そういうのもひとつの商品開発ですね。いろんな切り口があるので、それをしっかり見ていかなければいけない。あとマンションのガーデニングみたいなキットを供給することをはじめている。大阪で空庭さんていって、個人の方で商売っ気がなくて。非常にいいものをつくられておられるんですけれど、ベランダの隅の方につくれる家具をセミオーダーでつくられている。

田舎の強みはできるだけ規格化しないほうがいいですね。ベランダみたいにちょっとづつ寸法が違ったりとか。ある程度は規格化できるけれど、しないほうがいいところか。原材料とか半製品をストックしておくときに、スペースコストは圧倒的に低いので、持てる在庫はしっかし持った方が良い。商品開発のポリシーとして考えている。自分がここ十年の中でいろんな製品を田舎で開発しても、すぐに都会に飲み込まれている。都会や大企業ではできないってことを、どう展開していくか。



Q.最初どういうところから人を集めてきたんですか?

厚生労働省の補助予算が出てたんで、新聞で折り込みチラシをいれたりしてたんですけども。リクルートとか、転職先を探している人が発見しやすくできているので。あと、説明会。いついつ東京で、大阪で、西粟倉就職説明会。三年間やりながらやってきたんで。あとは一本釣りですよね。いろんなつてを辿ってこいういう人いないかなって。あたりの確立は高い。森の学校でも半年前に入ってきた人が、こいつはいけるっていって、ひっぱってきたりしている。出始めて来ている感じはしますね。

Q.都会で住んでた人が、村に入ってきて、イメージと違うとか出てくると思うんですね

思ってたより寒いとかですね。あと、食生活。田舎にいくと豊かになるとか思っていたら、意外と自炊する能力がないと、隣町のコンビニに依存するようになる。僕もけっこうダメな方なんですけど、めんどくさくなるとそうなってる。

Q.田舎の人間関係について

都会っていうのは比較的合理的になりやすいんですよ。その人達が培われてきた価値観を調べることを怠ってしまうと、都会でも人間関係があまりうまくいかなかった人がそれを嫌になって田舎に来たときはもっと大変なことになる。相手の話をとにかくよく聞いていかないと人間関係うまくいかないと、最初にとにかく言っておく。問題解決能力や調整能力が高い人ばかりが来るわけではないので。なにかがあると雇用対策協議会に、村の人事部に駆け込む。これが大きいですね。人の集団は人の集団なんで、持ち込まれる相談内容は都会でも田舎でもそんなに本質的な違いはないですよ。


日常はほんと小競り合いがたくさんある。それはどこの地域も会社も一緒なんですけども。少し引いてみて、未来に繋がっていくことが一つ一つ繋がっていることが見えてくると楽しいですね。10年後にどこまで結果が出ているかわからないですけども。40年、50年たったときに村の風景がどうなっているのかを想像できるとほんとに楽しいなあと。そういうことを頭の中に描きながらやっていくと楽しいですね。

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そうだ、あの森へ行こう! 岡山県「西粟倉・森の学校」の地域デザイン | greenz.jp
http://greenz.jp/2009/11/03/nishiawakura_forest_school/
| ログ | 00:14 | comments(2) | - |
はじめまして、初めてメールさせて頂いています。
5年程前よりリタイヤしたら田舎暮らしをと考えて居ましたが、中国に赴任して2年より一層田舎暮らしを強く感じています。田舎暮らしを始めるに当たり就業を考える事は避けられないのですがそんな折、Net検索で西粟倉・森の学校での就業情報を拝見し貴社の活動やコンプセプトを拝見させて貰いました。是非、就業情報詳細を教示頂きたく当メールをご担当の
高田様に転送頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。

現在は中国深センに勤務しております。
日本の電子部品メーカーに30年勤務し51歳です。購買・生産管理を主体に工場全般の管理を行い2年前に赴任し中国現地法人の設立を行いました。
8月お盆前には帰国しますので、お盆明けに西粟倉を訪問したいと考えて居ります
| 門倉 忍 | 2010/07/21 5:44 PM |
すみませんが、直接森の学校の方に連絡してみてください。こちらからコンタクトできます。http://www.nishihour.jp/gakko/callcenter.html
| tamachang | 2010/07/22 1:07 AM |