tamalog

Output and input from 1998 to 2010
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まとめ
意外と地道な目標をたてるヤツだなと言われます。
2005年の目標は目指せ年収1000万。これは70%くらいの達成度で完了。
2006年の目標は目指せ体重-10kg。こちらはほぼ100%達成致しました。

さて来年は。と、その前に今年ってなにを感じていたのだろう。

1月
カタリバの新年会でイスラエル・パレスチナ問題について喋り始めた娘には衝撃だった。やっていることが、というよりも興味分野や関心領域がほぼ一致していることが。後にも先にも、ここまでシンクロしてるやつはそうそういない。

ホリエモン逮捕の日に発売されたアエラの記事が思えばweb2.0系の話、google神話の始まりだった気がする。ピクサーがディズニーに買収されたことによって知的財産権系の話に動きが出そうなこともあって、情報通信分野がにわかに騒がしくなった。でもこれらの動きは結局流行言葉になっただけで、企画が通りやすくなったり、ちょっと仕事がし易くなっただけだった。

2月
NHKが意地を見せやがった。移民問題における問題の本質を映像で、しかも地球のグローバル感をきちんと表現できていて。一カ所の問題だけではなにも見えないことを証明してるとこが素敵なのです。「NHKスペシャル 同時3点ドキュメント 移民漂流10日間の記録」

3月
大きなテーマをみつけた。一生つきあっていく価値がある世界だと思った。「暦」と「時」。どっちも18世紀以降大きく変質して、日本では明治維新を契機に変わったもの。とてもとてもあたりまえのものとして受け入れ過ぎているけど「エンデの遺言」にあるような、経済をあたりまえと受け取り過ぎていることに等しいくらい大きなテーマだと思う。

4月
一年で三番目に苦手な日。4月1日。今日から新入生、新社会人みたいにいきなりその日から変わっててきどってんじゃねぇ、って思う。丁度その頃、ノリで京都に行ったのが後のいろいろの始まりだった。

次郎さんかっこよすぎる。ずるい。「マッカーサーを叱った男 〜白洲次郎・戦後復興への挑戦〜」

5月
ジャーナリストがベトナム戦争を止める要素として大きな役割を果たしたという。ベトナム戦争についてはよく知らなかったから面白く見させていただきました。が。結局その後の湾岸戦争では機能不全に陥り、また片一方からの視点でしかものを見れなくなってしまうということも困った問題だ。「これは正義の戦いか 〜ジャーナリストたちのベトナム戦争〜」

6月
100万人のキャンドルナイト2006夏至。そろそろなあなあになってきた。しかし賛同金の金額とイベント数は前年比1.5倍成長は凄い。

7月
ap bank fes'06。今年で二年目。この頃は割とまともに仕事をしてたから、ネタが無い。

レバノンで戦争が始まる。そういえば昔この人の話を聞いたことを思い出した。

8月
真夏頃から結婚式がたてつづく。

上野の森で見た「若冲と江戸絵画展」それまで日本画なんてまったく興味が無かった。モダン、エコロジー等々、最先端を追いかけることだけをしてきた。故の反動か、日本にそれは既にあったということに気がつくきっかけになった。それが制作物にどう反映されるかわからないけども、日本文化の世界を徹底的に消化しなければならんと思った。

9月
大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006に行った。トリエンナーレなので三年に一度やるわけで、あっという間の三年間。たくさんの思い出のフラッシュバック。

間違いなく今年見た映画の中で文句なしにナンバーワン「アレクサンドル・ソクーロフ 太陽」こりゃあ三丁目の夕陽見てる場合じゃないですよ。

春からちょっとづつおかしかったけども、遂に9月後半からあまり仕事に手がつかなくなってくる。以来本腰を入れて仕事をしてないわけだけども「お忙しいでしょう」なんて挨拶されても、は?忙しいのが当たり前なわけ?ってついつい内心思っちゃうんだけどね。そして本格的にスイッチ・オフ。京都通いが始まる。「お仕事で京都に来てるんですかぁ?」って聞かれるたびに、うんそうだよって適当なこと言っとくけど「仕事がなけりゃあ行っちゃいけないのか!って」常々思うのだ。

10月
このあたりになるともう一つ一つ説明ができないくらいたくさんの発見があった。若冲と江戸絵画展のコレクションの持ち主ジョー・プライスについて。尾形光琳派「琳派」について。ブルーノ・タウト桂離宮について重森三玲の日本庭園、小掘遠州について。花鳥風月、カミの概念、松岡正剛の凄さがはじめて解った。

11月
はい。もうたっぷり紅葉を堪能しました。そして自覚した。紅葉と夕陽の色、これ多分一番好きな色なんだろうなって。

12月
京都滞在は続く。日本文化を深掘りにしていくと必然的に日本語に辿りつく。その先には言霊(コトダマ)の世界が待っている。そこから辿り着いてしまったものの一つとして、姓名判断がある。暦を突き詰めていくと天体、そして占星術に辿り着く。これらはずーっと避けてきた。西洋科学では理解できないことには触れてこなかった。けども、こいつらにも一理あるのです。
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ONSEN 天山湯治郷に始まる温泉の建築空間デザイン 海老沢宏

男内湯(Phase VI 1998年)

思えば僕のクリエイティブの源泉は箱根湯本にある湯治場「天山湯治郷」だろう。小学校三年のある日、突然、温泉マニアの父親に連れて行かれたのが始まりで以後現在に至るまで何十回とたびたびここを訪れる。24日もクリスマス・イブの東京を逃げだすように、ここにきた。

ONSEN 温泉の建築空間デザイン
天山湯治郷

今日の記事は行ったことがある人にしかわからないこと前提で書きます。天山湯治郷については前にも一度書いているので、知らない人はまずそちらを読んでください。でも重要なポイントは、ここは旅館に宿泊しなければ入れないようなところではなくて、日帰りで入れる入浴料1,200円の施設である、っていうことです。


Phase I 1966
天山湯治郷は、初めて来た人には既にこの状態で、あらゆる施設が完備された状態で昔からここにあると思っている人が多いと思う。しかし、1966年のオープン時点では実に旧箱根街道沿いを流れる渓流・須雲川に湧く天然温泉に、仮設の小さな囲いと休憩所を設けただけの文字通りの本物の「湯治場」だった。
建物はあくまでも仮設。湯休み処も木造で、丸太の柱に挽き材の梁を掛けて、簡単な屋根を葺いただけのものだった。この桟敷に薄べりを敷き、即席のレストランとして利用されていた。炉で焼く川魚の串が、もうもうと煙を上げ、そのまま自然換気されて、仮設の休憩所のすきまから流れていく。ある種無礼講的な共同体がそこにはあった。



冠木門と玄関のシークエンス(Phase II 1986年)

Phase II 1986
それが1980年代の中頃には、一日平均600人という来場者数を数えるようになり、仮設の建物では機能しなくなってきたために、現在あるような現代風の温泉施設へと徐々に変貌したということらしい。
オープンエアーの浮世風呂。あくまで外気浴を旨とする。20年の歳月の中で熟成した「天山」の湯文化の核心。かつて江戸時代に人気を博した浮世風呂・・・裸になれば、武士も町民もない・・・平等で心底くつろぎに満ちた空間。そのスピリットを受け継ぎながらさらに深めた、今を生きる湯客のための現代版を模索した。



食事処 山法師(Phase III 1991年)

Phase III 1991
バーベキュー状態のままだった仮設建物を、二階建て構造のレストランとして新設した。もちろんスーパー銭湯によく付いているようなファミレスもどきとは違った、本物の食空間がこのとき出来た。僕が初めて連れてこられたのは丁度この頃だった。なので以後現在に至るまでの変化は全て見てきたけれど、まさかこのようなフェーズで進められている長期プロジェクトだとは思いもよらなかったし。ただ常にどこかしら工事中で、しばらく間をあけて行くと見たことのない施設が忽然と現れているのがいつもいつも不思議でならなかった。



別館「一休」女内湯(Phase IV 1993年)

Phase IV 1993
湯屋「一休」。入浴料 1,000円。天山に別館が出来たときに、なんでわざわざ別料金で別の場所に作るのかしら、それもなんでこんなに簡素な造りなんだろうと思っていたけど、そこには大型リゾートに対するアンチテーゼがあった。ここは脱衣所もほぼ屋外という究極のオープンエアー(野天:天山では露天のことをnotenという)空間になっている。
1987年、リゾート法が施行された。この法律は1985年以来の円高不況脱出のための内需拡大策としての国家的要請が根にあり、リゾート法の指定を受けた自治体には、大きなメリットがあり、すぐに全国から手が挙がった。しかし、当時の日本人は、リゾート生活なるものを本当に理解していたのかどうか・・・・・・。バカンスと言えば夏の盆休みと冬の正月休み、それにゴールデンウィークの年3回程度といった生活では当然のことだろう。参入した民間企業も短期の投資回収を目論んでおり、ゴルフ場会員権やリゾートマンションの販売を優先させ、不動産価値を上げるための手段としてリゾート施設を作っていたのである。内容はリゾートマンションやホテル、ゴルフ場やスキー場、それに温泉リラクゼーションが三種の神器というお寒い計画であった。人々の旅行熱をあおる効果は大いにあり、「天山」も、その人気はうなぎのぼり。180台収容の駐車場の満車が日常的に起こるようになる。入浴だけを楽しみたい人にはひどく迷惑な話である。「一寸、ひとっ風呂」そこでただ湯空間をゆっくり過ごしたいという人のために計画された。

中略

湯休みや食事処はなく、その分大きな湯空間が実現できた。オープンエアーのコンセプトはここでも徹底される。内湯には建具が一切ない。野趣たっぷりの山肌が内湯の一部として内在化される。脱衣と湯船は仕切りが無く、一室空間に同居する。

中略

桧の浴槽は非常にデリケートであり、その美しい木肌を維持するためには、一週間に一日湯を抜いた状態で乾燥させる必要がある。そのため、この施設は一週間に一日定休日をとることになった。



左 : オープンエアーの湯空間(Phase VI 1998年) 右 : 湯休み全景(Phase VIII 2002年)

Phase V 1995 Phase VI 1998
オープンエアー化。確かこのあたりまで内湯と外湯を分け隔てるガラスがあった。これがこの時期を境に取っ払われたことと、浴槽が工芸品の如く漆塗りになっていたのだ。
浴槽は古代桧。白木のメンテナンスをフリーとなるよう、漆の浴槽とした。しかし紫外線の影響で色抜けを起こすまでに一年ともかからないなどとは当時想定せず、その後、紫外線に対応した長期耐用の漆浴槽を天山自ら研究開発することとなる。


天山プロジェクトは、最初の20年の湯治場としての熟成期間と、その後の20年の発展の期間を持っておよそ半世紀もかけて出来た「一大文化施設」だった。宗教法人でも運営してるんだろうかと思ったくらいで、およそ商業施設とは思えない環境意識の高さと、食に対するこだわりと、文化意識の高さはこういった理由から生まれてきたということがわかった。「湯治」というものに潜むスピリチュアルな概念は、日本文化の基本である自然に対する考え方に非常にマッチしている。そして最後にもう一つ欠かせないエピソードが以下である。


左 : 東京から移築された昭和二年に建てられた江戸様式の町屋。女内湯脱衣サロン
施設の計画に入る時、もう一つの出会いがあった。それは江戸の町屋様式を伝える商家との出会いである。当時、80年代の中頃は都心の土地の値上がりが顕著になり、再開発や土地の有効利用が声高に叫ばれ、建物の建て替え計画が激しいスピードで進められていた。そんななか、新聞紙上に『江戸の町屋様式を伝える大店造りで一部土蔵の2階建ての家を差し上げます』という記事を見つけたのである。さらに、その家の由来を見て驚いた。持ち主は神田須田町の食料品店であったが、その先祖は北条氏5代目氏直の側近で小田原城落城の折、生まれたばかりの姫君を連れて江戸に落ちのびたというのである。徳川幕府の世になり、姫の身分発覚を恐れて商人になったという。その時から数えて17代目が当時の持ち主。この当主は今でも姫君の墓所と北条氏直の位牌を守っているとか。天山の現在地は北条家の始祖・早雲が眠る早雲寺の近く。これも何かの縁と思い、オーナーに相談し早速申し込んだ。40件の申込の中、最後に東京都江戸博物館と天山が残り、『先祖ゆかりの地に』という持ち主の希望で箱根に移築することになった。現在の女風呂の脱衣・休憩所がそれである。その建物は施設のシンボルともなり以後私の天山プロジェクトの造形言語に強い影響を与えている。
| 日本の残像 | 06:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和史


おとといは比較文化論。文明、文化というものの本質について。昨夜は昭和を知らない世代にとっての昭和と天皇について。今夜は彼女が言うところの、昭和の偉大な政治学者について。毎日よくもまあ次から次へと興味が波及していく。昭和を知らない昭和生まれが悔しくて仕方ないらしい。

ハタチの頃の知識に対するあくなき欲求のパワーは凄いなと思う。知識をもっていて当然という風に僕は当時、脅迫観念的に捉えていてから気持ちはとてもわかるつもり。僕にとっての「昭和」は丁度そのハタチの年に「プロジェクトX」の放送が始まったこともあって、ものづくりの世界をきっかけに入っていったのですよ。仮にもプロダクトデザインの会社に居たからかしら、まずはソニー。今日のタイトル写真になっている初代ウォークマンを作った会社として非常に有名ですが、こんなかっこいいものつくった連中はいったいどういうやつらだったのだろうっていう素朴な疑問から昭和史に興味を持ったのが、多分一番最初の直接的なきっかけだったんだと思う。そいつらは1946年日本橋の東急百貨店の片隅で創業した電気製品の修理屋であったという話だった。それから、島秀雄の新幹線誕生の話あたりが最もハタチの僕には入りやすかった話だった気がする。

最近では、帝国ホテルからバイキングが始まったという話や、白洲次郎の通商産業省の設立という話もあったし、生で聞いたとこでは堺屋太一が大阪万博をプロデュースした時の生々しい話から、天野祐吉による「ほしがりません勝つまでは」というコピーについての話まで、だいぶいろいろキャッチアップしてきたつもりだけど、まだまだ知らない昭和は多い。ああそうだ。それにアレクサンドル・ソクーロフによる昭和天皇ヒロヒトの話は最近見聞きした昭和の中で最も心を揺さぶられた。

しかし、昭和を知るためにいきなり政治学から入っていく人もいるんだな。。。と、改めて思ってしまうわけで、とても勉強になるわ。政治学における昭和なんて27歳の僕にとっては紆余曲折さまざまな昭和を見てきた中で、今ようやく到達しつつある昭和なわけです。いやいや、ずいぶん遠くまできたもんだ。


写真はSONY 初代WALKMAN TPS-L2。僕の生まれと同じ1979年製で、発売当時33,333円。創業者盛田昭夫が、飛行機の移動時間の中で音楽を聴きたいと思ったのがきっかけで作られた。当時、テープレコーダーに当たり前のように装備されていた録音機能をあえて省くという発想は、画期的なものだったり、この形にするためにあのミニピンプラグ(イヤホンのやつね)はわざわざ作られたのである。今でこそAppleに持って行かれてしまったポータブルオーディオだけども、僕の半径5mに転がっていた興味のトリガーなわけだ。
| 昭和 | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
百万遍 知恩寺の手作り市とその周辺スポット

1個2000円。ありえなく安い。


白土をこねて作り出す質感は、光が差し込んだような錯覚を起こす。

百万遍。京都大学のある周辺の地域を指す。かつて1968〜70年に起こった学生運動においては関西最大の全共闘の牙城だった。今も大学の端々に独特の空気が残っていて、東大路通りと今出川通りの交差点側にあたる京大の門の前には「反マルクス主義」などといった意味不明な立て看板が散見されるような嫌でも歴史を感じてしまう地域なのです。かなりの濃度で時間が停止しているわけで、でもこの空気は案外悪くはなくてむしろ好きかも。このあたりには一人で一日過ごしてしまうようなカフェがたくさんあるから。

その交差点の北東側にある知恩寺では、毎月15日に手作り市をやっているという話をあっちこっちから聞くもんで、行ってみたら信楽焼の花器が2000円とかで売ってるもんだから、持てるだけ買ってしまった。知恩寺では他にもいろいろと市をやっていて、先月のいつだったかは古本市をやってたのでした。それはそれで雪舟展の図録を発見してしまったりとか、明治時代の本が普通に古書として売っていたりとか、やばい世界です。




FoodCafe Gu-

タイトルは伏せておくが、とある文学作品を読破するために今日5時間ほど粘ったカフェ。ソファ椅子がとても座り心地がよくて何時間でもいれるし、カフェのくせに定食系メニューが充実しているのでおなかいっぱいにもなれる。



進々堂
 
ここは完全に朝食スポット。パン系メニュー+コーヒーで充実モーニングが味わえます。ここに居るといつも不思議に思うのが、お客さんの独特なファッション。いかにも京大生風のベレー帽の人から、ここは大正時代か!と思うくらい渋いスーツのチョビ髭おじさんと、しっとり着物を着こなしている黒髪の女性まで。ここに観光客が入ってくると滅茶苦茶浮くので、一発でわかります。



緑寿庵清水
 
日本で唯一の金平糖専門店。4月に教えてもらってからずーっとずーっと入れない。いけどもいけども休みというタイミングだったけども今日とうとう入ることができた。季節限定で赤ワインの金平糖とか、ブランデーの金平糖とか、チョコレートの金平糖とかとても手の込んだものがあります。要予約ですが。

| スポット情報 | 00:55 | comments(1) | trackbacks(0) |
ローマ人の物語XV - ローマ世界の終演 塩野七生


塩野七生女氏が1992年から一年に一冊ずつ書き上げてきたローマ人の物語が、とうとう完結した。本日発売。でもちょっと今は読めない。今古代ローマ帝国に行ってしまったら、完全に頭がパンクしてしまう。

けども、事が事だけにちょっと書かねばならんなと思った次第なわけです。これに手をつけてしまったのは確か2001年、9.11の後だった気がする。どうして古代ローマは約千年もの長期間に渡って広大な版図を維持し、初代皇帝アウグストゥスの治世以降300年もの間、一度も対外戦争が無いという状況を作り出せたのか。古代ローマ帝国は事実上西暦476年の西ローマ帝国の滅亡をもって終焉したことになっている。そこにとって変わったものは、キリスト教による支配だったわけだけども、古代ローマは日本と同じ「多神教」文明だったわけである。

あの9.11はなんだったのか、それを調べていくうちにぶち当たったのが、キリスト教も、イスラム教も、そしてユダヤ教も、共通して「一神教」であったことであったり、そして元々これらの宗教は預言者アブラハムから始まった一つの宗教だったのである。ユダヤ教を再解釈したものがキリスト教で、それをまた再解釈したものがイスラム教なのだが、これら一神教の最大の問題は「他の宗教・考え方を認めない」ということにある。これが、アメリカの対イラク戦争や、イスラエル・パレスチナ問題の根源の要素として存在することは否めない。

我々は古代ローマの治世から学ぶことは大きいんじゃないだろうか。古代ローマが多種多様な民族を従えても統治しつづけられたのは一つには「寛容」の精神だという。多神教に基づいていることが、その理由だとされる。そこで最近気になって仕方ないのは、そのような状況下ではたして何故、キリスト教というものが必要になったかである。現在弊害をもたらし続けているようにも思われる一神教という概念が必要になった社会背景とはどんなものなのか。どういう理由によってそれが必要とされたのかが、とてもとても気になるポイントだ。なんとなく最近漠然とその理由の一つとして、長い平和の果てに自由を謳歌しつづけた人間のエゴを昇華しつづけることが不可能になったことがあるのではないかと、個人的には勝手に想像している。その処理手段として人間性を放棄することを教えたキリスト教という社会装置が必要に迫られてきたのではないかと考えてすらいるが、それはとても消極的な考え方なので実はどうかと思っている。

アブラハムの宗教 - Wikipedia
知力では、ギリシア人に劣り、
体力では、ケルトやゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エルトリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、少なくない史料が示すように、ローマ人自らが認めていた。
それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか。一大文明圏を築きあげ、それを長期にわたって維持することができたのか。
またそれは、ただ単に広大な地域の領有を意味し、大帝国を築くことができたのも、そしてそれを長期にわたって維持することができたのも、よく言われるように、軍事力によってのみであったのか。
そして、彼らさえも例外にはなりえなかった衰亡も、これまたよく言われるように、覇者の陥りがちな驕りによったのであろうか。
これらの疑問への解答を、私は急ぎたくない。人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史に対して、手軽に答えを出したのでは失礼になる。また、私自身からして、まだはっきりとはわかっていないのである。史実が述べられるにつれて、私も考えるが、あなたも考えてほしい。
「なぜ、ローマ人だけが」と。

それでは今から、私は書き始め、あなたは読み始める。お互いに、古代のローマ人はどういう人たちであったのか、という想いを共有しながら。

一九九二年、ローマにて 塩野七生
「ローマ人の物語I ローマは一日にして成らず」より

初めてローマ世界に接する人は、一巻からではなく「ローマ人の物語8 - ユリウス・カエサル ルビコン以前」から読むことをおすすめする。ヨーロッパ史最大の英雄カエサルの痛快劇として最もわかりやすいので。
| | 17:13 | comments(2) | trackbacks(0) |
余白の意味を探る「松林図屏風」長谷川等伯




京都に来てからずっと雨雨雨。そして明日も雨。水墨画のような東山も最初はいいと思ったけど、そろそろどうかと思うぞ。。。

さて、一昨日大学にて、嵐山の山並みに暮れる夕陽を眺めていたら横で、やっぱり夕陽を眺めていた竹村さんに出くわして、日本画について、庭について、久々にゆっくり会話をしたような気がする。長谷川等伯の「松林図屏風」。日本画においてこれに勝るものは無いと断言されて、更に彼自身がそれについて話している雑誌まで持ってきてくれてしまった。

気楽な気持ちで打ち込んでみたけど、ちょっと後悔した。。。やたらめったら難しい字ばっかりなんだけども、この二人の話、きちんと噛み合ってるんだろうか極めて謎だ。竹村さんは例の如く、ガンガン人類学の話に持っていく。余白の話から、97%のDNAはゴミ遺伝子なんだけどもそれがニンゲンの大切な「余白」なのだと。

ログ史上多分最高記録の6080文字。興味ある方はどうぞ。
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| 日本の残像 | 01:32 | comments(1) | trackbacks(0) |
美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない 坂口安吾
坂口安吾 - Wikipedia

京都造形芸術大学 NA403教室 火曜日一限「哲学と思想C」09:00 - 10:20
普通、大学の授業で哲学だの思想だのっていうと、プラトンやソクラテスから始まり、カントとヘーゲルだのって西洋哲学の話になるんだけど、この大学はとかくなんでも日本文化から入るのです。

そして久々のぞきに行ったら、昨日は朝っぱらから、がつーんとぶんなぐられた気がした。ニッポンを読んで以来、ブルーノ・タウト一辺倒だったから、それに対するアンチが存在するっていうことが、それも当時の差し迫った状況化でやむにやまれぬ部分もあったのかもしれない。坂口安吾は太平洋戦争への流れの中で、伝統文化を極端に持ち上げる思想に抗わざるをえなかった。

2006.10.17 ニッポン ブルーノ・タウト

坂口安吾は中途半端な西洋化批判を批判する
「タウトによれば日本における最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生まれ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオンサインを僕は愛す」
つまり、タウトの言うことは、とても余計なお世話だというのだね。
「タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ」

「我々は古代文化を見失ってるかもしれないが、日本を見失うはずはない。日本精神とはなんぞや。そういうことを我々自身が論じる必要はない」
この議論において僕の立場はやっぱり外国人なのだと、ますますはっきり思った。
もはや日本精神などかけらもない東京生まれの外国人なんだ。
「俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術もまたそうである。まっとうでなけれなならぬ。寺があって、後に坊主があるのではく、坊主があって、寺があるのだ」
この時代に何故伝統批判の立場をとる必要があったのか。
それは、時代がナショナリズムに一直線だったからですよ。
タウトはその急先鋒として、本人の意志には関わらず、最高の材料にされてしまったのだから。
タウト=桂離宮=簡素なことは美しい=欲しがりません勝つまでは
という流れで、タウトは当時、ナショナリズムとして思想を利用されてしまった
「美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない」

「問題は、汝の書こうとしたことが、信に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引き替えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。」

「見たところのスマートだけでは、真に美になる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、会ってもなくても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して滅びはしないのである」
安吾の美学は一理あると思う。しかし
「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる」
って言ってしまう。

じゃあ必要ならば鉄を没収して兵器をつくってもいい、ってことになってしまうのだ
結局安吾の思想もものすごく偏っているがために、ナショナリズムに流用されてしまうということが、この話の最大のポイントです。
| 日本の残像 | 12:51 | comments(3) | trackbacks(0) |
情報デザインという仕事
目下休業中なのですが、最近竹村ゼミに出入りしていることで改めて自分が「情報デザイン」をしてきたということを感じるときがあるし、マエキタさんのプレゼンテーションの中でも「情報デザイナー」として紹介されていることもあって、自覚を促されつつあります。そう。そして僕はウェブデザイナーでは決して無いことを改めて断言したい。そっちの分野に関しては、未だCSSも使えず、結局ActionScriptも放り投げてしまったけども。インターネットはツールとしては有用だなぁと思い続けてはいるのです。情報デザインは、インターネットに限らず、紙媒体、空間、物作りまで、幅広い分野を横断した概念なはずだ。

情報デザイン - Wikipedia

恐らく僕の最初の情報デザインキャリアは、1999年の空想家電(現:空想生活 http://www.cuusoo.com/)に始まる。そんな言葉があることすら知らなかった時代に無意識にやっていたことが、後に渡邊保史さんの「情報デザイン入門」に書いてあった時は大変嬉しく思ったことである。

その次に大きなステップを踏んだのは、竹村氏に師事して一年ほどたった2003年の100万人のキャンドルナイト(http://www.candle-night.org/)の立ち上げのとき。環境問題を表しつつも、直接的な表現をせず、竹村氏の示唆の元、多くの人たちがこのムーブメントに参加する仕組みを作った。そして今も関わり続けている。この頃、明確に情報デザインというジャンルを自覚した。SFCとの関わりも大きいと思う。

あれからもうすぐ四年が経つ。過去の経験からキャリアステップの時期は四年に一度やってくる、と勝手に思いこんでいる。1999年から四年前の1995年は、初めてインターネットに触れた年でもあり、そして高校を中退した年だった。これが僕のCONNECTING DOTSだ。

2007年に向けて、情報デザイナーと名乗るべきなのだと自覚しつつある。わかりやすいからって中途半端にウェブデザイナーなどと説明することに良いことなど一つもない。たまたまインターネットが表現媒体として多いだけなのだ。そして、そのような仕事のジャンルがあるということを世に示すべきである。
| - | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
神の発生と消滅
神。ずーっと避け続けてきて、いよいよ避けて通れなくなったもの。コズに「一度かみ砕いたほうがいいよ」と言われたので今日はコピペせずに自分で書いてみることにします。

いや、そういえば古代ローマ史に興味をもった理由は一神教と多神教の違いとそれが現代の民族紛争に及ぼす影響について(古代ギリシャ・ローマは多神教文明だったのに、それが四世紀以降キリスト教によって一神教がヨーロッパの主たる宗教になってしまったことが、例えばイラク戦争、例えばイスラエル・パレスチナ問題を読み解く基礎の基礎となる)が理由だった。といってもその程度のミーハーな社会統治概念としてのカミサマについてだったけども。

さて、そんなカミサマはどのようにこの世界に現れたのでしょうか。ここでは日本文化史の側面から書いています。カミは実体のないものです。日本人は昔からどこにでもカミの「おとづれ」を感じることができました。音が連れてくる、と書く。とある仮説では、カミはそもそも人間が進化していく過程で、古代人は左脳と右脳がうまくつながっていなかったのだけども、そこで左右の脳を繋ぐコントローラーとしてカミを想定することから生まれたのではないかという説があります。これはかつて誰も思いつかなかったものでした。

そして今、地球上の多くの人々はカミを信じ、宗教を生活に密接させ、また政治の道具として戦争の材料ともなっている。けども資本主義を信奉する国では、カミの実在を否定することによって、経済をカミの代わりとして利用し、また消費者もそれを信奉することによって生活している。東京で生活していると、このプレッシャーからなかなか逃れられない感覚がとてつもなく嫌なのだけど。アインシュタイン以降近代の科学者達は、カミの存在を物質的に証明しようと躍起になった時期があったそうだ。カミの不在という事態に対して、科学がカミという「意識の発生」のメカニズムを探求しなければならなかった。

しかし、こういった問題は古代にもあった。縄文人は土偶に心があると思っていて、話しかけていた。弥生人の埴輪についても同様に。どうやら人間はしょっちゅうこういう問題と事情にぶつかっていたのでした。

日本人の、花鳥風月を愛でる、という考え方は、眼に見ることができないカミの「おとづれ」を感じるためにつくられた概念だったのです。そう、僕はまさに今、消費文化に嫌気がさしてそっちの世界から帰ってこれなくなりつつあるのでした。
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ひらがな
古今和歌集(905年)の序文

やまとうたはひとのこころをたねとして
よろづのことのはとぞなれりける

和歌は漢文の言葉を借りるのではなく、日本古来の言葉の音によるからこそ心情を素直にあらわすことができる。だからひらがなは多くの効用がある。

藤原時平


古今和歌集によってさまざまな分野で国風文化が生まれた
・建築における「寝殿造り」
・服装における「十二単」

中国文化からの独立宣言


万葉集

あかねさす 紫野行き標野行き 野守りは見ずや 君が袖振る
額田王

あかね色に輝く、紫野、標野で、そんなに袖を振ったら、番人の野守りが見ますよ。不倫の歌です。書いたのは額田王。天智天皇の妻です。天智天皇とは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のこと。大化の改新をした方です。不倫の相手は、なんと前の夫、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)です。で、この大海人皇子というのは、実は天智天皇の弟なんです。そもそも、大海人皇子の妻であった女性を、兄の天智天皇が奪った結果のことなんですが。
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