tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
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最近の日課


朝焼けのグラデーションを独り占めしてから寝ること。

午前3時57分でもうこんなに明るい。
ここのところ平均すると多分一日で1分くらいずつ日の出が早くなってるはず。
夏至はもうすぐ。

空が白み始めてから日が出てくるまでの約30分間のことをタレル時間という。晴れていれば一日のうちで最も至福の時間だ。
光のアーティスト、ジェームズ・タレル氏の作品「光の館」の明かりのしつらえに敬意を表して誰かがそう名づけた。
| | 04:02 | comments(0) | - |
機動隊突入前夜の席上で
大地を守る会の会長、藤田和芳さんは100万人のキャンドルナイト実行委員会の会議の後に必ず中華料理をご馳走してくれる。その席上、毎回なかなか聞けない話を聞くことができることが、このプロジェクトを続ける大きな理由の一つになっている気がする。そんな中でもとっておきのお話し。

1969年、彼は上智大学を舞台とした大学封鎖のまっただ中に居た。機動隊に囲まれ、陥落寸前の上智大学に立てこもっていた彼の気持ちは、まるで四面楚歌そのものだったろうと思う。誰ひとり理解者もなく、ただ、悪人としてしか見られていなく、孤独の淵で辛く、叫びたかったであろうそのときに、まさか誰かに守られていたのだ、ということに気がついたのは、それから30数年後のことでした。

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我々はあるとき突然上智大学をバリケード封鎖したんですね。しかも上智大学では解決できない問題。日米安保条約反対、とか、ほかにも処分された学生の処分撤回とかあったんですけども、それらの問題の解決を求めて大学をいきなり封鎖したんですね。その頃まだ東大も早稲田もバリケード封鎖されていても、どの大学も大学の自治っていう問題があって機動隊入れるとかそういう問題に対しては逡巡してた。しかし解決できなくて東大とか日大はずるずるとどうにもならない泥沼になっていって、その頃に遅ればせながら上智大学にもばーん!てバリケードができたんですよ。

当時学長になっていたジョセフ・ピタウっていう先生がおられるんですけど、その先生は僕が大学の一年か二年の頃、政治学を教えてくれてハーバードに行かれてかえってきた新進気鋭の政治学者だったんですよ。それが僕らが三年か四年の頃に学長になったんですよ。で、我らがバリケードを封鎖した。その後ピタウ先生は上智大学をやめてその後バチカンに行かれて枢機卿かなにかになられたんですけども、それも終えられて、つい最近日本に帰ってきてたときに、古希かな、のお祝いがあってそのパーティーの終わりにピタウ神父が挨拶に立って、今日ここに当時の関係者も来ているから当時の思い出を語りたいっていってスピーチされた話が、さっきの話になるんですけども。

僕らがバリケードをきずいて、そしたらピタウ神父は一晩中寝ないで考えたと。暴力的な学生たちから大学を開放するのにどうしたらいいかと、どうしても学生たちの行動は許せないと言って、一晩考えて遂に警視庁に行くんですよ。そこで担当されたのが佐々淳行さん、国家安全委員会の委員長かなにかをやって、あさま山荘事件を担当された有名な人なんです。その人にピタウ神父は佐々淳行さんに機動隊を投入してくださいと言ったんですね。まだ東大も早稲田も機動隊を入れる決定はできていない時期でした。でもピタウ神父は一つだけ佐々淳行さんにお願いをしたそうです。大学を封鎖した学生達は許せないけども、決して悪者ではないんです。なので学生達を傷つけないで欲しいとお願いしたそうです。それで佐々淳行さんは「35歳以上の警官だけを投入します」と言ったんだそうです。35歳以上だったら子供も家庭もいて、学生達を傷つけないだろうと、そういう配慮であったということを30数年経ってから僕はそのスピーチで初めて聞かされて、ああ、あの人たちは単に僕らを排除しようとしていたのではなかったんだなあ、と、そして僕たちはあの瞬間も誰かに守られていたんだなあと、たとえようのない感慨に包まれたのでした。
| ログ | 22:40 | comments(0) | - |
9年前「ことのはじまり」
最近、ふとしたことから僕のファーストキャリアについてサステナのMLに書きなぐってしまったことがあったんだけども、そんなこともう二度と書けない気がするから、とっておこう。あのときは過去200年がテーマだったんだ。それに気が付いた時が9年前。今はそれが2000年くらいになっている。常に過去に未来を見てしまう。

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それは今から9年前、1998年に出会った西山浩平さんという人のお話。僕が前述のトフラー始め、今のような仕事を始めたきっかけは、明らかに彼の影響だと思います。良くも悪くも彼は僕の人生を決定的に変えてしまった一人です。彼はモノが溢れる時代に、モノのデザインはどうあるべきか、とてもとても哲学した人なのですが、欲しいと思えるモノが無い。この場合は具体的にプロダクトデザインや、インテリアデザインの話になるのですが、1998年当時、今ほどデザイン家電がブームにもなっていなかった頃、本当に欲しいデザインが無いのは産業革命以来連綿と続けられてきた、大量生産・大量消費文化が、マスを対象に画一的なマーケティング、画一的なデザインしかしてこなかったからだ。と彼は言い切っていました。大量の人間を相手にするために、嗜好性が右でも左でもなく、中道になってしまうと。このあたりの時代感、論理構成は今でもある程度間違ってはいないと思います。

それはともかく、そのような問題の対処法として、マスプロダクションの基本として1万人以上の人が買うとあらかじめ想定された製品をデザインするのではなく、たとえば500人というような、非常に少ない人数を想定したデザインを作れないものか、これは人数が少なければ少ないほど、コアな、トガったデザインがつくれるという従来のマス・マーケティングの原則を完全に否定した方法でした。98年当初、それは街頭インタビューという方法で末端消費者からデザインに対する要望を集め、デザイナーが形にし、雑誌面上を通して発表して反響を得ていくという非常にベーシックな方法で運用されていたのですけども、それをインターネットを使って、ウェブサイトを用いたのが、空想生活(http://www.cuusoo.com)です。このサイトは1999年にオープンし、僕が西山浩平さんと、その会社の仲間達と慶応藤沢の仲間達と初めて作り上げた作品だと思っています。

この頃、18〜20歳の僕はまだecologyといったような世界はまったく知らず、ただただ、デザインが悪いのは大量生産のせいだと思っていました。考えてみれば、そもそもデザインがなにかなんて今だに分かってはいないのですが。まあ、そう思いこむことで、すべて作品なり仕事なりに成っていったと思いたい所です。

以降完全に余談ですが、2000年にさまざまな事情から会社を飛び出し、空想生活の未来には関われなくなりました。そして慶応藤沢に潜るという生活を始めました。西山という人がとっていた方法、彼は起業する以前は大手外資系コンサルティング会社に居たのですが、彼がそこで学んできた会社組織という方法論でそのような非常に哲学的なテーマの問題を対処できるかどうか、当時は激しく疑問に思ったということと、もう一つ、そもそもでは産業革命が引き起こしたこと、それ以降のここ200年の社会学を知る必要がでてきた為でした。そして一番重要なのは、将来、自分がそのような問題に向き合うときのための「仲間」を集めるため、そしてそれは今しかできないと。確か、そのようなことを当時考えていたように思います。

特に空想生活でやっていたことは、トフラーが言うところの第二の波、つまり産業革命以降の社会、に起因している問題だったのです。ecologyな業界で言うところの化石燃料社会というやつ。しかし、これは実に多様な方面で問題を引き起こしていたわけです。規格化することで発生していた違和感、たとえば僕が一番最初に社会というものに対して違和感を感じた「学校教育システム」がまさにそれだったりするわけです。

空想生活のシステムの未来像には、定価という概念が無くなるということを考えていました。定価というのは一人一人がモノに対して支払う対価が等しい為に存在するのですが(空想生活というのはまだ存在しない製品を共同開発していくので)より早く製品化して欲しいと思う人はより多くのお金で、通常一万円の定価が見積もられている製品に関しては二万円で購入する人がいてもいいし、三万円で購入する人がいてもいい。定価一万円のものが500人で想定されていたとすると、つまり500万円がどれだけ早く集まるか、ということが重要なわけなので、より多くの金額を払った人には、その後の規定数500を超えた時点から発生する利益が、多く支払った分だけ還元されるという経済システムを考えたりしていました。もちろん実現していませんけども。

2000.10.15 [portfolio] 空想家電・空想生活
http://tamachan.jugem.jp/?eid=13
| - | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
むすび


空白の一週間。ここのところ、立て続けにいろんなものをなくした。とりあえず財布をなくし、大事な友は遠くへゆくことになり、それによって近未来のビジョンが若干軌道修正された。そのへんでだいぶ参っていたタイミングで一番なくしたくなかった気持ちをなくした。なくしちゃいけない優先順位上位三つをなくした感じ。どんなに固くむすんだつもりであっても、なにかの拍子にほどけてしまう。儚く無力だ。

そんな朦朧としたまま、なぜかソトコトロハスデザイン展に行った。そういえば新宿御苑て入ったことはなかったから、行ってみたかっただけなんだけど。そこに生えていた一本の巨木を眺めていたときに、一人のおばあちゃん先生のことを思い出した。

新宿御苑沿いにある、知る人ぞ知るという託児保育施設を40年前に始めたというおばあちゃん先生の話だ。6年くらい前、そこで預けられている二歳児の女の子に、離婚して父権をなくした父親が、離婚した妻に内緒で密かに子供に会いに来ている現場に出くわした。

そのときおばあちゃん先生が僕に言ったことは、いまでも忘れられない。
「この子はね、母親だけに育てられたとしても、結局は大人になったら絶対にお父さんを探しに行くはずなの。そのときに昔この大きなヒマラヤ杉の周りでお父さんと遊んだってことだけでも覚えていたら、ここに来たらなにか手がかりがある、って思うでしょう」

おばあちゃん先生は、すべてを見通した上でわざと父親を子供に会わせているのだった。もちろんリスク覚悟で、というかそんなことおかまいなしに会わせるのが当たり前でしょうといわんばかりに。

一度結ばれた縁は、そんなに簡単に切れるもんではないってあのおばあちゃん先生に教えてもらったのだったっけ。
| - | 23:01 | comments(2) | trackbacks(0) |
アルビン・トフラー「第三の波」1980年
ずいぶん久々に開いてみた。10年ぶりくらいに。そろそろ改めて読み直してみると見えてくるものがあるのではないかと思って。

簡単な解説

sustenaに限った現象ではないけども、NPOや、環境問題、社会問題に取り組んでいる世界にいると、すべてをエコの一言で片付けられ、禁欲的なものを求められ、その偽善的な空気を気持ち悪く感じる瞬間が多々ある。そんな時にいつも、問題はそんなに単純ではないんだ、と叫びたくなってこの本のことを思い出す。

地球環境問題、貧困問題、格差問題、規格大量生産文化、記号化社会、ゴミ問題、教育、時間、所有、その他諸々さまざま現代社会には問題が溢れているけども、その流れは「第二の波」つまり、産業革命以降の工業化社会に起因していると断言したのがこの本である。僕がこの10年間に関わってきたプロジェクトの大半が、この「第二の波」の影響によってもたらされた何らかの社会問題に対処するための企画提案及び啓蒙活動及びデザイン制作の仕事であったといえる。
| | 23:53 | comments(0) | trackbacks(1) |
Good-bye


さらばPowerPC。

PowerPCとは米国IBM社がつくった「個人用コンピュータ」向けの中央演算処理装置、いわば脳みそだ。アップルのコンピュータが全部このPowerPCからintel社製の脳みそに切り替わるという天地を揺るがす電撃発表をしたのが2005年の春。マックユーザー達は教祖の突然の宗旨替え宣言に大混乱に陥ったけども、2年かかって遂に収束し始めた。

なんだかんだ言って「消費者」としては損はできないので、いまここだ!というタイミングでパソコンを売り払って、一気に買い換える時がある。車の買い換えみたいなもので、これも立派な資産運用だと思う。値上がりすることはありえないけども。

先日sustenaに導入したMacPro 2.66GHz DualCoreIntelXeon x 2とまったく同じものをもう一台買ってきた。なんと前の機種(PowerMacG5)との差額3万円也(ポイント利用その他できる限りの付帯要素を使っての上で)これで、身の回りの環境のintel化がほぼ完了した。あとはAdobe Creative Suite 3の発売を待つのみ。intelMac + CS3という環境は、ようやくウインドウズ機並の高速な動作速度になるということを意味する(ハズ・・・)思えばPowerMacintosh6100から、15年来の付き合いだった。いままでよく計算してくれたと思う。

そういえば、教育関係者なら今ならなんと7万円ほどでAdobe Creative Suite 3を正規に手に入れる方法があるのです。(通常価格29万円程)それもなんの違法性も無く。アドビに電話で確認したくらいだから間違ってはないはず。PhotoshopもIllustratorもDreamweaverもFlashもInDesignもAcrobatも入って7万円!しかも、遂にintelMacに最適化されたCS3に。
| - | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
廻り舞台の下の奈落「菜の花の沖」司馬遼太郎
数年前の初春、函館山から下りてきて街へ向かってをふらふらとあてもなく散歩していたとき、ただならぬオーラを発する髷を結った江戸時代の人の銅像に出会った。どうやら函館の街に由来のある高田屋嘉兵衛という商人であるということを、その後に入った書店で知った。そこで出会った「菜の花の沖」という司馬遼太郎の小説は、間違いなく司馬文学の最高峰である。

そのただならぬオーラを放つ銅像の彼は、いわゆる「北前船」航路で商売する廻船問屋の船乗りとして、蝦夷の豊かな物資を日本海から下関を経由して兵庫・大阪、つまり当時日本最大の消費地の一つである上方まで運ぶという日本の航海史上、非常に長距離を輸送する航路を行き来していた人なのだが、彼の漁場だったエトロフ島近海において操業中にロシアの軍艦に拿捕されてしまう。カムチャツカまで連れていかれ、ロシア語もまったく話せないまま、自分がなぜ拉致されたのかを知るために、11歳のロシア人少年と会話をすることでロシア語を学ぶことから始め、一年後遂に「ゴロウニン」なるロシア人が松前藩に捕虜として捕まっていることを知るのである。「ゴロウニン船長を解放しなければ蝦夷地沿岸を砲撃する」という、江戸幕府とロシア帝国はもつれにもつれた一触即発の状態だったのだ。(いわゆるゴロウニン事件

つまりこのお話は一航海者の立身出世伝などではなく、江戸時代の終わりも近い頃に世界史的な流れの輪廻の果てに現在「北方領土」と呼ばれる地域を舞台にして起こった外交問題を民間人の立場として解決に導いた非常に優秀な外交官の話である。(この話、遠く原因を探るとナポレオンのモスクワ遠征の影響が、ユーラシア大陸を端から端まで渡ってきて日本にまで影響するという流れを持っている。ということが「廻り舞台」の意味にかけられている)

この本のタイトルはその長大な人生を、晩年過ごした故郷の家の周りに咲いていた、菜の花にたとえたことに由来する。
晩年「嘉兵衛さん、蝦夷地で何をしたのぞ」と村のひとがきいたとき、「この菜の花だ」と、言った。
菜の花はむかしのように自給自足のために植えられているのではなく、実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者の手に売られ、そこで油になって、諸国に船で運ばれる。たとえば遠くエトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の網繕いの手もとをも照らしている。その網でとれた魚が、肥料になって、この都志の畑に戻ってくる。わしはそういう廻り舞台の下の奈落にいたのだ、といった。
この本は、社会のグローバル化に伴う「人」と「もの」の交通・流通の活性化がその時代に所属する人間の精神に与える影響がテーマであり、その上で中東方面でおなじみの「報復の連鎖」を断ち切ることに成功した奇跡の実話のお話なのです。

そもそもそのとき、函館を歩いていたのも、嘉兵衛の半世紀ほど後の時代に現れる、榎本武揚という幕末の幕臣を追いかけて、五稜郭に辿り着いた先の巡り合わせだった。榎本武揚は江戸城陥落後、自分が指揮していた幕府海軍を率いて蝦夷にて再起を図り、将軍徳川慶喜公を迎えて、大まじめに北海道に独立国を作っちゃおうとした人なのだけども、それはまた別のお話。
| | 02:12 | comments(2) | - |
不動産関係者諸氏に告ぐ
遂に部屋探しを始めた。過去10年で7度目。にしても良い物件が無いのはいつものことだけど、中目黒っていう地域は大大大人気過ぎてプレッシャーのかかり具合がまったく違う。三週間以内に入居するような前提でないと、不動産屋が内見すらさせてくれないという状況には参った。

しかし、それ以上に参っているのは、一人暮らしなら多くても1LDK。2LDK以上はファミリー向け、というような暗黙の了解に辟易する。貸してるオーナーは、新婚さんや、所帯を持っていることが望ましいって思うのだそうだけど、人々の生活は実に多様なのであるよ。あらかじめこんな人が住むようにって、ライフスタイルがそこで規定されてしまっていることに激しく憤りを感じてしまう。それも更に不動産屋がお馬鹿ちゃんだとできるだけ効率的に客を処理していこうとする力が働くから尚更悲惨なことになる。彼らも仕事であるのだろうけども、彼らに規定されてしまうようなライフスタイルは残念ながら持っていないのさ。なので、たいがいの不動産屋は、ろくな仲介能力も無い、ただの鍵屋と化してしまう。もちろん、そこに当てはまらない、優秀な仲介能力を持った不動産屋も何人かは知っているけど。

しかし本質的には仲介業者の問題などではなく、貸している側のオーナーのライフスタイルへの意識の希薄さであったり、投資物件としてしか、つまり背後のマネーゲームでしか見れない人間達が、つまらない街を作り出してしまっている。彼らにとって顧客はごくごく普通な、無害な人間であって欲しいのだ。実にさまざまな職業が局所最適化を引き起こしているけども、不動産業界というのは局所最適化が与える影響が深刻な世界であると。関係している人間、顧客にいたるまでの大半が無自覚であって、業界的な慣習を許容してしまうのはものすごく危険なことである。
| - | 01:02 | comments(4) | trackbacks(0) |
茂木健一郎の授業
このひとはえらいなあと思うのだけど、いつも直前だけども、必ずアナウンスがある。
これは「潜りに来い!」ということなのだ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/05/post_c1be.html
2007/05/06

東京芸術大学 美術解剖学 講義
2007年度第一回

茂木健一郎 
「美と文脈」を巡って
Beauty and context revisited

2007年5月7日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

聴講歓迎!
そんでもって、行けなくっても録音データをぜーんぶまるまる公開しちゃうのだ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/05/post_25aa.html
| ログ | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
歴史上、たった一人の人間の考えた政策がずいぶん多くの人間の運命に影響することがある。


彼の考えた政策は多くの日本人にとって無関係では済まされない。

彼の持論だった政策によって、工場からの排出物によって深刻な環境問題が発生し、農村では深刻な後継者不足に陥いり第一次産業の衰退が起きた。彼の政策はもちろん、この国に良いことをもたらしたのだろうけども、僕らの世代は常にこの政策の副作用と向き合わなければなくなったとも言える。なんてことを、田植えの終わった田舎の水田を歩きながら考えていた。

そんな彼の考え出した政策とは、国民所得倍増計画。これについてはいままで漠然と 戦後の焼け野原から国民一丸となって・・・なんて漠然と思っていたけど、そんなシナリオを書いた人っていうのがやっぱりいるのだった。下村治。昭和35年、池田勇人内閣の経済政策の立案を担当した経済学者だったらしい。

身近なところでは、年末年始、GW、お盆の新幹線の乗車率150%とか、東名高速30kmの渋滞なんていうのもこの影響の一つなんだろう。うちの父親なんかが上野駅で感じているのであろう郷愁もその結果の一つだとも言えるけども、感覚としてはわからないし、僕自身には確固たる故郷が存在しないので、人の実家に行ったりすることでその感覚を追体験してみるけども、やっぱりわからない。けども確実なのは彼の描いたシナリオの上に今の日本があるということだ。
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| 昭和 | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |