2022.07.04 Monday
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tamalogOutput and input from 1998 to 2010
2008.02.28 Thursday
コミュニケーションギャップがあるところが私たちの仕事場なの
サステナのサイトをリニューアルする作業をしていて、いろいろパソコンの中をひっくり返してみたら、4年前に最初にウェブサイトをつくったときにマエキタさんにインタビューしたログが出てきた。100万人のキャンドルナイトの立ち上げも一段落して、サステナのオフィスを借りたり、これからどうしていこうか、って夢を語っていた日。思えばここから始まったのでした。クリエイティブエージェンシーとしてのサステナが目指していきたい展望も、ここに書いてあったり、どこまで達成できたのか、改めて読み返してみると面白い。 彼女がやりたいことって、クリエイティブエージェンシーっていうより、ジャーナリズムなんではないかと、改めて思う。メディアを持ちたいんだなぁ、やっぱり。いやあ、マエキタさん、会社辞めるの三年遅かったよ。こんなことインタビューしたことも、すっかりすっかり忘れてた。 ------------- Data : 2004.08.05 いずれはメディアを作りたい。テレビはすごく大きいけれどあまりにもつまらない。マスメディアへの入り方は環境とかCMで入るのがいいと思うけど、それで満足かっていうと、本来はなんのためにそれをやるのかっていうと、民主主義の礎になるはずのマスコミっていうのが「望ましい民主主義」を支えている形になっていないから。下村健一だってもっと前に出ないといけないし。そのために道を空ける場所を確保したい。作れる人はいっぱいいるのに、その場を確保する場所をつくろうよ。今ある民放がサステナに番組を売るよとか、そういうことをもくろんでいる人たちが、目指している人たちがいるんだってことを分かる必要があるのかもしれない。 新聞社にいるとデスクにニュースがつぶされるって、不満をウェブにぶちまける人が多い。下村健一はオウムの問題の時に出てきた。いずれは筑紫哲也みたいになる人なんだけど、サタデーずばっとって企画の中で、市民の人が撮影までして流すっていうのをやろうとしてたんだけど、当日になってみのもんたが「俺がいままでやってきたような仕事をばかにしとる!」って言って潰されたんですよ。みのもんたさんが、ここまで番組に関係してるのがすごい。 下村健一は生粋のジャーナリストなんだけど、もっとちゃんとこう、ジャーナリストとして彼のニュースを出したいし、そもそも市民テレビってのをやろうっていって「やろうマエキタ!」って言われたのは10年前。誰がぱっとみてもわかるニュース局。核爆弾が降ってきても壊れないテレビ局。マスメディアの責任てそういうものだと思うんだけど、ペンは剣より強しっていう言葉がある。民主主義とのせめぎ合いで、言論への弾圧っていうのがすごい。そういうのが無いからつくろうと。歌舞伎町の裏話を書いたジャーナリストが、ヨットに手足縛り付けられて死んでたわけ。危険があって、そういう人たちの命を守るセキュリティのある場所をつくらなくちゃいけないね。政治に関わることのなにかをすっぱ抜こうしたときに、ちゃんとかくまえる場所をつくること。しょっちゅうスクープにつきあっていると命狙われるかもって思うんだよね。 で、そういうメディア機関を作るってのが、事業計画に関わってくる。言論の自由ってのはタダじゃできないんですよ。見栄えとして、決意として。真実を曲げようとする圧力には負けないからね、ってツラしてることが大事だと思うんです。昔の岩波書店はそういうことを考えてたみたい。あの会社がそういうことやってるんだよって噂が流れることも大事なんだよ。朝日新聞は襲撃されてオイオイ泣いてる場合じゃないんだ。セキュリティ甘いもん。 ・広告代理業 ・クリエイティブデザイン ・メディアを持つ クリエイティブって言うのは表現だと思うのね。広告って言うのは媒体をちょっとづつお金で買って表現を出していくってのが大事。クオリティを高めて、効率を高めて、情報を伝えていく。社会表現。メディアは問わないスキームで、広告だったり、ファンドだったり、選挙のキャンペーンだとか、だから道具を決めない。道具を自由に選んで勝負をしているので、目的はムーブメントを起こしていくことだったり、必要な情報をちゃんと伝えることだったり、むずかしいとか説教くさいって思われていることを本当は楽しいんだって、伝えたり、表現の力で「人の既成概念を突破していく」。人の可能性を信じさせたり、結果、経済っていうのが環境経済にエコシフトしたり。 オフィス・フォー・クリエイティブ・ディストラクション。土方の仕事をしてる人が着るジャンパーを850円で買って仕事に行くってのが好きで、デザイナーとか、タレントがカッコつけるのがダサイって、あるとき思ったらしくて、土方ファッションに走った。工事現場の土方のようにクリエイティブワークをするのがいいねって話になった。クリエイティブはいいけど、ディストラクションてなんなの?って考えたときに、既成概念だねって話になった。コム・デ・ギャルソンの川久保玲は、常に新しいモノ、美しいモノを作りたかった。なにがカッコイイ?たとえば環境っていうものを、ゴミの分別をしたり、食べ物を新しくしたり、そういうライフスタイルもカッコイイんじゃないの?新しさを感じさせるのは、文脈が新しくなったと思ったらカッコイイと思う。 核として「表現をしていく」人の心に働きかけることができる仕事ができるのが、クリエイティブっていう仕事のすごいところ。特にマスコミュニケーションていう領域で、表現ていうテクニックをもって仕事をしている人たち。その領域で既成概念を突破して、社会を新しいステージへ乗せていくってことをやらなくちゃいけない。誰かが先陣切って冒険して、こういうことってカッコイイでしょ、みんなでやろうよって言って見せていきたいよね。 これからやらなきゃいけないことって、イノベーションを作り出しやすい環境をつくること。民主主義ってみんなの想像力にかかっている社会だと思う。想像力のケアが足りてない。みんながネックなんだけど、みんなが責任を感じた方がよくて、マスメディアに関わる人も教育に関わる人もみんなが健全に関わるようにしなくちゃいけない。端的に言うと、法律は自分でつくらなくちゃいけない。変えられないって思ってるところが多い。それはみんなの想像力なの。想像力には想像力を持って働きかけるから、マスコミュニケーションの表現が必要になってくる。 広告ってタブーがあるところが狙い目なの。それが覆ると、みんなが「あっ!」というから。新入社員の時に、ワインのコルク栓を抜いて、ワインを注ぐってシーンをとって、「それって、私が初めて受けた性教育でした」っていうCMだったんだけど。意味深なわけ。ワインを飲みながら男の人が女の人になんか言ったんだろうなって、思わせぶりなCMなの。下ネタを上品に言う。普段言わない言葉をどんなふうにつかったら、ぎょっとするかなって思った。グリーンピースなんてそのものがタブーだし。画像をくっきり思い浮かべられる能力が必要。なんだかそれは置き去りにされてることが多いので、そういう訓練が滞りがち。それを一生懸命訓練して、いい表現者になろう。 啓蒙活動として、一人一人の想像力を掻き立てることを常にやらないといけないんだけど、一方でイノベーションが起こる社会システムをつくらなくちゃいけないね。社会科学をやっていて広告代理店に入ろうと思ったのは、仕組みがおいついていなくて、NPOをどんどんつくっても変わらなくて、大きいモノと小さいモノの間を埋める仕組みができてないね。アイデアの資本主義というか、成果主義になっていればいいんだけど、いままでそうなっていなかった。メディアにおいても自分から仕掛けられるメディアがあったりとか、お金についてももっと証券化が進むと面白いと思うんだけど。NPOみたいなものって、資金調達の方法をもっとしっかりしたほうがいい。 お金の面で支えなくちゃいけない、メディアの面で支えなくちゃいけない。「社会は可変だ」ってことを伝えたい。想像力を活性化させることが、社会を変えることになる。あ、そういうことって可能なんだ、って、で、それはひとつの社会は可変なんだってことの証明になる。結局は想像力の先に伸びていくことだから。そのためには、なるべくありえもしないことを達成する。こういうことってありえなかったよな、ってことを思いつくことでもいいと思う。よく思いつくよなあってことでもいいと思う。佐藤雅彦は、なるべく人の思いつかないことを思いつこうとしようねって、でも本人は思いつかないから、みんなをけしかけて、まーちゃんは観客なのね。そういうのが面白かった。 100万人のキャンドルナイトって、あんなに簡単に有名になれるはずがない。ってみんな思っている。広告代理店の人がいるからできるのね、って思いこんでいる人もいる。あそこまで仕掛けられる人って、世の中にいないんですよ。方法論が世の中に無い。いままで企業のコミュニケーションって、一個の会社が一個のものを売る表現が一つだったんですよ。タグボートのスタイルが新しくない理由っていうのが、相変わらずCMしかやらなかったり。それに対して佐藤可士和は、街全体を表現してたりする。で、サステナは、多メディアを対象にしてたり、いろんな会社を相手にする。一個の表現方法でモノが売れない時代にどうするかっていう話。一個のモノを一個のメディアに表現するのはやめて、ジャンルで切ったほうがいいんじゃないかと思う。一個の会社がやっても現状打破出来なくて、同じ事業者が集まって、共通のことを表現する仕組みが必要なんじゃないかなって思う。キャンドルナイトとか万博って、環境問題とその周辺ってカテゴリで切っていて、そこに協賛するっていう会社がいるっていうかたち。環境問題だけをサステナがやるっていうのは間違ってるなっておもっていて、いくつもの関係する人たちをうまく束ねて、ムーブメントに関係するいろいろな人たちに送ることが大事。 目立ち方なんだけど、人がやってないことをやると目立つ。タブーっていうのは言っちゃいけないことだから振り向く。そこまでいかなくても、みんながやってないことを敢えてやる。既成概念を突破するために、やっても悪くならないよ。時代が変わって今やったらぜんぜん平気なのに。反原発派の人と原発推進派の人が同時に同じテーブルに同席していること。いままで同席しないことを美徳とする社会があった。同居させることで既成概念を突破できることに人は気付いていない。ちょっとのお金でたくさんの広告効果が得られる。100万人のキャンドルナイトのことだけど、いままで環境NGOは連名でなにかをするってことが得意でなかった。えっ!?っていう意外性っていうか、文脈がずれているように見えるものっていうか、幕の内弁当じゃないけど、揃えて見せると「そういう時代になったんだー」って、目立ち方として一つ仕込んでみた。なるべく「NGOが」って書いてくれって新聞社に頼んだ。ほっとけば「環境省がやった」っていうふうに書いちゃうから。 サステナがいろいろ仕掛けていくことに対する方法論として、そこに居る人たちを束ねる。束ねて表現するっていうことがすごく意味があるってことを説明できたらいいんだけど。 コミュニケーションギャップがあるところが私たちの仕事場なの。有明諫早は日本最大のコミュニケーションギャップなの。諫早湾締め切ってあそこに干拓地が欲しい人って、いったいどこにいるのー?さーっぱりいないわけ。ばかじゃん!て世界なわけ。みんなの思いと現実がこんなに乖離してることって、そんなに無い。NO WARのピースパレードもそうなんだけど、日本国民の80%は、アメリカはイラクを攻撃するべきかって調査にノーだったわけ。でもピースパレードに来たひとはすごい少なかった。なんでこないんですか?って聞いたら「あ、でも私、誘われてないから」って言って、それって本質だなー、よし!じゃあ誘ってやろうって思った。社会問題はコミュニケーションの問題である。ギャップが大きければ大きいほど、いい仕事になる可能性が高い。行政対市民ていうふうに見るとギャップには見えないけど。大きな大きなギャップがあるのです。 2008.02.26 Tuesday
果たして今の日本で、自分が正しいと思ったことをどれだけ信じて実行できるだろうか。
日本の教育制度では一つの質問に対して必ず正しい答えが存在する。それ以外は正しい答えではなく、まったく評価されない。そのことが現実の社会に即していないことが、既に日本の教育システムが硬直してしまっている証拠だ。それに適合できたものにこそ未来があるというある意味幻想で、ある意味事実がある。それに適合できない結果、底辺から這い上がってくるシステムがないことに憤懣やる方なし、っていう話をしていたときに、ふと、高校を辞めた時のことを思い出した。 20代の前半はこの話を、ことある毎に人に話していた。9.11の直後、社会問題に興味を持ち始めていた時期、硬直している日本の教育システムが自分の反骨精神を作り上げ、親のカタキだくらいのことを言っていた気がする。今となっては20過ぎの頃の、ろくに存在もしない自己の確立のためだったかもしれない。そう思い始めたら、最近はすっかりそのことを人に話していなかったってことを思い出した。 いまから12年前、高校二年の春に僕は高校を中退した。それは「やめます」で済むほど簡単な話ではなかった。一般の日本の国民生活の基本路線から外れることの不安に対する母親からのプレッシャーと、それにどっぷり浸かっていた自分が確かにいた。もともと大学に行こうなどとこれっぽっちも思ってはおらず、勉強はせずに、日々、ただただ10代の半ばを鬱屈と過ごしていた。高校に一年間居て、本当に意味が無いと感じたならばそのときはやめようと入学したときから思っていたことだった。それは自らの意志。でもまあ、風変わりな父親のお陰でぽんっと背中を押されたから、一歩踏み出すことができたのは幸運だった。あのとき、高校をやめることは「人生を開き直ること」だったと思う。あのままもしそれに気がつかずに、進学校でもなかったあの高校に居続けたら、はたしてどの程度の人生が待っていただろうかと思うと、ときどきぞっとする。 そして高校をやめて、「大人」になることにひたすら先走った。さまざまな幸運な巡り合わせから、ひととおりデザインのスキルを得て、食っていけるようになったときに、周りが10も離れた大人たちばかりの世界になっていて、とてつもない不安に駆られた。10代後半からの大学生と呼ばれる特定の期間のうちに、どれだけ同年代の友達を作り「学生ならではの共通体験」をどれだけたくさん共有できたかが、そいつの人生の大きなウェイトを占めるのではないか。(今となっては、その仮説は正しかったと確信している。)そしてそのとき勤めていた会社を退社。大学に入ることを考え出し、結局、潜るということで目的を果たした。学位はいらない。だから当然単位もいらない。学問は好きだったから多くの授業に潜ったものだ。最初は授業に潜るのはとても勇気がいることだった。出席とられたらどうしようとか、いちいち小さなことにビクビクしていた。ものすごく中途半端な、アウトローな状況の自分が哀しかった。泣き出したくなるようなことがどれほどかあったかわからない。自分が正しいと思ったことを信じて実行することがこれほどつらい時期もなかったかと思う。 と、そんなことも、時とともに徐々に忘れかけていた。 | - | 20:39 | comments(0) | - |
2008.02.25 Monday
猛吹雪の中で
昨日はスキー合宿で面白い人に出会った。 ウワサには聞いていたけれど、ちょっと考えられるラインを逸脱していた。 彼ならば、生きているうちに宇宙でも月でも行けるだろう。 絶対インタビューしてやろうと思った。 そうとう久しぶりに人に出会って刺激になった。 なんだろうねぇこの感覚は。 マエキタさんとか茂木さんとか上の世代からの影響とは違って 彼が同年代だからそう思うのかも。 彼がもし同じスキルや業種の人間だったならば、徹底的に打ちのめされていただろう。 20代のはじめの頃は自分の生き方に絶大な自信を持っていたことを 彼と出会って思い出した。 そんな自信は若気の至りだと思いこんでいた。 そしてそれを思う努力を怠っていた。 思い込みは、時に大きな力となる。 それと、どんだけ一人でがんばったとしても、 やっぱり、誰と出会って、誰と生きてきたかが その人を作っていくのだなと、強く、強く、思った。 だから、あのとき藤沢に居たのだし、 だから、あのとき京都に居たのだ。 次はどこに行こうかな、と 少しづつ、思えるようになってきた。 2008.02.18 Monday
いい話をするには、三人が一番いい
僕はいままで環境問題をはじめ社会問題全般は、広告的にトップダウンでキャンペーンをもって世に広く伝え、変えていくことのみと考えていた。 京都に行き始めた頃から薄々感じていたことなのだけれど、あっちで知り合った人たちに共通することがあるのだ。一対一のコミュニケーションをとても大切にする。一方通行のコミュニケーションはなるべく避け、イベントの進行についてディスカッションを基本としたり、会議スタイルのイベントを重視しているのはなんでだろう、なんでだろうと思い続けていた。今日そんな話していた関西出身の友人は「茶の湯の思想ですよ」と、さらりと言っていた。そうか、東京でなにかやろうとすると、30人、40人集めて講師がしゃべって飲み会、って流れになりがちなんだけど、あっちでは距離の取り方が違うのだ。 思えば僕らはメディアを使うコミュニケーションに頼りすぎてきた。メディアの研究会なんてやってたから尚更なのかもしれないけれど、難しい、敷居の高い社会問題は、どれだけ敷居を低くして伝えやすくしてスケーラブルにできてなんぼのものだと思ってきた。 京都で市民メディアの勉強をしていた友人が数日前に言っていた。「人になにか伝えるのになにか媒介をつかうのがめんどくさくなっちゃってね。きっかけとしてのマスメディアはいいんだけど、きっかけにとどまってしまう。」 彼らのアプローチは、僕らが当たり前と思っていたアプローチとは、まったく真逆なのである。メディア論的に考えると実はそっちの方がとてもインターネット的(未来的・本質的)じゃないかと思ったりする。問題解決のために当事者同士がきちんと会話できればキャンペーンなんて必要ないんだよね。長期的にみたら広告的アプローチがなくとも、いずれきっと直接対話されるようになるのだから。 二項対立的にすべきではないと思うけれど、それは、光と陰、太陽と月の如く、違うのである。違うから魅力的なのだ。同じだったら補い合うことはできないけれど、違うから気になるのだ。 | - | 00:20 | comments(2) | - |
2008.02.12 Tuesday
ニセ神童からの脱出 箭内道彦
最近のもっぱらの興味は「ひと」かもしれない。ということに気がついた日。「ひと」っていうカテゴリを作ってみた。あれからずっと自分が無いから人に語ることができないけれど、ないならないで、聞きだしたり、興味を持ったりしたらいいんだ。っていうのは僕的には大発見なことなのです。 箭内道彦(やないみちひこ)。TOWER RECORD「NO MUSIC, NO LIFE」や資生堂「UNO」のCMを作ったCMディレクター。ぶっちゃけこのひとの広告のクリエイティブワークには一切興味がなかったけれど。経歴と文章は面白い。 --- 僕の実家は福島県郡山市。「お菓子のデパート」という小さく貧しいお菓子屋兼牛乳屋(のちに負債を抱えて廃業)でした。僕は幼少のころから日々家業をよく手伝うなかなか感心な少年でした。(現在のワーカホリックは、哀しいかなその時分からのものです。) 小学校1年のある夏の日曜。丸1日びっしりと家業の手伝いに汗した僕は、ぐったりと疲れ果て、宿題の読書感想文を書かずに、夕食後、泥のように眠ってしまいました。まったく過保護ではない、どちらかといえば逆の家庭でしたが、早朝から夕刻まで一日中家業を手伝わせた息子を不憫に思ったのか、母親がその晩宿題の作文を代筆しました。翌朝起きてその文章を僕が中身もろくに読まずに清書して学校に提出したのです。ほんの軽い気持ちでした。 しかし、想定の範囲外のことが起きました。その作文は先生方に絶賛され市のコンクールに出品されて最優秀賞をとってしまいました。考えると当たり前ですよね、大人が喜びそうなものも大人が書いたんだから。立派な賞状と盾を全校児童の前で校長先生から受け取りました。天才的文章力を持つ神童の出現でした。 そこから始まった苦悩の歳月。だけどもう後戻りできません。小学校1年、2年、3年、4年ーーと、僕のすべての作品の筆者は、母である箭内伸子でした。そうしてニセ神童は、とにかく作文の賞という賞をかたっぱしからとり続けたのです。「こりゃまずい」と思いながらもどうしようもない代筆スパイラル。もらった数々の賞状が嫌でした。部屋(家族4人で8畳一間風呂なし)の隅に無造作に転がっていました。当然母親にも少なからず罪悪感はあったはずですが、自分の書いたものが次々と賞をとっていくという希有な体験にむしろはまっているようでした。あたかも子どもが書いたかのように文体や視点を巧みにチューニングしていくスリル。金賞を逃すと「ちっ、銀か・・・・・・」などと悔しがっていました。 すべてが順調と思えたある日、事件は起こりました。小学5年のとき、授業時間内で作文を一つ書き上げるという国語の授業。地獄でした。学校で作文なんて書けるわけがありません。小学1年の夏以来、僕は作文を書くことはおろか、文章表現に関する何の技術の訓練や習得もしていないのです。しかも、クラスのみんなは僕の秀逸なる新作を楽しみにしています。 「どーすっぺ!ばれっちまあ(どうしよう!すべてがばれてしまう!)」 1文字も書けないまま時間だけが過ぎていきます。いまだにあれほど長く感じた1時間はありません。吐き気とめまいに襲われ、聞こえるのはクラスメートの鉛筆のカリカリと走る音。滴り落ちる脂汗で僕の原稿用紙はびしょびしょにふやけました。 「どーすっぺ!どーすっぺ!どーすっぺ!(ああ、どうしたらいいんだ!!!)」 とうとう授業のチャイムが鳴ります。担任の先生が見回ってきます。万事休す。そのとき、真っ白な原稿用紙を見つめ続ける僕を覗き込んで先生が言いました。 「やっぱ天才はちがわなあ!(おお、やっぱり違うね!天才は!)。イメージがわがねときだってあっぺ!(イメージが湧かないときもあるよな!)」 助かった・・・・・・。 奇跡的にバレずに済んだ僕は、家で書いて翌日提出することを特例的に許され胸をなで下ろしながら帰宅し、さっそく母親が代筆。それを翌朝僕が子供の字に直して学校に持っていき事なきを得ました。もちろん先生はいつものようにその作文をみんなの前でとても褒めてくれました。 この日を境に僕は変わりました(というか我に返りました)。このままでは間違いなくいつかばれる。それはもう時間の問題だ。自分の力で書かなければ!とはいえ4年半のハンデはあまりにも大きい。何年もの代筆でその間まったく作文を書いていない。すぐに自力による作文を出したら出来は歴然、間違いなくいままでの嘘がばれる。それからは常に同時に2つの作文を用意しました。 1つは代筆。もう1つは自筆。そして相変わらず代筆バージョンを提出しました。だけど僕は、必死に書き続けました。決して外に出ることのない誰も読まない文章を。そして小学6年の夏、ついに自筆バージョンに差し替えることにしました。自分の書いた作文を思い切って提出したのです。 心臓がやぶけそうでした。評価はイマイチでしたが差し替えは誰にもバレていないようでした。いままでのような華々しい賞はとれませんでしたが、校内の末等佳作にかろうじて引っかかりました。その日で長い長い代筆の歴史偽りの日々は終わりました。言いようのない清清しい達成感と安堵に包まれました。 30年前の話です。完全犯罪はさすがにもう時効だとは思いますが、担任だった岩淵先生、本当にごめんなさい!僕はダメな子供でした。 そんな自分が、こうして「書評」を書く日が来るなんて(映画評は書いたことありましたが)。あらためてその深い感慨に浸り溺れていたら、前置きが長すぎて肝心の書評の文字数が足りなくなっていました! ASCII出版「クリエイティブ合気道」より 2008.02.08 Friday
レゴで作った世界遺産展 PART-2(追記)
久々にいい展示だった。創作意欲をわきたてられるっていう感覚。こういう感覚だったよね、忘れてた。この新聞みたいなのも800円もするんだけど、つい買ってしまう。そもそもレゴと世界遺産という組み合わせは誰が考えたんだろう、と調べていたら、クレジットにバウ・コミュニケーションズと書いてあった。この会社、100万人のキャンドルナイトで一番大規模な大阪のキャンドルナイトのイベント(http://www.candle-night-osaka.jp/)を企画・運営している会社なんだけど、相変わらずいい仕事してる会社だなぁ、と思った。 2008.02.12 追記 この二日後、たまたまユネスコのイベントに呼ばれて行った担当者の人が、レゴ展のPR担当者だったことが発覚。彼が言うには、日本にはプロのレゴモデラーさんは一人しかおらず、開催当日の朝まで作り込んでいたという。制作途中、サグラダ・ファミリアの階段が資料をきちんと調べてみたら直線の階段ではなく螺旋階段であったことがわかり、急遽全部バラバラにして作り直したのだそう。つまり見えない内部まで作り込まれてるってことらしい。 レゴで作った世界遺産展 PART-2 2008年2月1日〜2008年2月25日 http://www.parco-art.com/web/factory/lego0802/ | - | 15:19 | comments(0) | - |
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