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Output and input from 1998 to 2010
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アレックス・カーの桃源郷「ちいおり」
前からずうっと行ってみたかった「ちいおり」に来た。アレックス・カーのみつけた桃源郷であり、彼の城だ。京都から車で5時間くらい。明石海峡大橋から淡路島を抜けて、徳島県の西の端、四国の丁度ど真ん中に、ちいおりのある祖谷峡がある。


Photo by torublog

来てみていろいろとわかったことがあった。その中でも一番大きな事実は、今年になってから10軒以上の古民家を見てきたけれど、ここは単純に昔ながらの趣をそのまま残している場所というわけではなく、京都から持ってきた家具などの調度品と、アレックスによる書が描かれた障子など、アメリカ人の描いた理想の日本像を具現化させた「作られた」場所であるってことだ。



30年前にここができて以来、何人もの外国人が世界中から集まってここに滞在し、生活をしてきたのだという。その頃は、あまり地元の人たちとの交流があったわけでもなく、外国人もいずれ散り散りになっていったのだそうだ。いろいろな話を聞いていくなかでだんだんわかってきたことは、ここが長い歳月の中で、ヒッピーの巣窟になっていったんだろうなと思った。つまりここは、彼らの描いた理想と夢の跡なのである。



しかし、考えてもみれば、ここ数年ずうっと「西洋人が見た日本」を追いかけ続けてきたと思う。建築ならば桂離宮を発見したブルーノ・タウトやフランク・ロイド・ライトを。日本画ならば伊藤若沖を発見したジョー・プライスを。彼らとは少し立場が異なるけれど、イサム・ノグチもまた日本庭園を重森三玲とともに追求しつづけた。



そんな彼ら西洋人の、アレクサンダー大王以来のOrientに対する想像力が、非常にモダンなものを生み出す源泉になっていると僕は考える。初めて出会ったときの瞬間の想像力を、その後に待ちかまえている現実による幻滅に耐え抜き、ファーストインプレッションを追いかけ続けた結果なのだろうか。とてもつくられたものであったとしても、ただ「昔ながら」を追いかけただけではないからこそ、魅力的なものが生まれるのだと思う。そういう意味で、この場所の存在は意義深い。



ただ、伝統を守るということだけではなく、しかし流行に流されることもなく「今」を本当に生きることができた人やことや表現を「モダン」と言うのではないかと、最近ある一定の結論に達したように思う。



ここは、重要文化財でもなく、保存が第一義ではなく、生活するために現に使われているために、囲炉裏も自由に使えるし、すべての道具が生きているという点ではじめて古民家の生活を体験したなあという感じだ。いままで見てきた古民家はどこもかしこも触るな使うなの一点張りで、見せ物でしかなかった。



長い長い距離を運転してくれたともやん、有り難う。

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ちいおり
http://www.chiiori.org/

「美しき日本の残像」アレックス・カー
http://tamachan.jugem.jp/?eid=337

alex-kerr.com|美しき日本の残像
http://www.alex-kerr.com/jp/
| 日本の残像 | 19:53 | comments(1) | - |
地球大学クリエイティブ 第2回 廣村正彰「意味のコンテクストをデザインする」
この記事は、http://tamalog.ciao.jp/creative02_hiromura/へ移動しました。
| ログ | 14:42 | comments(13) | - |
イサム・ノグチ 宿命の越境者
本を読むことにこんなにのめり込んだのは本当に久しぶりだ。すべてを読み終えてこんなに爽快なのは「犬と鬼」以来だろうか。この本は茨城県の笠間にある春風万里荘に行く下調べをしていたときに出てきた。かつては北鎌倉にあった北大路魯山人の住居に、一時期イサム・ノグチが住んでいたという。そのとき、イサム・ノグチは李香蘭との新婚だった。(李香蘭については過去に記事を書いた http://tamachan.jugem.jp/?eid=264


岐阜の市長に依頼されてつくった照明「AKARIシリーズ」は、サラリーマンでもデパートで購入できる彫刻であることをイサムは生涯自慢していた。

イサム・ノグチは、壮烈な運命に翻弄され続けたアーティストだ。その壮烈さたるや並大抵のものではなかっただろう。彼の運命は生まれる前から既に波乱含みだった。父、野口米次郎は、母、レオニー・ギルモアが身ごもったと知った時に、レオニーの元から姿を消し、日本に帰国してしまう。イサム・ノグチはこうして私生児として生まれた。時に1904年、日系人が徐々にアメリカ西海岸から排斥され、太平洋戦争にまで繋がっていく有名な排日移民法のきっかけとなる日米紳士協定が1908年に結ばれる。そのような状況下で日本人としての血を持つ子供をまともにアメリカで育てられないと判断したレオニーは、2歳のイサムを連れて単身日本へ移住する。このような日米のハーフであることによる二国間の問題は、結局1945年の終戦までイサムにつきまとうことになり、その後も広島平和祈念碑や、ジョン・F・ケネディ大統領の墓所のデザインが不採用になるという直接の理由になっている。

しかしその壮烈な運命と日米どちらの国にも帰属することのないという思いを、彼は、自ら作り出すアート作品に昇華させたのである。この一点において、僕はとても彼の人生に救われたという思いである。


イサム・ノグチの傑作の一つ。草月会館ロビー「天国」 東京・赤坂

また、彼はとても恵まれた人間関係を構築している点でも興味深い。
若い頃に野口英世によって医者ではなくアーティストへの道に導かれ、なんとあのバックミンスター・フラーは一時期彼に強烈な影響を与えたメンターだったそうである。(バックミンスター・フラーについてはこちら http://tamachan.jugem.jp/?eid=214)フランク・ロイド・ライトの嘆願書によって日系人の強制収容所から解放され、戦後は北大路魯山人という類い希なるパトロンの元に身を寄せていた。作庭家の重森三玲はイサムに日本庭園と石について教えた。(重森三玲についてはこちら http://tamachan.jugem.jp/?eid=275)そして、二国間に翻弄されつづけたことではこちらもぜんぜん負けていない李香蘭との結婚である。


モエレ沼公園。イサム・ノグチの遺作となり、2004年に完成した。北海道・札幌

この本で最も印象深かったのは、明治の日本に2歳の息子を連れて移住し、自邸の設計を8歳の息子にさせ、アーティストとなる将来を築くきっかけとなった母、レオニー・ギルモアの存在である。イサム以上に孤高の人生を歩んだ彼女の足跡については、映画化されるという話もある。

東洋と西洋の融合、モダンの追求者として、今の自分にとって適切なロール・モデルを得たような気持ちである。

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イサム・ノグチ - 宿命の越境者 (講談社文庫)
ドウス 昌代
| | 03:55 | comments(1) | - |
mixiのプロフィールを


ブラッシュアップしました。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=443509

しかし。もうすぐ10年経つんだなぁ。

1998年の11月のあるひ、たまたま呼び出された東京国際フォーラムでやっていたベンチャーフェアという小さな小さな見本市に出展していたエレファントデザインのブースに、ふらりとたまたま立ち寄り、時給650円の3DCGモデラーとして雇われたのが、今に至る連綿と続く、人とプロジェクトの繋がりの、最初でした。

しかし、本当の最初の最初は、たぶん、インターネット上で公開されていた僕の作品をとてもとても気に入ってくれて、国際フォーラムに僕を呼び出した、とある建設会社の社長さんかもしれません。
| - | 01:50 | comments(0) | - |
星の王子とわたし 内藤濯
「自分の仕事をつくる」の西村さんのオススメで、栃木県の益子に行った。益子は、隣町の笠間と並んで関東圏で唯一の陶芸の里だ。西村さんも個展をやったという有名なカフェ「スターネット」で1976年に内藤濯が自ら「星の王子さま」を翻訳したときのことを語った本があって、読んでみていろいろサン・テグジュペリと、この作品について新たな発見があった。

ひとつは、サン・テグジュペリは四六時中文章に向き合った、文学作家ではなかったということである。人生の大半を航空士として飛び回り、その多くの体験を、ごくごく一部の時間で書いていたということである。つまるところ、職業作家にならずともその人の経験が文章の内容的価値を決定しているという事実である。これは、最近、文章を生業とすべきか否か、と考え始めた自分への一つの答えであると思う。

もうひとつは、僕らが「星の王子さま」として認識している文学は、サン・テグジュペリ一人の世界観ではなく、内藤濯という訳者があってこそのものだったといえることである。この訳者がなければ、ただの「小さい王子(原題:Le Petit Prince)」のままであったといえる。彼が王子に「星の」という名前を与え、本文の内容も原著よりももっとも魅力的なものにつくりかえたことにより、原文より優れた訳文が生み出され、至高の文学作品として記憶されることになったことである。
はしがき 内藤濯

もはや二十三年ほど前のことである。児童文学に堪能な石井桃子さんが、美しいフランス本を私のところへお持ちになった。英訳で読んでみたのだが図ぬけて秀れた作だと思うので、いま私の関係している書店で本にしてみたい。で、もしお気が向くようだったら、日本語訳を試してみて下さらないか、とおっしゃる。おっしゃり方に、なみ大抵でなく熱がこもっているのに引かされて、石井さんがお帰りになるとさっそく、ページを繰りはじめた。そして何よりもまず、短い序文の結びとなっている一句「おとなは、だれもはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」というのにぶつかった。私は身のすくむ思いがした。おとなの悪さを、やんわりつついている志の高さに、頭があがらなかったからである。問題の書はほかでもない。アントワヌ・ド・サン・テグジュペリの「星の王子さま」(ル・プチ・プランス)である。

サン・テグジュペリといえば、今はもはや故人で、七月三十一日が祥月命日に当たる。二十歳の頃から、航空に宿命的な情熱を傾けはじめた異常人だった。したがって、肉体を底の底までゆさぶった経験といえば、なん度とも数知れぬ搭乗機の不時着だった。見はてのつかぬほどまで拡がっている砂漠に向かっての激突だった。したがって「星の王子さま」は、ただの作家の作ではない。航空士といたいけな王子とが、一週間そこそこ、人間の大地を遍歴する記録ではあっても、つまるところは、人心の純真さを失わぬおとなの眼に映じた社会批判の書である。

正直なとこと、私は石井桃子さんを介して、はじめてこの作の存在を知った。そして作者の無類な人間価値が、作の経緯となっていることに気づくと、昼となく夜となく、翻訳の仕事を進めながら、一方では、リズムに綾どられた日本語の発見を楽しんだ。読んで読んで読み抜いて、この作の値打ちに浸り、社会批判のくだりで、自分自身の愚かさをつつき出されたあげく、それに苦しむほどの人には、私がこの作に心ひかれているわけを、たやすく察して頂けるだろうと独りぎめしている。フランス文学と日本文学との間を行きつ戻りつしながら、童心のいたいけさを解きほぐしたこの作のために、こうお心打たれることになろうとは、まったく思いもよらぬことだった。サン・テグジュペリのおかげで、私はすくなくとも、ただの理屈で自分を縛ることの悪さだけは、知ったらしいのである。この小著は、サン・テグジュペリの生涯を追いながら、同時に私の心の中に住む「星の王子さま」を探し求めた私の生活の反映である。
| | 23:50 | comments(0) | - |
庵 京町家再生プロジェクト
「美しき日本の残像」の中で、アレックス・カーが、当時の日本はまるでおとぎばなしの世界でしたね、と言って描いていたものを、実際につくりだしたのが、この町屋再生プロジェクトだと僕は思う。京都のグリッド、いわゆる洛中の中に、合計八棟の町屋を再生し、実際に泊まってそれを体験することができるこの企画は四年前に始まったのだという。その企画をはじめた株式会社 庵に行ってみた。



当初、不動産屋さんは町屋を再生して体験できる場所をつくるということに、まったく理解を示してはくれず、とにかく自己資金で三件の町屋を再生して始まったそうだ。



そもそも現在の日本の法律で、このような滞在型の古民家宿泊施設をつくることはとても難しい。通常、宿泊施設にする場合、スプリンクラーをつけなさいとか非常口の誘導灯をつけなさいとかいろいろと法律で定められたことを守らなければ営業許可が下りないわけだが、そうなると町屋としての良さが残らない。



そこで彼らは「一泊だけの賃貸者契約」として貸し出すことを思いついたところが素晴らしい。確信犯的に進めなければ、本質的なアプローチができないのだと思い知った。
日本の法律で滞在型の古民家宿泊施設をつくることはとても難しい。古民家を今の建築基準法に照らし合わせると不的確となるんです。古いモノはこわして建て替えろというのが、今の建築基準法の考え方なんです。安全を守るべき法律では悪いモノとしてとらえられてきてしまう。戦後に作られた法律がいまだに生き続けている。古い建物っていうのは今みたいに構造計算をしなくても、大工さんがカンでつくっていたすばらしいノウハウがあるはずなのにそれを数値化することができない。大震災が起きたときに古民家は崩れずに残っていたりすることが多いのに。
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http://www.kyoto-machiya.com/

「美しき日本の残像」アレックス・カー
http://tamachan.jugem.jp/?eid=337
| 日本の残像 | 11:50 | comments(3) | - |