tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
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鞆の浦
最近あまりにも出会う方々が強烈かつ、優秀で、濃密で、一回一回きちんとまとめることができないまま、また次の出会いがどかんと発生するというスパイラルになってしまっているが、とりあえず昨日は遂に鞆の浦に行ってきたので、そこらへんからまとめる作業をしようと思います。









http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/tags/鞆の浦/
| 瀬戸内な日々 | 02:39 | comments(0) | - |
インターネット・コミュニケーション
この記事は、すべての広告に関わる立場の方で、インターネットのコミュニケーションに関わる方に言いたい。

いまだかつて、僕自身の経験として、真の意味でのインターネット・コミュニケーションが出来ていたなと思える仕事は、空想生活のウェブサイトと、100万人のキャンドルナイトのウェブサイトだけです。それ以外はすべて作りきり、悪く言えば作りっぱなしだったと思います。
上記2件はいずれも、自分自身が主体として関わっているような関わり方の中で作った仕事でした。
既存の広告代理店や制作会社のビジネスモデルの枠組みの中では到底このようなクオリティに達することは難しく、その抜本的な方法は残念ながら、まったくわかりません。

結局自分自身が事業主体になるか、事業主体自身(クライアント)が自分で技術を身につけて作れるようになるしかないのだとまで思うようになりました。
事業主体者が本当に自分の事業がかけがえのないもので、専門技術を積極的に学ぶような姿勢がなければ物作りを専門業者に託すのではなくて、少しづつでも自分自身が自分の手でやっていこうと思う気持ちがなければいいものはできないと言い切れます。

そう考えると、自分自身もマス・コミュニケーションの概念をそのままインターネット・コミュニケーションの世界に移植、投入することを推進していた時期があることは否定できず、そのような考え方は、捨て去るべきだと確信しています。

客観視の視点が文化人類学的にも重要だと、いままで再三書いてきて、そういう意味では広告代理店や制作会社、それにコンサルティングという業種がなくなることはないとは思いますが。


しかし、よくよく思い出してもみれば、僕が言っていることはアルビン・トフラーの「第三の波」に書かれているプロシューマーのお話でした。

第三の波 プロシューマー
http://22nd.urume.net/2006,0131,431.html

アルビン・トフラーを初めて知ったのは、丁度10年前でした。原書は読んだことがありませんが、この本の内容にふれたことが、僕のインターネットとの関わりの原点かつ最も重要な出来事の一つであったと言えます。

それから着々と、トフラーの予言は本当に現実になっていくなと今日改めて思いました。

結局僕は「生産者と消費者が厳密に分かれた文明」というやつに嫌悪感を感じているのだと思います。少なくともインターネットにその概念がマッチしないのです。インターネット・コミュニケーションがこれから益々求められていく中、このようなことが今後問題として大きな日種になっていくことが、僕の目には見えるのです。
| 無意識の意識化 | 03:51 | comments(0) | - |
交通費2008
今年もよく移動したね。すべて仕事ではないので自費也。
移動することに無上の喜びを感じる。
きっとなにかお金では買えないものを得たんだろう、と思ふ。

1/12〜14 新潟・十日町 光の館と雪の越後妻有行き 上越新幹線6,490円x2
1/19〜20 熊本・高千穂・天の岩戸行き 全日空22,100円x2 + レンタカー10,000円
2/6〜7 岐阜・中津川合宿 東京〜中津川往復 東海道新幹線+在来線12,350円x2
2/23〜24 長野・志賀高原スキーツアー 参加費20,000円
3/19〜21 奈良・東大寺行き 東海道新幹線+在来線14,630円x2
4/28〜5/1 隠岐・海士町行き 全日空26,000円 + 高速船3,000円x2 + 在来線+東海道新幹線11,660円
5/4〜5/6 滋賀・高島里山かばたツアー 東海道新幹線13,520円 + レンタカー10,000円
5/9〜10 名古屋行き 東海道新幹線10,780円x2
5/24〜25 富士山・五合目ご来光行き 参加費20,000円
7/12〜13 長野・善光寺東山魁夷美術館・軽井沢星野温泉行き 長野新幹線7,970円x2
8/13〜16 岐阜・郡上八幡 郡上踊り行き 東海道新幹線12,350円 + 在来線3,570円 + 東海道新幹線13,520円
8/30〜31 京都・庵プロジェクト行き 東海道新幹線13,520円x2
9/6 茨城・笠間 春風万里荘・益子 STARNET行き 在来線特急4,140円x2 + レンタカー10,000円
9/26〜28 徳島・祖谷峡ちいおり行き 東海道新幹線13,520円x2
10/17〜19 倉敷・高松・祖谷峡ちいおり行き2 東海道新幹線10,780円 + 東海道新幹線14,570円
12/6〜8 亀岡 矢田天満宮・京都行き 東海道新幹線13,520円x2
12/20〜22 岡崎・吉村医院行き 東海道新幹線10,780円x2
12/27〜28 高松・鞆の浦行き 全日空26,000円 + レンタカー10,000円
12/29〜1/1 京都・神戸 有馬、六甲行き 東海道新幹線13,520円

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486,950円
| - | 02:54 | comments(0) | - |
本丸が陥落している件について sfc.keio.ac.jp
SFCのウェブサイトが先日リニューアルされて、大激論が巻き起こっているのが面白い。常々、SFC関係者の内輪話には気持ち悪いと思っていたけれど、今回ばかりはとても面白いことになっている。

http://www.sfc.keio.ac.jp/

このサイトの何が問題なのかは、OBの方々によるコメントに託したい。



つい昨日までは、いきなりFlash(http://www-new.sfc.keio.ac.jp/)が現れる状況になっていた。現在はFlash版/HTML版(旧サイト)にわかれて入り口を急遽設置している。



「いつから、SFCは教員だけのキャンパスになったのだろうか」と。 笑

要するに代理店の仕事の悪しき典型をやってしまったわけだけれど、それに対するOB、OG、学生その他からのフィードバックの早さが異常なスピードなところが面白い。そもそも代理店なり製作会社に頼まずに、OBと学生で作ればいいのだ。2000年より前のサイトは、全学生の個人サイトに実名でリンクが張られてたりしてものすごいオープンなところが良かったのに、年々どんどん悪くなっていく。

しかし本件におけるOB、OG、学生その他近隣関係者の反応の早さは素晴らしいものがある。いざ我らが本丸が危機ぞ、と思う自発的マインドはどこから来るのであろうか。他のキャンパスから見てもこのような反応は、ますますSFCのやつらは変だぞと思わせているのではないか。

この一連の出来事から垣間見えるのは、SFCに日本のインターネットのoriginがあるんだぞ!という強い意識と良い意味でのプライドを感じることだ。


今日はここからが本題である。

思えば10年前はウェブサイトをつくるっていうことは、たいした話ではなかった。そのことについては過去に一度書いたが、莫大なお金が動いたり、膨大な人手が必要な話ではなく、そこらへんの地べたにレジャーシートを敷いて、いらなくなったものを売っているフリーマーケットのような状況だった。まだまだインターネット回線が細く、故にデザインもへったくれもなかったが、インターネットを介した一対多のコミュニケーションが生きていたし、それに対応してフットワーク良くやりとりができたものである。

それが2000年のITバブルの後あたりからだろうか、ウェブサイトが急激に広告的に扱われ始めた時期がある。それまで紙の広告や映像媒体を主な戦場にしてきた人々が次々にウェブサイト製作事業に参入しはじめ、ブロードバンドの普及(しかし、これを様々な面で普及推進したのがまさにSFCの村井教授なのであるが・・・・・・)、Macromedia Flashによるリッチな表現技術と相乗効果を成すように、ウェブサイトによる広告ビジネスが発達した。この頃に台頭した製作会社は広告表現的に美しいヴィジュアルを持ったウェブサイト製作で高い評価を受けたり、それまでのマスメディア広告のビジネスモデルを導入することによってビジネス的に成功することができるようになっていった。我々は、だいぶ大人になった「気がしていた」。

しかしそれと共に、前述のインターネット的な良さがどんどん欠如していったのではないか。今回の出来事は、まさに従来のマス広告的な視点から制作したものであるように見受けられるのだが(にしてもひどい)どうもインターネットの本質を欠いているように思うのである。

インターネットというものは、そもそもの成り立ちにおいて、それまでのマスメディアとはまったく異なった思想と成り立ちを持って生まれた、まったく新しいメディアである。新規参入してきた業者はメディアの本質に対する意識が決定的に欠けていると思わざるをえないが、もはやそれを知らないでは済まされないのではなかろうか。

そのような経緯があって、SFCのウェブサイトがこのような状況になっていることは、本丸が陥落してしまっている状況なわけで、呆れるを通り越してもう笑うしかないのである。

それらを経て思うのは、メディアに関わる立場のものとして、インターネット・ネイティブ側としての視座がとても大事なのではないかと改めて強く思うことである。

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村井純
http://tamachan.jugem.jp/?eid=399
| - | 14:05 | comments(0) | - |
空が広いところにいると
ついついスーパーワイド写真を撮りたくなる。
いずれもクリックすると大きくなります。


2005年11月26日
東京都渋谷区 サステナ屋上(12階)東側からの夕焼けと新宿副都心と紅葉の代々木公園
約173度



2008年4月30日
島根県隠岐郡海士町 金光寺山(標高164メートル)からの夕焼け後の残照
約180度



2008年10月20日 
兵庫県淡路町 淡路サービスエリアからの明石海峡
もうすぐ雨が降ってきそうな天気の中で煌々と明るい神戸の港
約140度



2008年11月19日
東京都渋谷区 サステナ屋上(12階)西側からの夕焼けと富士山
この季節は丁度富士山の方角に太陽が沈む
約169度



2008年12月6日
京都府下京区 西尾邸マンション(9階)ベランダから五条通りから
京都タワー、東本願寺の大屋根を経て嵐山方面まで
五条通り以南はわりと高い建物がなにもない
約201度
| - | 16:41 | comments(0) | - |
最先端であることが僕らの仕事のあかしです
篤姫が終わった。回にもよるが今年はそうとう面白かった。毎年大河ドラマが終わると世の中が年末になっているとふと気付いて毎年のように慌てる。今年は本当に本当に大変な年だった。思えば正月早々落ちていた。死ぬかと思った。というか一度死んだような気分なので、もうなにが起きようが世の中がひっくりがえろうがもうなにも怖くなんてない。そんな勢いで企画・提案の日々が始まって、なんだかばたばたしている気がする。けどだからって心亡くすほど忙しくはないが。

りゅうが、もう何年も前に考えたネタばかり出てくるという。それはたぶん、あのとき考えたものが最先端過ぎただけのことだと思う。mixiにしてもblogにしてもその原点たるものは90年代の終わり頃のSFCには既にあった。ニコニコ動画も2002年の、とある研究室の研究発表で見たものとそう変わりない。

結局世の中というものは何年かおくれてやっとおいついてくるものじゃないですか。思いついたその瞬間は自分の中ではブレイクしていても、すぐには応用できなくて、技術もない。そう考えると、昔、思いついてまだまだやり残していることが山ほどあるのだ。最近なんの企画を考えていても、一度は昔考えたことが必ず出てくる。そしてあるときふっと、引き出しの奥底にしまわれていたものが引っ張り出されてくるように出てくることがある。だから去年あたり考えていたことはいずれきっと出てくる時がやってくる。

そんなわけで最近ちょっとブログの更新をする余裕がなくなっている言い訳としたい。

すこっちという、地方に可能性を見いだしつつある一人で、最近どこに行っても現れる妙にシンクロしたやつがいる。その彼が最近面白いことを言っていた。「師走というけれど、僕らの師ってのはだいたい誰も一年問わず走っているよね」って。よく言ったもんだ(笑)今日はそんな師が5人も集まって師走の会議。なんてリッチなんだ。そんな師走に、ようやく併走することができるとこまで帰ってこれたかなと。

しかし、ようやく走り始めたと思ったところでもう年末。金融危機と共に九月に壊れるものは全部壊れて、今年はまだ三ヶ月しか経ってないような気がするのですが。去年の11月以降に知り合ったことごとくの人たちは、最近までまったく働かない人だと思っていたようで、その変化にただただ驚かれるが、あなたたちが見ていたものはただの死体だったのですよ、と言いたい。
| - | 02:56 | comments(0) | - |
地球大学クリエイティブ 第4回 赤池学「なぜいまキッズデザインなのか?子ども目線で考える」
地球大学クリエイティブ 第4回 なぜいまキッズデザインなのか?子ども目線で考える
speaker:竹村真一氏×赤池学氏(ユニバーサルデザイン研究所 所長)
date & place:2008.12.10
新丸ビル エコッツェリアにて



なんていうか、プレゼンテーションしながら、泣きそうになって言葉をつまらせている人は初めて見た。というくらい情の厚い人なのだということが、文章からは伝わらないと思いますので書き添えさせていただきます。

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地球大学クリエイティブ&デザインの窓 過去ログ
水戸岡鋭治編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=487
廣村正彰編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=451
吉岡幸雄編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=266
鈴木エドワード編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=214
隈研吾編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=191
内田繁編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=167
面出薫編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=153
佐藤卓編 http://tamachan.jugem.jp/?eid=133
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| ログ | 16:16 | comments(0) | - |
亀岡天満宮


アレックスとのミーティングのために京都・亀岡にある彼の自宅の一つ「天満宮」に行ってきた。
神社の境内にあるこの家はもともと神主さんの家だったものが、大正時代から既に誰も住んでいなかったそうだ。

彼は政情不安定なタイからマレーシアのクアラルンプールまで国境を越えて日本に帰ってきたらしい。タイの王室のスタンスについて30分くらい持論を展開する。今回の空港封鎖の経済的ダメージがいかに国際的にマイナスイメージになってしまったかということを悔やんでいた。観光客はしばらく戻ってこないだろう。彼はなんだかんだいって、文化の側面から常に国のあり方についてまでトータルで考えている。



「この茶碗はカケているから安かったんだよ。完璧なものだったら何百万もするね」



ちいおりスタッフのpaul。ここにもスタッフが数人住み込んで主の帰りまで、家を管理している。



神社の境内だけれど、いろんな国の神様だったり、仏さまだったりが混在同居。神社の中にある家、というよりは神社付きの家と言った方が正しいのかもしれない。



ここは自宅なので基本的には公開されておらず、一部写真集が出版されている程度だけども、こういう場所で打ち合わせしたり、話を聞いたりできるのは一緒に仕事をするという大きなインセンティブだなぁと改めて思いました。
| 日本の残像 | 00:43 | comments(0) | - |
遠いからこそ、よく見える
今、宇宙がマイブームになっているというgreenzの兼松くんに連れられて、ザ・ムーン(原題:SHADOW OF THE MOON)の試写を見にアスミック・エース社に行った。試写を見たからにはなんかブログに書けというので書いてみた。

映画を見ながら、次の企画のコンセプトについて、ずうっと考えていた。そこでこれはいけるかもと思ったのが「人類の自己認識の歴史」について。

ものごとの真実は、より遠く離れているからこそ見えることがある。
飛行機は一個の機械には違いないが、しかし何という分析の道具だろう!
この道具は私たちに、大地の真のすがたを発見させてくれる。
機の窓越しに人間を観察することで、宇宙的尺度で人間を測り、人間の歴史をさかのぼって読むこともできるのだ。

人間の土地 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
サン=テグジュペリは飛行機というテクノロジーの最大の成果は、人類が空から地上を見渡すことで初めて得ることができる視点にあると明言している。

この延長線上に、ことごとく宇宙飛行士が揃って口にする言葉がある。
最初の一日か二日は、みんなが自分の国を指さした。
3日目、4日目は、それぞれ自分の大陸を指さした。
5日目には、わたしたちの目の写っているのは
たったひとつの地球しか無いことがわかった。

スルタン・ビン・サルマン・アル=サウド(宇宙飛行士)
ザ・ムーンはアポロ計画の話なので、彼は出てこないけれど、宇宙飛行という体験で得られる視点を最も端的に捉えた言葉だと思う。ガンダムにおけるニュータイプの存在は、このあたりのメタファーを解りやすく表現したものだと個人的に解釈している。

そして20世紀の天才的建築家がそのことを、最も上手に一冊にまとめた。
この宇宙船について私がとりわけ面白く思うことのひとつは、これがちょうど自動車のように、機械的な乗り物であるということだ。
私たちは宇宙船地球号を統合的にデザインされた機械とは見てこなかったわけだが、これが調子よく動き続けてくれるためには、全体を理解し、総合的に保守点検をしていかねばならない。
宇宙船地球号に関してはとりわけ重要なことがある。それは取扱説明書がついていないということだ。

宇宙船地球号操縦マニュアル バックミンスター・フラー
この、自己認識のプロセスはなにもテクノロジーに起因したものだけではない。最近、ことごとく日本の文化を発見する人は必ず外国人であるということに興味深く思っていたけれども、文化の距離があるからこそ、よりクリアに見えるのだ。
滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。

幕末から明治初期に来日した欧米人は、当時の日本の文明が彼らのそれとはあまりにも異質なものであったために、おどろきの眼をもってその特質を記述せずにはおれなかった。しかも、これまた文化人類学の定石通り、彼らは異文化の発見を通じて、自分たちの属する西洋文明の特異性を自覚し、そのコードを相対化し反省することさえあった。

逝きし世の面影 渡辺京二
コンサルタントと広告代理店の唯一の存在価値は、この客観的視点にのみあると前々から思っていたが、このように鏡に自らを投影するかのように他者によって自己認識されることで、さまざまな問題が補正されていくものだと思いたい。
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