tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
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京都に町家を借りました
五日間にわたる引っ越しと買い出しと電気工事を経て、やっと暖房と電気がつくようになりました。

照明を参考にさせていただいた、あじき路地の照明作家ムーランさん、食器、陶器の買い付けを教えてくださった技魯技魯の枝國さん、古美術骨董、全体コンセプトを参考にさせていただいた、アレックス・カーさん。ありがとうございました。

思い立ってから紆余曲折の二年くらいの間に、日本中で見て回ったものがどれだけ参考になったことかと思います。でもやっぱり手を動かしてみないとまったくわからないもので、満足できる状態になるまでにはまだまだ長い時間がかかりそうです。

ちなみにこちら、自宅ではなく、最大五人までのパーティーと、一泊最大二名までご宿泊いただけるゲストハウスということにしました。なんだかんだと東京にいることも多そうなので、不在中は副管理人ともやんがご招待させていただきます。













| kyoto kitchen | 19:16 | comments(4) | - |
芳名帳
めざせトイレ改修10万円!!
| kyoto kitchen | 23:23 | comments(2) | - |
風邪を引くというのは
風邪を引くというのは、全力で生きている証拠だなぁと思う。
精神的に死にかけていた去年は、虚脱状態のまま、体だけ取り残されているような感じがして、風邪をひきたくてもそこまですらもいけなかった。

それに比べたら、今はどれほどかマシかと。
あの恐怖に比べたら、もはやなにも怖いものはないと常々思う。
どんなどあほうなクライアントだろうが、
馬鹿野郎なプロジェクトの仕切りだろうが、
あれに比べたら、これっぽっちもたいしたことはないと思ってしまう。

などと意識朦朧としながら思う、引っ越し前日の京都でした。

そうそう。僕が京都に移住すると思われている方が多いですが
基本的には新しい事業のために来ているのであって
東京にも普通に居るのでよろしく。既成概念で見ないでください。いちいち説明が面倒です。日本の公共交通網万歳。
なにかを始める時は、住むくらいの覚悟でやらねばならんのです。いつも。
| - | 03:19 | comments(1) | - |
ありったけの革命的情熱をこめてきみを抱擁する
これほどまでに無垢な、読むものの心を惹き付けられる手紙があるだろうか。

フィデル・カストロとキューバ国民に向けて書かれた「別れの手紙」と呼ばれるこの手紙は、キューバ革命の8年後、もはや揺らぐことのないところまで政権が安定した後に、再びまた戦場へ向かおうとするときに書かれたものである。

おそらくかつてチェ・ゲバラの人生に触れたことのある人は、皆、必ずこの箇所で心の琴線に触れたのだと思うが、本日それに至った。奇しくもアメリカにて黒人の大統領が就任するという歴史的な日と重なったが、これを読んでしまうともはやバラック・オバマの大統領就任演説もどこか霞んで見えてしまうし、そのコントラストによって、より一層と鮮やかに見える。

この気持ちを忘れぬよう願って、ここに転載したい。

1965年10月3日、キューバ社会主義革命統一党はキューバ共産党と改称した。カストロは、演壇に立ち、つぎつぎに中央委員を指名していったが、そのとき、この席上に当然いなければならぬ同志がひとりいる、それはチェだ、といった。会場から起こった拍手が静まるのを待ち、カストロはポケットから一通の手紙をとり出して読みあげた。

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ハバナ、農業の年
フィデル

 いまこの瞬間に、ぼくは多くのことを思い出している。マリア・アントニアの家で初めてきみに逢ったときのこと、ぼくに一緒にこないかと誘ってくれたときのこと、そして準備をすすめているときのあの緊張の全てを。
 ある日、死んだ場合には、誰にしらせたらよいか、と訊かれたことがあった。そして、そういう現実の可能性に、ぼくらはみな衝ちのめされてしまった。その後ぼくらは、それがあり得たことで、革命においてはーーそれが真の革命であればーー人は勝利を得るか死ぬかだということを学んだのだ。多くの同志が勝利にいたる道程で倒れてしまった。
 今日ではあらゆることがさほど劇的には感じられないが、それはぼくらが成熟したからで、現実は繰りかえされているのだ。ぼくはキューバ革命において、その地でぼくに課せられた義務の一部を果たしたとおもう。で、きみに、同志に、そしてきみの、いまはぼくのものでもある国民に、別れを告げる。
 党指導部における地位、大臣の地位、少佐の位階、キューバの市民権を、ぼくは公式に放棄する。法的にぼくをキューバに結びつけるものは、もう何もない。といっても、辞令を出せばできるようにはあっさりと断ち切ることのできぬ種類の絆は残るが。
 過去を振り返ってみると、革命の勝利を不動のものとするために、ぼくは誠実かつ献身的にこれまで働いてきたと信じている。ぼくになんらかの誤りがあったとするなら、それはシエラ・マエストラの初期のころ、きみにじゅうぶんな信頼を置かなかったことと、指導者ならびに革命家としてのきみの資質をさほど早く理解しなかったことだ。ぼくは素晴らしい日々を生きてきた。そしてカリブの危機の輝かしくも苦しい日々に、きみのかたわらにあって、わが国の国民であることを誇らしく感じたものだ。
 あのころのきみよりも偉れた政治家なんていないだろう。そしてまた、ぼくはきみに躊躇なく従い、きみの考え方を身につけ、ぼくらが置かれていた危険や原則を理解し評価したことを誇りにしている。
 いま世界のほかの国が、ぼくのささやかな力添えを望んでいる。きみはキューバの責任者だからできないが、ぼくにはそれができる。別れの時がきてしまったのだ。
 喜びと悲しみのいりまじった気持で、こんなことをするのだ、と察してほしい。ぼくはこの地に、建設者としての希望のもっとも純粋なもの、そしてぼくがもっとも愛している人々を残して行く・・・・・・またぼくを息子のように受けいれた国民からも去って行く、それはぼくをとても悲しい気持にするのだが。ぼくは、新しい戦場に、きみが教えてくれた信念、わが国民の革命精神、もっとも神聖な義務を遂行するという気持をたずさえて行こう、帝国主義のあるところならどこでも戦うために、だ。それがぼくを慰め、深い心の傷を癒してくれる。
 繰り返すが、これまで模範であったことから生ずる責任を除いて、キューバにおける一切の責任から解放されたことをいいたい。もし異国の空の下で最後の時を迎えるようなことがあれば、ぼくの最後の想いは、この国の人びとに、とくにきみに馳せるだろう。きみのあたえてくれた教えやお手本に感謝したい。そしてぼくの行動の最後まで、それに忠実であるように努力するつもりだ。ぼくは、わが革命の外交政策にいつだって自分を同化してきたし、これからもそうであり続けるだろう。ぼくは妻子には何も残さなかった。それを後悔するどころか、むしろ満足している。国家がかれらの必要とするものや教育をあたえてくれるだろうから、ぼくがかれらのために求めるものは何もない。
 きみやわが国民にいいたいことは尽きないのだが、その必要はないようだ。言葉はぼくのいわんとすることを表現できないし、これ以上は紙をよごすに値しない。
 永遠の勝利まで。祖国か死か。
 ありったけの革命的情熱をこめてきみを抱擁する。

 che
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カストロのしゃがれぎみの声がチェの手紙を読みあげる間、人々の視線は、壇上の列の中にあるアレイダ・マルチに注がれた。

「フィデルがチェの手紙を読みあげたとき、テレビカメラは、黒い服をまとったチェの奥さんの姿を映しました。その瞬間、わたしは涙があふれてくるのを抑えることができませんでした」
(ホセ・イグレアシス「キューバ革命の拳の中で」より)

チェ・ゲバラ伝 三好徹 1971年 P.241-243 P.260
| - | 00:16 | comments(1) | - |
地球大学アドバンス 第14回 藤田和芳「日本のスローフードの先駆者」
地球大学アドバンス 第14回 藤田和芳「日本のスローフードの先駆者」
speaker:竹村真一氏×藤田和芳氏(大地を守る会会長)
date & place:2009.01.15
新丸ビル エコッツェリアにて

大地を守る会はとても土のにおいのする会社なのに、創始者である藤田さんは、常々、風のような人だなと思います。

今回はその独特の語り口を音声で聞いていただきたかったので、録音してきました。
http://www.sustena.org/tama/mp3/20090115_fujita.mp3(02h18m23s)146MB

実はこの会があった前夜、直接、藤田さんや竹村さんと話をする機会があり、そのときにカストロとゲバラについて聞いたことが、以下の内容なのですが、まさかそのような認識でいたとは思わず、ただただ驚くばかりでした。
藤田
1960年代当時、キューバ革命というのは、革命の亜流であって、本流はマルクスでありレーニンだと思っていましたね。カストロとかゲバラの話は知っていましたが、今回キューバに行こうと思ったのは、なんだかあっちが有機農業で盛り上がってるらしいぞ、と聞いたからなのです。

ほんとここ最近になって彼らの功績について本当の意味での理解をしつつあって、あの当時から既に多様性のある社会作りをしていたんだなあということを知ったのです。
今なぜカストロでありゲバラなのか。9.11を経て、金融危機を迎えて今本当に幸せとはなんなのかを問われつつある今だからこそ、彼らの功績が意味ある時代なのではないかと理解し、またそういう生き方に触れる良いタイミングであったんじゃないかなと思いました。

(22,230字)
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| ログ | 00:05 | comments(3) | - |
世界で一番格好良い男


何も考えずにただ本屋に行っても読みたい本など見つかるはずもないが、なにかを追いかけていると必ず読まなければならない本が現れるものだ。今回現れた主人公はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ 23歳。医者の卵だ。1952年にブエノスアイレスを出発し、10000kmの貧乏旅行の旅を始めるところだ。6ヶ月の旅の間南米大陸で起きている事実を目の当たりにし、偶然にもいざなわれたこの旅の終着点であるマイアミで見ることになるアメリカ資本主義の反映ぶりが、彼の終生の宿敵となる。

彼らがその6年後に、地球の反対側で起こした革命について、いままであまり興味が無かった。物理的な距離からだけでなく、共産主義革命などもう10数年以上前にある一定の結論に達して終わったことだという程度にしか捉えていなかったのだが、冷戦の時代、アメリカに対するものはただひとくくりにして、ごっそり共産主義であったわけではなかったのだ。

今、時同じくして劇場映画公開のタイミングにぶちあたったようだけれど、まだ見ていないし、それを宣伝したいとは思っていない。ゲバラを教えてくれたのは日本画家の大竹寛子ちゃんだったが、それ以前に、いつだったか酒の席でゲバラについて熱く語り聞かせてくれたのは、学生運動の闘士であり、今は大きな八百屋を経営している、大地を守る会の藤田会長だった。いつか知らなければならなかったことなのだが、このタイミングで出くわした偶然に感謝したい。

ジョン・レノンに「世界で一番格好良い男」と言われたゲバラの人生は、革命家が陥りがちな独裁者になることなく、一生革命家であり続け、純粋に革命家として死ぬことができた希有の例である。日本一格好良い男として有名な白洲次郎も真っ青な経歴だ。

彼らの運動は結果として世界中に反体制運動の大きな大きなうねりを生み出すことになる。1967年10月、ボリビアの革命戦争を指揮していた彼は、ボリビア政府軍に捉えられ射殺されるのだが、彼の死んだ翌年はまさに世界のターニングポイントであった。パリのカルチェラタンでは労働者による五月革命が起こり、泥沼化していたベトナム戦争ではついにニクソン大統領が北爆を停止せざるをえなくなっていた。キング牧師は暗殺されて黒人運動は怒りの絶頂に達していた。日本も激動に揺れつづけていた。学生運動はいわゆる全共闘時代のピークにさしかかっていて、大学はのきなみバリケードで封鎖されていった。そんな中で、チェ・ゲバラは世界中の反体制運動における強烈なシンボルになっていった。

前述の藤田氏はまさにその渦の中に居たわけだ。彼は最近キューバに行くと言っていたけれど、砂糖の買い付けにでも行ったんだろうか。はたまたカストロに会いに行ったんだろうか。意地でもついて行けばよかったと思いつつ「いつかパレスティーナに連れていってくれる」という約束は大事にとっておこうと思う。

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モーターサイクル・ダイアリーズ 2004年/イギリス=アメリカ合作
チェ・ゲバラ伝 三好徹
Wikipedia - チェ・ゲバラ
| - | 18:30 | comments(5) | - |
今、いちばんやりたいこと


2007年8月11日に行われた、とあるイベントでの自己紹介シートに、今、いちばんやりたいことについて、こんなことを書いていた。

・京都に町家を借りること
・そこで料理をつくってふるまうこと
・その料理を盛りつける器を買い集めること
・その家で日本画を書いたり書を書いたり手紙を書いたりすること
・その家から歩いて5分以内に辿り着ける鴨川で本を読んで過ごすこと
・日本の中で、まだ隠れた文化スポットを探り当てて取材すること
・そんな中から発見した要素を自分のクリエイティブワークに転用すること

それを書いた数日後に、それらをすべて止めてしまったけれど、それから一年半経って、いままたそこに戻ってくることがあろうとは思ってもみませんでした。
| - | 01:27 | comments(1) | - |
あなたのコンピュータが3倍速くなると聞いたら

クリックすると原寸サイズになります

来るべき激闘の2009年に向けて、メインコンピュータであるMacProをアップグレードしました。

あなたのコンピュータが、6万円の出費で3倍速くなると聞いたら投資できるだろうか。僕が仕事で主に使っているMacProは、2.66GHzのCPUコアを4つ持ったトータル10GHzもの計算ができるすぐれものなのだが、それでも「とある部分」の速度限界のために、コンピュータの速度にもたつきがあって、前々から困っていたのでした。

コンピュータの速度を遅くさせている原因、それがハードディスクなのである。思えば15年も前は、フロッピーディスクをいちいちがちゃがちゃと入れ替えねばならなかったものが、ハードディスクの登場のおかげでずいぶん楽になったものだった。しかしその便利なハードディスクも、物理的に内部で円盤が回転しているために、どうしても速度の限界があるのです。

そこで近年登場しつつあるのが「SSD」(ソリッド・ステート・ディスク)だ。SSDは、ICチップによってつくられた記憶媒体なのでハードディスクやCD-ROMのように、回転する部分が無いため劇的に速度が速くなる。具体的には、いままで使っていたハードディスクが1秒間に70MBのファイルを読み込みできたのだが、一般的に販売されているSSDでは、1秒間に150MBのファイル読み込みができる。つまり2倍ちょっと速くなるのである。ファイルの読み込みというのは、コンピュータを使う上でありとあらゆるところに関係することなので、体感速度に密接に関わってくるのだ。

そのSSDを、上記MacProに使ってみたら、どれだけ速くなるんだろうかと夢見てきて、遂にそれを決行してみることにした。そこで買ってきたSSDが秒間230MBの読み込みができるというものである。つまり従来比3倍ちょっとの高速化になるのである。その結果、Photoshop CS3が約3秒程度で起動される鬼のようなコンピュータが完成したのでした。

このSSD。発売当初は64GBのものでも10万円以上したものが、現在では128GB(150MB/秒)のもので2万5千円程度で手に入る。ノート型コンピュータでもかなり容易に交換ができるため、だいぶリーズナブルな高速化ができる状況になりつつあるのではないか。
| - | 01:14 | comments(0) | - |
スタジオジブリと鞆の浦を繋いだ人


年末、鞆の浦を訪れ、反対運動推進派のNPO「鞆まちづくり工房」をやられている松居さんにお話を伺ったところ、次の裁判で開発取りやめの方向になりそうだと聞き、既に事は決着を見ていたのでした。結局は大ヒット映画の舞台となった景観を破壊するのはいかがなものかと国会でも話し合われる事態になったことが、そのような結果になったのではないかと松居さんは言う。

その、大ヒット映画をつくったスタジオジブリと鞆の浦を繋ぎ、結果として「崖の上のポニョ」が生まれるきっかけを作ったのはこの人だった。

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ピース ウィンズ・ジャパン 大西健丞
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_20060307.htm

埋め立てのピンチにある“崖の上のポニョの海”こと鞆の浦に遊びに行ってみた
http://greenz.jp/2008/10/21/tomonoura/
| 瀬戸内な日々 | 23:20 | comments(0) | - |
今年の年越しは京都に居りました


鞆の浦から一緒の慶應大学の研究員、すこっちと、こゆりーと。京都でどっかで紅白見れないかなと思って、行きつけの温泉「さがの温泉 天山の湯」に、いつものようにおりました。ところが年末年始はテレビが見れないようになっているじゃないですか。そこでワンセグで紅白歌合戦を見始めたのがそもそもの始まりでした。



今日は大晦日ということで早々九時で閉館。ポルノグラフィティが登場したとこで時間切れで追い出される。別に店員さんはなにも言ってきませんでした。



久石譲登場。とりあえず僕らは嵐山の手前にある有栖川の駅前からバスに乗ってみたのでした。大晦日のこんな時間にバスに乗る人などまったくおらず、車内は貸し切り状態。



エンヤ登場。地球の裏側アイルランドとの中継。こちらは西大路四条付近通過。すこっちはMacBookAirで論文提出間際。こんな日に締め切り設定をする村井純という人はなんて容赦のない人なんだろう。



Perfume登場!すこっちが言うには、これを見るためにわざわざ紅白を見ていたんだというここ一番という盛り上がりのところでバスの終点、京都駅に到着。



アフリカ人の演歌歌手ジェロ登場。お母さん号泣しつつも、こちらは京都タワーを前に見知らぬタクシーの運転手さんにピースされた 笑



京都タワー下のスターバックスにて今年の飲み納め。怪訝な顔をされながらコーヒーをサーブされる。SPEED登場。



そもそも今年の年越しは、京都・二年坂にあるカフェ「六感堂」ですごそうという企画だったのです。ここでタクシーに乗り換え。

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24歳女性監督が、京都・二年坂でミニシアター・カフェスペースをオープン準備
http://d.hatena.ne.jp/ytsutsui/20080721/p1



二年坂の入り口、高台寺前に到着。徳永英明とMKタクシー。



レイニーブルー。まさに今日の京都はそんな感じの天気。



五木ひろしが出てきたところで「六感堂」に到着。



しばし作戦会議。ここらへんでカウントダウンといえばやっぱりあそこしかないでしょう。



カウントダウンに向けて出発。今年の紅白歌合戦も最後の曲となりました。氷川きよし。「きよしのズンドコ節」



「ゆく年くる年」が始まったちょうどその頃、清水寺の入り口に到着。目指すはNHKの取材カメラ。もちろんゆく年くる年に映るためである。



さん、にー、いち!あけましておめでとうございます!2009年、まさかこんなかたちで迎えるとは思ってもみませんでした 笑。



あれがゆく年くる年の取材カメラであります。ちょっとはテレビに映っただろうか。

すこっちさま、こゆりーさま、にぴおさま、ともやんさま、ともやんの友人さま、大変お疲れ様でした。京都のみなさま、大変お騒がせしました。
| - | 11:18 | comments(1) | - |