tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
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生々流転


生々流転。いや、ちょっと意味は違うけれど、流転しています。まさか在東京三〇時間足らずで京都に戻ってくることになるとは、思いもよりませんでした。

思えば昨日、ふとしたきっかけで地球大学を見に丸の内のエコッツェリアに行ったのが始まりでした。そこで竹村さんと対談していた赤池学さんが水のプレゼンテーションの中で横山大観の生々流転を引用していた。

大気中の水蒸気からできた一粒の水滴が川をなし海へ注ぎ、やがて蒸発して龍となり天へ昇るという水系の循環を、四〇メートルにもおよぶ長い長い巻物に水墨で描いた作品なんだけれど、これが一九二〇年代のフランスの国際博覧会に出展したと。横山大観はその日本ブースも日本家屋を移築して、当時日本から、建具職人から、左官職人から、みんなつれていくなんてことをしたらしい。



さてさて。そんな久しぶりに会った竹村さんに「そういえば明日、京都の唐長に行くんだよ。前、なんか唐紙の話してたよね?明日京都にいる?」なんて言われたもので、五秒くらい悩んだ末に、京都に戻ることにしたのでした。こういう流れには乗らねばなるまい。



そこでやってきた京都・丸太町の唐長さんのサロンでプロデューサーのトトアキヒコさんと千田愛子さんに見せていただいた唐紙作品の数々は、ここ二年ほど、伝統文化の枠を超えて、芸術作品として唐紙を表現していこうとしているものだった。



竹村さんは、先日ヨーロッパからの帰りに、トランジットで一時滞在したカタールのドーハで、丁度その日オープンした、イスラム美術館(Museum of Islamic Arts)に日本とカタールの親善友好として、触れる地球を贈ることを考えていたときに、丁度唐長さんからコンタクトがあったらしい。シルクロードを通じて千年以上前から、同じような唐草模様がイスラムにもあるし、唐紙は日本からのギフトとして最高のものではないかという。



触れる地球と唐紙でなにが生まれるんだろうか。

「それにしても不思議なご縁だよねえ。こういう巡り合わせを生み出している神様がいるんだと思うんだよね。っていつも思うよ」と。見学後、大学に向かうタクシーの中で言っていたのが印象的だった。



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www.flickr.com|2009.07.28 唐長サルヤマサロン
http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/sets/72157621874585670/
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blog 改装計画中


そもそも、このブログは2003年、23歳の時に10年後の自分自身を見据えるために書き始めたものだった。今日現在、601個の記事が時系列の連続的な小宇宙を成している。2005年にスティーブ・ジョブズの伝説のスピーチを聞いた時に、大変共感する箇所があり、以来、ヘッダー部分に「CONNECTING THE DOTS.」というコンセプトを掲げることにしたのだった。具体的には以下の記述の通り。
もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

12.june.2005
the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
現在の一般的なブログは、時系列による並び替えしか情報管理手段が無い。なのでこのコンセプトを具体化できるインターフェイス・デザインを、合間を縫って考えてきた。

僕はとても記憶力が悪い。記憶を外部化しておかなければ忘れてしまう。本気で人と話をしているときに自分のブログを参照したりするくらい。そんな僕の思考体系やキャリアプランニング思考をそのまま顕在化させたものが、ブログの設計思想にある。


そんなこんなの最近、京都のみんなが10年未来の自分のシナリオライティングをしている。それは確かに一つの未来を見据える手段として提唱されている手法である。だけどしかしはたして10年先など見越せるものだろうか?触発されて書こうと思ってみてもなかなか難しい。常に未来は刻一刻と変化し、意志決定するための環境が変化してゆく。

遂に子供でいられなくなったと実感する今日この頃。29歳と8ヶ月。こちらはやっとこさ今年の年末が見えてきたところで、とりあえず残りの4ヶ月で達するであろう悟りの一つが、うっすら見えつつある感じ。

なんか20代って、10代より確実に大変だった!そういうもんなんだろうか・・・?16歳から22歳はひたすら大人達を真似て背伸びの日々だった。がむしゃらに大人達から与えられて吸収するだけだった。23歳から今年までは自分自身がものをかたちにして一人前になることでせいいっぱいで、周りなんかまともに見れていなかった。これからは、与え、併走し、周りを見て進むことを求められてきたときに、身近にワークショップ手法に長けた仲間達がいることが大変有り難い。


いま、こうして過去にインプット、アウトプットをしてきたものを並べてみると、点は線となって繋がってゆき、そして2013年には、2003年に到底想像もしえなかった結果に結びついているのであろう。あのときドロップアウトしていなければ、あのとき半年近くも身も心もボロボロになっていなければ!本当に神という存在がいるのだとしたら、彼は本当によく素晴らしいタイミングで、役者と複線と試練とご褒美を用意しているものだと思う。人生ってのはほんと、RPGのようなもんだと思います。

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2009.06.09 人生ってのはRPGのようなもんだ
http://tamachan.jugem.jp/?eid=574
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「夢」の中に住む
京都・亀岡へ、アレックス・カーにあらゆる日本の伝統芸能を教えたという沢田先生に会いに行った。亀岡までの電車の車中、改めて「美しき日本の残像」を読み直して、二年前に自分が引っ張った赤線をいくつか発見する。



夢は「夢」であって、決して今現在においては現実ではないんだけれど、その妄想していて、ただ今の現実を知るまでの一瞬に見えたものは、現実を見た瞬間に決して打ち消してはならなくて、夢として持ち続けなければと思う「夢」。

なんか、そういう「夢」を目指して、今年の一月に一歩踏み出したのに、忘れかけている自分が悲しかった。なんだけど、同時に亀岡の駅前の田園風景を見ていて、初めて天満宮に行ったときの興奮とか、勢いとか、いろんなものがないまぜになって出てきた。

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美しき日本の残像 P.138

天満宮に入って、神戸に住む一七歳のイギリス人の娘ディアンが一緒に住むようになりました。彼女は子供の頃から神戸に育った金髪の「神戸っ子」で、日本語は多少ラフとはいえ、大変流暢でした。少女漫画に出てくる妖精のような美女で、エドガー・アラン・ポーの世界に憧れていました。天満宮の暗いぼろぼろの雰囲気を非常に楽しんだのです。しばらくの間は腐った雨戸も直すことができずにいました。座敷と奥庭を仕切るものは何一つなく、ずっと開いたままでした。夏の夜には蚊や蛾が無数に飛んでくる。そのため座敷には蚊帳を吊って、その中で寝ていました。蚊帳の内側に行燈を置いて、ディアンは昔のキセルを口にくわえながら本を読んでいました。それは本当にポーのイメージの世界でした。天満宮の暗闇の中に浮かぶ蚊帳の真っ赤な絹のへり。行燈の光が薄緑の麻を透かして照らすディアンの頭のシルエット。へたな時代劇のような環境だったけれど、時間が止まったような優雅な暮らしではありました。寝る前には蝋燭一本を立てて縁側に座って、蜘蛛が庭に巣を張っているのをじっと眺めながら、二人は音楽を聞いたり、人生や恋愛のことを話し合ったりしました。


DianとAlex。1970年代だと思われる。

今から考えると、七〇年代の後半は時代としては一つのターニング・ポイントだったと思います。僕とディアンと外人の友達の多くは昔の日本の「夢」の中に住もうとしていました。当時はその「夢」を信じることはまだ可能だったのです。

八〇年代に入ってから亀岡は(日本の国土全部もそうですが)すっかり醜くなり、僕たちの「夢」はどこかに蒸発してしまいました。当時でも僕たちの行動は一風変わっていたのでしょうが、しかしどこかに真実味があったような気がします。今もし僕たちが着物を着て、昔の日本の風流を演じようとしたら、現在ではあまりに周囲とかけ離れてしまうので、ばかばかしくなり、できないと思います。ディアンの手蝋燭の「夢」の姿はずっと僕の心の中に残っています。

着物と蝋燭の「夢」の時代は終わったとはいえ、天満宮には今も独特の世界が残っていると思います。それは実に簡単なことです。つまり、自然です。東京や海外から天満宮に帰る度に自然のサイクルが少しずつ回って、面白い自然現象が僕を待っています。昔の暦には「清明」「白露」「啓蟄」などと呼ばれる「気」がありますが、そういう「気」を一つ一つ楽しむことができるのです。

もちろん天神さんですから春先には梅の花が咲きます。そのあとは次々に桜、桃、つつじなどが咲きますが、僕が一番好きな時期は五月の終わりからと六月の初め頃です。周りの田んぼで蛙がケロケロと協奏曲を奏で、東京から電話した友達はびっくりして、「電話線からも蛙の声が聞こえるヨ!」と言います。そして、ある晩、一匹の蛍が庭に飛んでくる。そんな時、友達と一緒に川縁まで下りて行き、漆黒の闇の中に静かに立ちます。まもなく谷間の茂みから無数の蛍がふわーふわーと湧き出てきます。梅雨になると小さい緑色の雨蛙がいっせいい家を襲ってきます。エメラルドの玉になり、跳んできては木や葉っぱの宝石飾りになります。蓮は咲くし、雨はポトポトと寝室の屋根の上に気持ち良く降り注ぎます。梅雨の中の眠りは一番です。夏には子供たちが滝の縁に泳ぎに来ます。その滝はちょうど座敷から眺めることができるので、裸で泳ぐ子供の姿が「エデンの園」みたいで、実に愉快な風景です。泳ぐ子供の上に山の雑木林が風に吹かれて、上空には鳶が広い羽を伸ばしてゆっくりと飛んでいます。そして夏の終わりにの嵐(ディアンは特にそれが好きでした)、秋の赤い紅葉、黄色い銀杏、ルビーのような南天、最後に残る柿の実。冬になると樹氷現象が時々起こりますが、朝起きると庭の芝生の一本一本が朝日の中でダイヤモンドに輝きます。雨蛙のエメラルド、雪のダイヤモンド、南天のルビー、これは天満宮の宝石箱です。

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の橋本さん、篪庵の村松さん、ポール、天満宮のニモさん、書道の沢田先生、秘書の森田さん、今日うちに来た庵の横山さん、それにあの「犬と鬼」の膨大な裏付けデータを用意した、ボーディ・フィッシュマン。アレックス・カーの周りに居る彼らに共通する不思議なものがある。この現代にしては、大変いいものを見ている人たち、いいものというか、いい「夢」を共有している人たちだなあと改めて思う。

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美しき日本の残像
http://tamachan.jugem.jp/?eid=337

多くの日本人は今 -終戦- を待ち望んでいる「犬と鬼」
http://tamachan.jugem.jp/?eid=342

庵 京町家再生プロジェクト
http://tamachan.jugem.jp/?eid=441

アレックス・カーの桃源郷「篪庵」
http://tamachan.jugem.jp/?eid=452

[Portfolio] 篪庵 chiiori.org
http://tamachan.jugem.jp/?eid=531

沢田先生とアレックスの合作「明珠在掌」
http://tamachan.jugem.jp/?eid=545
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祇園祭二〇〇九 宵山
去年はちょっとそれどころではなくて、存在すら忘れていた祇園祭。今年はちょっと縁があって鉾に登ってみた。



鉾に登ること自体はお金を払ったらいくらでもできるんだけれど、来年こそは、お祭りの主催側に入ってみたい。京都に居て、見てるだけって、なんか阿呆だ。祇園祭を一年に一度コスプレして買い食いの日にしちゃってたら、単なる消費者だよね。お祭りの形骸化された部分にだけ接触してるのは阿呆であると、なんかまぁそんなことを思った。ちょっとでもやってる側に関わっとくと、見える世界がだいぶ違うわけで。



そんなことを思う背景には具体的なイメージがある。自分の子供が、コンチキチンってお囃子やってたらいいなって。というか、自分自身がそういう思い出が欲しかったなって。まぁ本人がやりたくなかったらいいんだけれども。

お正月におばあちゃんちに行く、みたいなのがとても鮮烈に記憶に残っている。僕の父方の家系は、そういう大晦日の集まり的な行事があったのだ。今、お正月に実家に顔を出しても、あまり行事らしい行事ではないことに、大変違和感を感じる。そういうことに意味を見いだせない親の世代なんだろうけれど。そういう記憶がないまま大人になった世代って、なんかそうとう恐ろしい。



いやぁまぁざっくりいっちゃえば、経済的メリットが無いものが、多様性を担保できなくて淘汰された結果の一つの現象なんだろうけれどさ。それをひとことで「つながりの欠如」とか言いたくないよね。偽善ぽくって。

それって結局は地域との繋がりを意味していて、土着を意味していて、そういうものから解放されようとした、前の世代と、真っ向から逆行する概念なんだよなぁきっと。地域のお祭りが残ってるということの凄さを、ちょっとなんかいろいろ思い出した今日。実際京都にいると人がワラワラいるとこにわざわざ行くことに大変億劫になっていたけれど。土日の渋谷新宿を歩くこととはワケが違うのは当然なのだ。











www.flickr.com|2009.07.16 祇園祭二〇〇九 宵山
http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/sets/72157621560276446/
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匿名インターネットの時代はもう終わりにしよう
最近、いろいろなプロジェクトがいっぺんに動き出した感がある。2010年に瀬戸内海の7つの島と高松市を舞台に、2開催される「瀬戸内国際芸術祭2010」に合わせて、トライアスロン大会をやろうという企画、その名も「瀬戸内国際体育祭2010」を、2010年10月10日に開催しようとしているともちゃんのお手伝いをしている。そんな中で、今年つくっているウェブサイトは、必ず顔が見えるようにしている。



http://www.setouchi-sportsfest.jp/

今年は実質、顔が見えるウェブサイト元年だ。いや別に誰が言ってるわけではなく、勝手にそう思ってるだけだけども。実名、実写真で情報公開することを怖がる風潮があるけれど、実はそっちの方が攻撃されたりしないのだ。実名に対して匿名でいちゃもんをつけてきた場合、それはもう単なる卑怯でしかない。そんなもの、削除してしまって大いに結構。

匿名インターネットの時代はもう終わりにしよう。そして、mixiのようなクローズドなポータルが無くてもネット上のさまざまなシーンで、実社会と直接繋がったコミュニケーションが生まれるようになる。そこにまもなくtwitterが加わるのだろう。一見ブログの代替品のように認識されているtwitterは、実は文脈に合わせて可視化することでその進化が発揮されるのではないかと思い、密かにワクワクしているのだが。
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マエキタミヤコのsustena日記

Photo : 小山薫堂×マエキタミヤコ×大森功一×宮島達男シンポジウム。国立新美術館にて

毎日毎日持ち込まれる相談と、講演と、大学での講師に忙しいマエキタさんが、日々なにを見ていて、なにを考えているのか?サステナのスタッフですらまともに見えていないであろうそんなマエキタさんの日常を、定期的に追跡してインタビューし、この「マエキタミヤコのsustena日記」に掲載するということをしてみよう!とふと思い立ったのでした。次回はいつになるかわかりませんが、定期的に続けていけたらと思います。

interviewer : tamachang

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- マエキタさん最近なにやってるの?

大地を守る会が「コメニスト宣言」ってのをする。もっと日本のお米を食べようってことなんだけど、辻さん(辻信一さん)が言い出したっていうんだけど、コミュニスト(共産主義者)じゃなく「コメニスト」になるのが大事なんじゃないかってとこが面白いよね 笑。全国が連帯する必要なんじゃないかと。米本位制。仕事の対価がお金じゃなくて、お米で支払われると。全部じゃなくて、一部でもね。そういう地域通貨的なところもある。

- お米ってたくさん食べてるような気がするけれど

実はいまってお米の消費が少ないのだ。たくさん食べてる気がするでしょ。うどんとパンとお米で外国産のものが増えているということ。米の消費は40年前の40%に激減している。そのぶん油と穀物の飼料が増えた。

- そういえば最近、庄内に通っているらしいね

そうそう。最近、私が勉強していることは主に

庄内と薩摩。武士道。第二開国。ダイアローグカフェ。入り会い権。について。

旧庄内藩の一八代当主酒井忠久さんという人がいます。150年前に廃藩置県になってるんだけど、島津さんとか、毛利さんとかと、年に一度藩校サミットってのがあるって話を聞いて。江戸時代に庄内藩には「致道館」(ちどうかん)ていう藩校というあったの。荻生徂徠の「徂徠学」(そらいがく)ってのがあって、クラスが上に上がってくると教師は教えすぎないってのがあってね、小集団討議って学問であると。だからダイアローグ会議ってのをやろうと。ピッタリだねって。

- それがマエキタさんのいままでの活動にどう結びついてくるんだろう?

来年COP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が名古屋であるでしょう。日本てものすごく生物多様性が豊かなのよ。それに今頃みんな(外国の人たち)がびっくりしているわけ。新渡戸稲造の「武士道」って、女の人の項目もあるんだけど、ほとんど書いてない。「武家の娘」っていう本があるらしくて、それは武士道の女版みたい。海外に行った武家の娘が英語で書いたの。

武士道の女性版てのが必要。明治維新て中途半端なのよ、ちゃんと着地していない。だから完結させなくてはならなくて。男はやる気がないからできないから、女の人たちでそれを完結させて次へ行かないと。生物多様性と平和構築をやっていて気が付いた。あるべき日本の姿を討議する自由討議の場を庄内につくれないかと思っている。情報発信するのかしないのかっていうところはおいておいて、まずは知識を共有しようってところなんだけど。

- 庄内と、薩摩って単語が出てきたと思うけど、明治維新のときに繋がりがあったんだ

西郷隆盛と庄内の関係が大事なの。庄内の人には「西郷隆盛は征韓論なんて言うわけないんですよ」って言われた。西郷隆盛が死んで、大久保利通が死んだ時点で明治維新は止まっているのよ。止まっているというか。

西郷隆盛は一回自殺未遂をしている。お坊さんと入水自殺しようとして、自分だけ生き残っちゃった。すごい平和主義者で、筋を通す人だった。で、庄内ってのはすごい強かったんだって。明治維新のときに最新の兵器を持っていた。お殿様はわりと質素にしていて、農家を大事にしていたから、農村の文化ってのがすごい豊かで「ばんどり」っていって、農家の若い男の人が、女の人に思いを込めて、綺麗に染めたものを編んで、その上から背負子をつかうんだけど、みんながその美しさを競うんだって。だから庄内ってすごい豊かなんだなと思った。農家がアート作品をつくっているようなものだ。求愛のアート作品。

その強さの原因はフラットな思想にあって、農民隊ってのが強かった。庄内藩は侍だけじゃなくて、藩内一致、農政一致っていって、農民の地位が豊かだった。それに武士と仲が良かった。藩校ってのは普通、武士の子じゃないと通えないんだけど、庄内藩の場合は、優秀な農民の子をみつけると武士の養子にして、通わせたりした。

- えっと、それで庄内と薩摩の関係性に話を戻すと

私ちょっと分裂症みたいな人だね。笑。それで、明治維新を成立させた人たちはみんな死んじゃった。「全部死んじゃって、ちんぴらばっかりが残っちゃったからですよ。ずる賢い人たちだけが生き残った」って言う人がいて、自分としてはそう思ってなかったから、みんなよく知ってるなぁと思って。維新の時は武士のようだったけど、そのあとはあんまり武士っぽくなかったのかもしれないね。という推測ですが。

- マエキタさんがそっちに目が行き始めたのは、東北芸術工科大学がきっかけなんだろうか?

そうそう。東北芸術工科大学の客員教授になったから。アル・ケッチァーノってレストランに通い始めて、山形からでも車で一時間半くらいかかるんだけど。そこで庄内の人たちに知り合ったの。とにかく庄内でダイアローグ会議をやりたいのよ。


次回につづく。
2009.07.09 千歳船橋〜渋谷〜池袋、立教大学の行程にて

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マエキタミヤコのsustena日記
http://ecocolo.com/starblog/maekita/
| - | 06:06 | comments(0) | - |
箱庭喫茶 第二回 二〇〇九年七月 小暑


先月はお休みしました、箱庭喫茶。七月の旬はトマトをつかった冷製パスタをつくります。流しそうめんは来月になりそうです。ご予約はお名前とお電話番号と、参加ご希望時間帯(昼の部か夜の部)を書いてこちらまでメールでお願いします。

尚、浴衣及び和装で起こしいただいた方には、ささやかなおみやげを用意しております。

● Food + Desert
トマトと賀茂茄子と生ハムの冷製パスタ
グレープフルーツのワインゼリー
soft drink free
1,500円

● Drink
日本酒 500円(一合)

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箱庭喫茶 2009.05.23 sat 17:00-23:00
http://hakoniwanoie.jugem.jp/?eid=3
| kyoto kitchen | 02:27 | comments(0) | - |
原点(創造性を最大限発揮できる環境作りの、現代日本における原点)
今日の記事は、大変理学部系のお話であるのだけれど、なるべく幅広く、解りやすくお伝えすることを努力しようと思う。しかし、どうしても情報密度が濃いので、固有名詞等はなるべくハイパーリンクするので、リンク先を参照するべし。

ソニー・コンピューター・サイエンス研究所(Sony Computer Science Laboratories, Inc.|以下SonyCSL|Wikipedia)という研究所が東京・五反田にある。この研究所では、主にソニーの製品開発には関係なく、情報工学系の研究開発を行っているところなのだが、現在の日本国内の主な携帯電話ほぼ全てに実装されている予測文字変換システム「POBox」や、製品レベルではロボットの「AIBO」などがあり、脳科学者・茂木健一郎は元々(現在でも)この研究所の所属であったことは大変有名であると思う。

企業の研究所というとどこか秘密主義で謎のベールに包まれているところがあるが、ここは違った。SonyCSLには2003年、2004年頃の研究発表会にちょこちょこ通っていたのだが、そこで研究されている研究内容は当時メディアアートやコンピュータに関連する表現を追求していた立場としては、非常に興味深い世界だった。その場の空気感は大変創造性にあふれ、アメリカのデザイン・コンサルティングファームのIDEOや、アップル・マッキントッシュの原点となったテクノロジーを研究していたゼロックスのパロアルト研究所を彷彿とさせる刺激的な空気が漂っていた。最近になってわかったのだが、それもそのはず、1988年に設立されたSonyCSLの構想時に標榜していた研究所がパロアルト研究所であると、SonyCSLの所長である所真理雄が自著に記している。

彼の本を読んでみると、そのSonyCSLの原点は、どうやら慶應義塾大学理工学部にあるらしい。

慶應義塾大学工学部相磯研究室。相磯秀夫教授による、1988年まで存在したこの研究室は日本の情報工学における大変な人材を輩出をしている。1969年に上記の所真理雄が。1973年に「ユビキタス・コンピューティング」の坂村健が。1979年に「日本のインターネットの父」と言われる村井純が。1982年には「ウェブ進化論」の梅田望夫がそれぞれ在籍していた。(出展:onimaLab)名簿は1988年で終わっている。

なんと、その後、相磯秀夫は慶應義塾大学の改革に参加し、そして1990年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下SFC)の初代環境情報学部長になったのだという。このあたりのいきさつに関してはキャリナビに詳しく書いてある。今でこそ大変な人材を輩出しているSFCは、やはりそれを作り出す人材を輩出する梁山泊があり、リーダーが居たのだ。SFCとSonyCSLのルーツが同じであることも、相磯秀夫という人物についてもまったく知らなかった。その両者に流れる言語化しようのないオープンで、かつ自由な創造的環境を超える環境は、日本ではちょっと見たことがない。相磯研、どんなところだったのだろうか。しかし書いて字の如く、成る程なわけだ。

相磯秀夫、彼が人生中盤までのテーマだったはずの情報工学を捨て去って、大学改革に乗り出したとインタビュー記事には書いてあるが、情報工学分野から組織改革や教育改革者が現れたことが、改めて興味深い。
Q.SFCが作られたのが、1990年ですよね。

A.そうです。実際にはその3年半前からディスカッションを始めています。ものすごく密度の濃いディスカッションでした。1986年の10月に塾長から、各学部から3名ずつ出て、その他の関係者をいれて22名か23名で、二つの新しい学部を作るので、どういう学部を作ったらよいか検討して欲しいと言われました。みんな張り切っているから最初は勝手なことを言うわけです。

中略

7・8人のワーキンググループができて、土曜・日曜・祭日返上でホテルに泊り込んで夜遅くまで喧々諤々ものすごい議論を繰り返しました。1987年の春に一応、学部の名前のようなものも含めた第一次案を作って塾長に示しました。3年半かけたディスカッションは非常に大変だったけれども、これが今、実っているんですね。きちんとディスカッションしないといいものは作れないと痛感しています。

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天才・異才が飛び出すソニーの不思議な研究所 所真理雄著 日系BP出版
http://www.amazon.co.jp/天才・異才が飛び出すソニーの不思議な研究所-所-眞理雄/dp/4822247511

ソニーコンピュータサイエンス研究所を一般公開
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0613/sony.htm

ゼロックス・パロアルト研究所からアイデアを盗み出してマッキントッシュを作ったスティーブ・ジョブスの伝説
http://mactechlab.sakura.ne.jp/from-mactech-with-love/2253.html

日本のインターネットの父・村井純
http://tamachan.jugem.jp/?eid=399

相磯秀夫「ここ15年くらい私は大学改革屋になってしまいました」
http://www.carinavi.org/ja/career/156/article.jsp?page=4
| 情報デザイン・メディアデザイン | 16:03 | comments(2) | - |
我在東京
思えば東京に戻ってきてからまだ4日しか経っていないのに、この密度はなんなんだろう。。。

東京に戻ってきた日。大変お忙しいらしいイシクラさんとの瀬戸内国際芸術祭絡みのミーティング@クルックカフェ18時。二週間ぶりの東京で、いきなり原宿とか歩くとショック死しそうになるくらい人がいる。最近四条河原町ですらあんまり行きたくないのに。途中で切り上げて、触れる地球展のレセプションに行こうと思ったが、最近の優先順位を考えてスルーする。

その翌日、朝から体が動かなかった。環境の急激な変化に耐えられなかったらしい。最近腰のダメージが再発しつつあったけれど、本格的にやばいので病院的なところにいく@15時。ついでに実家に寄ると、父親が名前を変えたっていうんでなんだか虚を突かれた感じ。そうですかー。としか言えない。16時半からお茶の水の明治大学でやってた茂木健一郎の哲学の授業に行きたかった!が体に嘘はつけなかったらしい。しばしの休息後、六本木へ。100万人のキャンドルナイトの実行委員会会議@18時。詳細は書いたので省くけど、今回は枝廣さんがやたらと元気だった。そして21時で帰っていって、午前2時起きの枝廣タイムで生活しているようだった。その後、箱庭の家会議@skype。22時から。skypeの会議は時間がほとんど厳守されないってのは、メディアの性質上どうしようもないことなんだろうか。しばし悩む。その後ぼちぼち集結。次回カフェの開催日程が確定する。メインの料理がまだ決定できないので、告知はもうちょっと先。

昨日は、渋谷から始まった。西郷理恵子ちゃんという僕のネットワークの中でも相当の変人の部類に属する方だ。彼女の今後の展開と、ブログについて相談。3年ぶりくらいに会って、変人ぷりに相当磨きがかかっていて、大変嬉しい限りだ。昨日のその後は、元ソトコトの鈴木奈央さんと兼松くんらによる「greendrinks」へ。テーマがtwitterだっていうんで、ようやく重い腰を上げて行ってみた。twitterについてだいぶ理解。やるべきことがちょっとづつ見えてた。ここらへんも時間ある時にきちんとまとめて公開します。「greendrinks」には一時間半くらいしかいなかったけれど、その間にbiopio関連以外で、瀬戸内関係の子が一人と、僕のblogの読者がいた。いくら業界狭いからっていって、そろそろ自分のblogのメディア力が怖くなってくる。最近一日に一人くらいずつコンスタントにそういう方に出会う。

そして、そもそも今朝は千歳船橋の堀口珈琲@11時から始まったのだった。思えば長い長い一日の始まり。このあたりに来るのは一年ぶりくらいなのではないだろうか。堀口珈琲は元々自分で見つけ出した世田谷随一の珈琲スポットなのだけど、きっと教えてあげたあの人やあの人が、日常的に使ってるんだろうな。堀口珈琲はマエキタさんをとっつかまえるための場所なんだけど、ここでは深田さんという伝統構法による建築をする大工さんからの相談だった。その後ちょっと一日マエキタさんを密着取材してみようと思い立ったのが運の尽きで。最近どうよ?的に話を聞きつつキーボードをカタカタ叩きながら小田急線に乗る。着いた先は渋谷警察署@15時だった。なんの用事かといえば、この間やったというイランの件についてのデモが公安に対してデモ申請をしていなかったということで、1時間くらいみっちり怒られる。そして延々とカタカタとキーボードを叩きつつ、今度は山手線で池袋へ@17時。そういえばマエキタさんは立教大学の先生だったのだ。大学って久しぶり。大学生ってなんで廊下の同じ場所で延々くだらないことをだべってれるんだろう?この一連のプロセスで取材した内容は近日整理して公開したい。その後、瀬戸内国際体育祭のミーティングという名の顔合わせ@汐留21時から。5人中2人が某大手広告代理店の人という濃さ。瀬戸内関連が急激に動き始めている。
| 雑記 | 03:39 | comments(1) | - |
自己組織化
最近、急激に仕事のやり方が変化しつつあることに非常に戸惑っている。

やたらと年代で区切るような言い方は好きではないけれど、20代の前半は、ひたすら最前線に立って、コンセプトを形にして敵陣に向かって突き進むことが仕事であった。そのための武器を探し、武器を使いこなせるようになり、それが経済的にフィードバックされるようになってから、もうずいぶん時が経ったように思う。

二年くらい前からだろうか、風向きが変わってきたのを感じるようになったのは。それは自分個人の状況だけではないかもしれない。環境問題をはじめ社会問題全般は、広告的にトップダウンのキャンペーンでもって世に広く伝え、啓蒙していくことが、少なくとも2000年代の最初の前半はそれがすべてだと思っていたが、その限界を2006年あたりから感じ始めてnext stepを探していたけれど、そのうちの一つがこのようなことにあるらしい。

100万人のキャンドルナイトに関わり始めてから、毎月一回の実行委員会には必ず参加している。藤田、辻、マエキタ、竹村、枝廣と、なんと多忙な五人がよくまあ集まっているものだと思うが、とかくこの中で枝廣淳子という人については、初期の頃はまったく理解していなかった。やっていることはまったく地味で、到底理解には辿り着けなかったが、どうも世の潮流はこの人がやっていることの方に向かっているぞ、と思う機会が最近非常に多くなってきていることは否定できない。そんな枝廣さんが、いままでやってきた自己組織化についての取り組みを聞いてみた。

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キャンドルナイトのウェブサイトをつくったりするチームは、うまくシステム化することができたらいいね。JFSは全員ボランティアで記事を書いたり、英訳している。高い目標設定とトーンの設定だけしておいて、責任は私がとるから、基本的には全部まかす。自分の自己実現を達せているかどうか。外からどう見えてるのか、どう評価されているのかをフィードバックしていくことがメンバーのモチベーションになる。フィードバックをまとめてメールするための係の人もいる。自分のメリットを感じない人は続かないから。中央が存在する意義があるとしたらそこだけじゃあないかな。

記事の質をキープするために、入ってきたい人のテストをしてるんだけど。判定する係りの人もいる。判定した人も「なんで落としたんだ」ってクレームいわれたくないから、最終責任は私がとるということにしている。でも、基本的には「うん」って言っているだけでいい。そこが大事。

こういうことを「自己組織化」って言う。私だって最初は自分で全部記事書いたりしてた。その方が楽じゃない。人にお願いすると確認もしなきゃだし、あれやこれや大変。でも人に任すことが、信頼することが、確実に自分が楽になると信じているから。

基本的には、最初に設定したトーンに合うかどうか。目指している所を共有できるかどうか。ということだけを、日々チェックしている。

私も二人だけメンバーを外したことがあって。正面切って「あなたのやりかたは合ってないから、改めるか、やめるか」って。よっぽどなことだけ、私が出ていく。メンバーに対して、できてないことは、なるべく指摘しない。本人が理解してることだから言っても仕方ないしモチベーションが下がるだけ。

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考えるヒントを探して 枝廣淳子
http://tamachan.jugem.jp/?eid=361
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