tamalog

Output and input from 1998 to 2010
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世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。
シンポジウム「伝統の文様・図案・意匠の重み」-京都の知恵が新たなトレンドを生み出す-
speaker:トトアキヒコ氏(唐長・KIRA KARACHOプロデューサー) 
date & place:2009.10.23
京都商工会議所 講堂にて



今年七月に知り合ったトトさんが、唐紙についてお話されるっていうので行ってみた。

ちょっと、ひさびさ、言葉に感動した。文字として読んでもつたわんないかもしんないけれど。和とかモダンとかに囚われてると危ういなあと。その後の登壇者がそういう表層に囚われていることとコントラストがはっきりくっきりしてたからかもしれない。和モダンとかってテーマでインテリアやりまくってきた人が、とても痛いのは、表層に駆られてしまって、ぜんぜん勉強していないからかもしれない。トトさんの締めくくりの言葉に、自分がなにに惹かれているかということの、輪郭がはっきり見えてきた気がする。
僕たちはあまり「和」ってことを思ってないんですね。ユーロアジア全体の人類の営みが文様として入ってきたり、シルクロードを通じて入ってきたこと。世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。唐紙自体には、版木の力、先人達の力がいっぱい宿ってるんですね。そういうものを写し取れたときに、美しい唐紙が生まれるんですね。だから単に装飾されただけのものではありません。
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写真:トトアキヒコ

文様(もんよう)。文(もん)。文様は文化そのものだと思っています。子供が生まれたときに、ひたいに×印を書いたんですね。それが文。非常に呪術的なところから始まっている。京都では子供のことを「ややこ」っていいますけれど、それが文(あや)になっているんですね。

桂離宮でありますとか二条城でありますとか、公家武家商家問わず、しつらいとして唐紙をやってきたのですが、それをどう今の暮らしに溶け込むのか、ということを企画しています。



昨年の春にミッドタウンの「とらや」で行った展示。会場内に水を張って、水面に唐紙の明かりが映り込む。桜の舞い散る静かな空間を感じてもらいたかった。静かさと儚げ。唐紙ととても相通じるものがあった。



「青い桜」
唐紙の美術的価値に光をあてるという試み。唐長はよく伝統工芸っていう言葉をつかいますが、僕は単なる伝統工芸ではないと思っています。和紙の文化であるということと、文様美という二つの価値があいまっている価値だと思います。自然界への畏敬であったり、人類の英知そのものであり、はたまた呪術的な祈りの形だったり。今なお生まれつつある現代の美。妻である愛子とともに四ヶ月展覧会をしました。青い桜をつくりました。明け方の空をイメージしたんですけれど、明け方のあおい舞い散った桜が光を受けていると、桜の色は青なんじゃないかと。



「波紋」
唐紙を通じて世界が平和だったらいいなーっていうことをこの頃から思うようになりまして。この渦の文様はですね、派生と終演。西の極み、今でいうアイルランドに遺跡としてたくさん残っています。それは東の極みである僕たちがいまなお使っているというのは、文様をつかって世界が通じているということなんじゃないかと思います。ケルトのひとたちは、いのち、太陽、死生観としてつかっていたようですが、今の私たちは水を感じる人が多いと思うんですね。宗教、文化もそうだが、時代時代で意味が編集されている。ということで渦の文様っていうのは研究材料になるのではないか。松岡正剛さんの本をたまたま読んでいて山川草木悉有仏性(さんせんそうもく、ことごとく、ぶっしょうあり)ということばがあり「すべてのものに魂は宿っている」山を見ていて、葉の色があったり、蝶の色があったり、そういう山の美しさを表現できないだろうか。そう思って手がけたのがこの紙なんですが。従来の刷毛などで染めるやりかたとは違いまして、ひとつひとつ私の手で染めています。ドットというか点になっていると思うのですが、3メートル全部染めるのに三万回とか四万回という行程でつくっているのです。不揃いの中に透明感をつくるという試み。文化人類学の教授である竹村真一さんという方がおられるのですが「触れる地球」というプロジェクトの一環でイスラム美術館に唐紙が納められることになりました。



「祈りの形」
十字架っていうのは、単にキリストの十字架っていうことを意味しているのではなくて、東と西の融合ということを私なりに考えて、唐紙にメッセージを託した。九曜文(くようもん)。空海がもたらした文様なんですね。もともとインドから中国に渡った星占術の中に描かれているのが九曜紋ですね。これを十字架と組み合わせたことで、東の文化と西の文化として組み合わせた。ちょうどこれをやっていた時期が七夕っていうこともありまして。つくってみてから、はくちょう座のくちばしにアルビレオっていう星があるんですね。気になって調べてみると385光年の星だったんですけど、385年前にきらんと光った光を今見ているんですね。385年前というのは唐長の創業なんです。そういうことが唐紙に自然と現れているのが初代からのメッセージなのかなと。



「Inochi」
鳥がたくさん飛んでいるのですが、先頭の一羽だけ青い鳥なんですね。長いかたは三時間くらい眺めてらっしゃいました。感情という言葉が適切かわからないんですけれど、研ぎ澄まされた感情や感覚の中で生まれたものっていうのは、普遍的に認められるのかなと思うのですが、英語でいうと「ああと」っていう言葉になると思う。先頭の一羽だけは幸せの青い鳥です。実はこの四作目のいのちっていう唐紙は、東洋西洋の古代美術のコレクションをされている国内でも指折りの美術館があるのですが、そこのオーナーさんのコレクションに入れていただくことができました。


僕たちはあまり「和」ってことを思ってないんですね。ユーロアジア全体の人類の営みが文様として入ってきたり、シルクロードを通じて入ってきたこと。世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。唐紙自体には、版木の力、先人達の力がいっぱい宿ってるんですね。そういうものを写し取れたときに、美しい唐紙が生まれるんですね。だから単に装飾されただけのものではありません。

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唐長
http://www.karacho.co.jp/

静寂と美を紡ぐ唐長トトの写真とことばによる「唐長美術館」への軌跡
http://blog.goo.ne.jp/kiratoto/
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琵琶湖ほぼ一周 自転車の旅2 一泊二日 181km
前から行こう行こうと言っていた琵琶湖一周のつづき。今回は、前回の終着地点の近江八幡駅を朝09:00にスタート。



今回も僕のアウトドアの先生、やよいちゃんと。最近彼女は大阪のロッククライミングジムに通っているらしく、そこのメンバーこてこて関西人8人パーティーで、一泊二日の行程だ。さすがにみなさん日頃鍛えている上に全員ロードバイク系なだけあって、最高速時には時速30kmくらいのスピードで進行する。

それにしてもJR琵琶湖線沿線は安土桃山時代の旧所名跡のオンパレードである。近江商人の町、近江八幡から始まって、織田信長の安土、井伊直弼の彦根、石田三成の佐和山、中仙道と北国街道の分岐点であり、現在は新幹線こだまが発着する米原を過ぎて、羽柴秀吉の長浜とつづく。



長浜を抜けるまではスイスイ。なんていっても大津からここまで約90kmの間はほぼアップダウンなしのアスファルトによるサイクリングロードが整備されているのです。そして長浜を抜けると秀吉が柴田勝家を打ち破って天下取りの後継者となった、賤ヶ岳古戦場跡がある。ここを北に抜けたら福井県という、琵琶湖の最北端だ。今回はここで進路を湖沿いに西へ取る。この山の下にあるトンネルは路肩50センチくらいだろうか、車道にはみ出し気味で通過しつつも隣をトラックが駆け抜けようものなら風圧で自転車が足を取られそうになるが、集中力で突破。

そしてトンネルを抜けたところで17:30頃。あと30kmで初日の目的地というところまで来て、夕焼け、日没。なんか今回たいしたことないじゃん。と思っていたら、地獄はここから始まったのでした。


奥琵琶湖パークウェイから見える長浜方面と琵琶湖。そこらじゅうリアルにたぬきだらけ。

奥琵琶湖パークウェイ。標高280m程度の、琵琶湖に突き出た半島の山を登り始めたころにあたりは真っ暗に。70km近くも走り続けてきた足にアップヒルは相当堪え、そんな山中を10kmほど進んだ頃には、全員バラバラになっていく。まったくの一人で、暗闇の山中を走っていたときに林の中には常にガサガサっていう物音がして、後ろからはなにか歌声が聞こえていたときは、賤ヶ岳付近っていう場所が場所だけに、ちょっとしたお化け屋敷より怖いものがあった。そんな所を20km、1時間半か2時間ほど、延々登り続けてやっと温泉に到着したときの嬉しさっていったら。ああいう生々しい自然環境への恐怖感っていうのは、東京近郊ではちょっとやそっとでは味わえないものがあるね。


その後は湖畔でバーベキュー。さすがアウトドア慣れしている人たちだけあって、荷物はすべて宅急便で郵送されていたり。一日目はここで終わり。



一日目に100km走ったので、二日目はのんびりお昼から出発。ここから湖西地方、高島市に入る。高島ってのは、滋賀県の中でも際だって昨今、環境だったり文化だったりっていうことに対して活発な地域。例の「NHK 映像詩 里山II・命めぐる水辺」に出てくる葦原の日本の原風景もここにある。行きたいところのソラノネ食堂もこのあたりなんだけれど、今回はスルー。



高島市を抜けると、水中に鳥居のある白髭神社で休憩。ここはいつも車で湖西に行くときに必ず通るから一度降りてみたかった所。ここらへんの水質がやたら綺麗なのはなんでだろう?

より大きな地図で表示

最後はJR堅田駅でゴール。他の人たちは堅田駅からスタートしてるから、これで丁度一周。でもほんとは大津からやりたいなあと思いつつ。

最近自転車がブームだというけれど、町乗りだけしてないでこのくらいやんないとまったく意味ないなあと思っていたけれど。車や電車で旅行してても見えてこないものが見えてきたり、世界の解像度がだいぶ上がった感じがするところが自転車旅の魅力なのではないかと思う。

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2009.08.17 しまなみ海道から淡路島まで瀬戸内海548km(うち自転車126km)6泊7日の旅
http://tamachan.jugem.jp/?eid=605

2009.06.29 琵琶湖ほぼ一周 自転車の旅 京都から近江八幡まで60km
http://tamachan.jugem.jp/?eid=585
| 自転車生活 | 02:09 | comments(1) | - |
地球大学アドバンス 第23回 「日本の「食」をどうするか?」


地球大学アドバンス 第23回 「日本の「食」をどうするか?」
speaker:竹村真一氏 × 戎谷徹也氏(NGO大地を守る会 理事)× 島村菜津氏(ノンフィクション作家)
date & place:2009.10.19
新丸ビル エコッツェリアにて

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| ログ | 01:53 | comments(0) | - |
未来からの留学生
いろんないろんな大事なことを、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下SFC)から直接的にも間接的にも学んで、それが僕の血肉になっている。初めて山本尚明くんによってSFCに連れてこられてから、まるまる十年経ちました。あのとき、それまで僕の頭の中で形骸化された大学のイメージが、ガラガラと崩れ去って。学生達が新しいものをつくっていこうと自発的に、そこで実に生き生きとしている姿を見て、やっと自分のフィールドと仲間達が見つかったって思った。



そのとき感じた感覚は、いまでもタロー坂を登ってα館が見えてくると、まったく色褪せることなく鮮烈に思い出して身震いがする。その後たくさんの大学を見てきたけれど、あのとき感じたものは、やはりSFCにしかなかった。

では、そんなSFCに、いったいなにがあるんだろう?今日改めて、メディアセンター、ラムダ館映像編集部屋、デルタ館村井研究室、ドコモハウス小檜山研究室とSFCを案内してもらって思うのは、やっぱりここには常に最先端の情報機器とインフラが満載されていることだ。



僕が2002年当時キャンパスを歩いていた頃は、既にキャンパス中にパスワード不要な無線LANが張り巡らされていた。1996年当時は有線LANケーブルが。そして各教室には最先端のコンピュータが導入され、一年ないし二年置きに最新のコンピュータにすべて置き換えられる。たとえば、今日時点では映像編集用コンピュータは、最新のMacProに16GBのメモリー、4テラバイトの供用ハードディスクスペース。(当然RAID仕様)ソニーのHDVテープ編集装置が取り付けられ、24インチワイドのAppleCinemaLEDディスプレイ、といった仕様だった。表層的にはそんな感じ。そりゃあSFCからIT長者も生まれるよね。でももっと大事なのは、根本部分に存在するコンセプトなんだと思う。


すこっち。本名、須子善彦。30歳、横浜在住、システムエンジニア。学部時代には村井純研究室に所属。現在博士課程。

日本のインターネットの父と呼ばれる村井研究室。インターネット、情報分野における日本の最高学府の中枢に彼が入った経緯と、これからなにをしていきたいのかを聞いてみた。

当時SFCで出来ていたことって?
ホームページを立ち上げるためには1998年当時、月に四千円とか五千円くらいかかっていたよね。そのときに10MBくらいのスペースしかもらえなくて、メールアドレスもドメインなんかもらえないし。インフラストラクチャーとしてあまり使えるものではなかった。当時SFCでは100MBの個人スペースが、全学生に配られていて、そこではすべてのCGIが動く。LANっていう言葉がまだ専門用語だった時代。このケーブルはコンピュータに刺し込んただけでインターネットに高速に接続されて、しかもそれはタダなんだ。って、SFCに入ると教えられる。つまり、SFCのインターネットを使わなければ、できないことが多すぎたんだ。僕らの世代はSFCに来て始めてインターネットに触れたり、始めてパソコンを買うような状況だった。それが2000年入学くらいから変わってきた。

インターネットの世界をつないできた人は、学術系の人たちが多かった。大学の中はLANが広がっているけれど、大学間は電話回線をつかうしかなかったんだ。大学の中は超高速なのに。当時は電話の上にインターネットが乗っていたんだけれど、それを逆にするのが村井先生の仕事だった。日本は当時国策として大変に遅れていた。ISDNっていって、既得権益にこだわるもんだから電話回線の上に高速なインターネットを敷設しようとしていた。そのときに通産省とかNTTが遅れていて、このままじゃ日本がつぶれてしまうよといって。それでまあ戦ってきたと。その成果として日本のブロードバンドの普及率は世界で一位になったんじゃないか?2000年ぐらいだよね。

そのSFCにしかなかったインフラの上で、学生達はなにをやっていたんだろう?

例えば体育の授業の予約システムは、当初は体育館の前においてある紙にわざわざ書きに行かなければならなかった。その予約をインターネット経由でできるようなプログラムを書いた学生がいて、そのシステムを大学側が取り入れた。と、そんなかたちでSFCの学生達は大学生活を自分で作り出すことは、当たり前になっていった。

十年経ってみて。では、SFCの役割はいったいどう変わってきたんだろう?

当時ほど、世の中一般と大学の中のインフラのレベルの違いは顕著ではなくなって、SFCの中で「インターネット」っていう時代はとっくに終わっていて、新たに「社会起業」っていうキーワードがでてきたんだと思う。今ブームになっているけれど、フラットな人間関係とか社会構造ってのがあたりまえになってきて。当時、SFCを卒業した人間は企業ではつかえないって言われたんだけれど、それはこっちからすると企業に勤めることが本当に幸せなのかな?って考えていた。それで起業家がたくさん生まれてくる。生き甲斐ってなんなのかな?こんだけたくさんの人たちが「働く」っていうことをやっているのに、働き方と社会の関係を考え直す、っていうことをインターネット的に始めたのが、SFC発の社会起業だと思うんだ。

「インターネット的」っていう言葉をよくSFCの学生から聞くような気がするね

自律分散協調、アドホック、ベストエフォート等々。インターネットが成立している背景にある技術的思想のひとつひとつが、「インターネット的」な事象である、と言える。たとえば自律分散協調組織ってのは、一人一人がミッションをもっていて、他人に依存をしないで自立して行っているんだけれど、共通のミッションをもっていてその範囲でお互いコミュニケーションをとっていきましょう。たとえば、ある人が突然忙しいからって抜けても、普段協調しているからフォローすることができる。といった具合に、インターネットはそれまでのヒエラルキーに基づく組織論や、既成概念を打ち破った、あるいみ「都合の良い」考え方を生み出すことで成立してきた。

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その他の大学において多くの場合ツールとして位置づけられている、インターネットというものが、SFCにおいてはコンセプト、思想そのものなのである。故に大学としてのオリジンにもなり、そこに集う人々の考え方の根本を成しているわけだ。そのような情報環境の上で、いかなる社会をつくっていくか?ということが、SFCの花形学部である環境情報学部の役割なんだろう。と僕は勝手に推測する。

なんかでも今日、点と点が繋がったのよ。SFCにはセルフモチベイテッドな、自分から問題やテーマを見つけて突き進んでいくことができる人がやたら多いなあって思っていたけれど、よくよく考えてみたらインターネットの持っているコンセプトを換骨奪胎して応用したら、そういう生き方になるのです。そんな環境を作ってきた村井純は有り難いなあと思うし、その先達には相磯秀夫というSFCの創設者がいた。すこっちにはその系譜に並んでほしいなあと常々思うわけです。

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日本のインターネットの父・村井純
http://tamachan.jugem.jp/?eid=399

創造性を最大限発揮できる環境作りの、現代日本における原点・相磯秀夫
http://tamachan.jugem.jp/?eid=595

SFC生その1 吉本龍司
http://tamachan.jugem.jp/?eid=380

SFC生その2 中澤久美
http://tamachan.jugem.jp/?eid=421

SFC生その3 柳明菜
http://tamachan.jugem.jp/?eid=550

SFC生その4 伊藤智子
http://tamachan.jugem.jp/?eid=551
| ひと | 00:15 | comments(0) | - |
世界観を構築するということ
自己ブランディングや、コーポレートアイデンティティ、カフェ、なんでもいいけれど。自己表現をふまえた活動をするためには、大変有効な手段となるのが、世界観を構築するということなんじゃないかと思う。世界観を表現するのに、ただ絵を描くだけの人もいるし、それをなんらかのプロダクトにしている人もいたり。広告的なマス・コミュニケーションに落とし込んでいる人もいる。

イバラード/井上直久 http://iblard.com/

イバラードは、スタジオジブリ作品「耳をすませば」の中に出てくるバロン男爵の住む世界と言えば、知ってる人も多いかもしれない。宮崎駿はこのイバラードの世界観に惚れ込んで、最近ではコラボレーション作品を三鷹の森ジブリ美術館で短編作品として放映していたりする。
イバラード(Iblard)は画家・井上直久によって創造された架空の世界にある国。魔法の存在する世界であり、人々はソルマという技法でシンセスタという鉱石を用いて自分の思い浮かべたものを形にして表わす。空にはラピュタと呼ばれる浮島あるいは小惑星が多数浮かび、街の建造物は植物に覆われる。この世界の公共交通機関は車輪がなく宙に浮く路面電車と同じく空に浮かぶ鉄道「ジーマ」である。


タニマチ 1997年


塔と迷路 2004年


野原のアクアショップ 2006年

スタジオジブリ「星をかった日」の原作者 井上直久さんインタビュー
http://www.7andy.jp/esb/docs/sp/ghibli/ghibli_interview_inoue01.html

イバラードの地図
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/2396/map/map.html

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メイド・イン・コルキニカ/酒井景都 http://www.colkinikha.com/

元々オリーブのファッションモデルだった酒井景都は、2002年、慶應大学在学中にファッションブランドとしてメイド・イン・コルキニカを発表した。架空の国を舞台にしたブランド設計は、あー。その手があったか。と思わされる。ちなみにコルキニカの国民服は、メイド・イン・コルキニカブランドのTシャツである。
COLKINIKHA「コルキニカ」は、ロシアの近くにある架空の国。国土は小さく、気温は平均14℃という寒さ。この小さな国の中には幾つもの村があり、空の色がグレイの日も、雪の日も、心は暖かく暮らしています。そんなコルキニカの普段着、身に纏うとどんな気持ちになるのでしょう。


第7話 「モノクロームの谷」 - Colkinikha 2006 a/w


第11話「カーテンとオーロラ」 - Colkinikha 2008 a/w フラワーモチーフ付きコート ¥60,900


第13話 「星降る夜のエピローグ」 - Colkinikha 2009 a/w ソルジャーコート ブラック ¥39,900

酒井景都、コルキニカン|ホットインタビューズ
http://moura.jp/clickjapan/interviews/040225/index.html

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寄藤文平 http://www.bunpei.com/

JTの広告から、フリーペーパーのR25、最近はシブヤ大学とかグリーンバードとかのグラフィックをやっているこの人は、ちょっと前の二人とは違うかもしれないけれど。なんともいえない世界観をつくってるなぁと思う。ストーリー性がない分、広告として展開しやすい、なんだかレゴブロックみたいな世界観だなと思う。





GA info.:creator's file :寄藤文平
http://biz.toppan.co.jp/gainfo/cf/yorifuji/p1.html
| - | 01:24 | comments(0) | - |
生涯学習中
今日は流れに乗って、カタリバの竹野優花と「全国公民館大会」なる1000人規模のシンポジウムに行ったのだが、公民館というのは、大地震でも起きたときに行きなさいねってところか、せいぜい子供の頃にクリスマス会とかどんど焼き(関東限定?)やってる場所っていうイメージしかなかったんだけど。その僕らの知っている公民館ってのは、もはや形骸化された姿でしかないんだな。でもそれが60年前に始まったときの理念ってやつは、ちょっと気になったんだ。

シンポジウム中「そんな状況になってしまったのは、公民館の職員が、さらにもとはといえば文部科学官僚の意識が低くなりすぎだ!」なーんて、ヤジを飛ばす人も出てくる始末だったんだけど、歴史をさかのぼってみると、1946年当時の文部次官通牒によって始まったっていう公民館制度は、戦争が終わって、やっと生き生きと生きることが許される世の中になったんだと。その喜びの中で、国民全体に生涯教育をもたらす場所なんだっていう、西洋で言えばきっと教会がやるようなものだったんだ。公民館制度の理念としては、大変共感できるものであることが解ったけれど、しかし形骸化されたものはもはや存続の必要性はないなー。ってのが僕の見解。


前段、長くなりました。そんなこんなで、久しぶりに「生涯学習」なるキーワードを思い出した。僕は、そもそもその文部科学省に、もっともお世話にならずにいままで生きてきた人間の一人だね、ってよく言われる。いまだに最終学歴は高校中退のまま。たぶんずっと一生そのままにしておくつもりだけれども、生きていく上で「学習」自体はし続けなければならなかったわけだ。

そこで、高校中退後にまずなにをやったか。これはたまたまだけれど、僕が中退した年というのは、日本においてインターネットプロバイダが商用化された、まさにその年だった。今、鬼のようにTwitterにハマっている若者のように、BBSやらウェブチャットを駆使して、大人に会いまくった。

当時の、2000年のネットバブル以前のインターネットは、ある一定以上の層の人たちの割合が高かった。会社経営者、大学関係者、官僚、研究者、技術者。など。彼らに混じり合っていくうちに、たまたま運良くとあるネットベンチャーの立ち上げに出くわした。その会社での日々はただひらすらのオン・ジョブ・トレーニング。座学もくそもなく、ひらすら実践の日々を一年半ほど続けていくうちに、なんとなくベンチャービジネスの世界が解ったような気になった。そして会社を辞めた。

その次に行った会社では、酒と接待とそして風俗にまみれまくった。いわゆる90年バブルの残像の中でいまだに生きている人たちがいた。それはそれで、勉強にはなったけれど、そんなところはさっさと逃げ出した。

そして某KO大学SFCに、勝手に通い始めることを思いつく。+10歳以上の大人達にまみれてみて始めて同年代と、同時期に、どんな経験をしたかっていうことの重要性に気がついた。30歳、40歳になったときのネットワークは、この頃の共通体験に大きく起因するんじゃないかって、仮説を立ててみた。この仮説は10年近く経ってみて、こんなにうまくいくとは思わなかった。ネットワークがなければ、学習もクソもない。どんな人間達にふれあったかっていうことが、そのまま目指したいところへ向かうための、価値観そのものになるのだから。

つまるところ、大学というものの授業には、それほど価値は無かったように思う。もちろん探せば面白いものもあったけれど。それよりも、丁寧にふるいにかかった人たちが、効率よく集まっているコミュニティだ、ということだけが、ただただ魅力だったように思う。適切なネットワークとコミュニティさえできていれば、学習など、誰かがわざわざ用意せずとも、自発的に行われるものなのではなかろうか。

ここ最近は、ウェッブサイトをタダでつくってあげる代わりに、日本画の書き方を教えてもらったりと。福沢諭吉に言われなくても、半学半教の精神ってのは、そうゆうことですよねと。

・・・なーんてこと言ってても、根本的に文科省の存在を否定してしまうので、あまりにカゲキな意見なんだろうか。いろいろ根本的に作り替えたいなーーーと、改めて思う。
| - | 02:04 | comments(0) | - |
日本におけるソーシャルデザインの展開経緯


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そういえばすっかり忘れていたけれど、今年の2月に「Social Design フォーラム」なるイベントがあったらしい。と、同志大城早苗から聞いたのだった。結局行きそびれちゃったんだけれど、配付資料を見てみると、なんだか真ん中ちょっと右寄りに書いてある三つは、身に覚えがある。笑

その三つの看板背負って、2002年から2008年一杯まではやってきたなー。と。なんだかひとつの分野開拓はできたつもりでいたし、自分の名前なんて、出てこなくていいと最近までずっと思ってきた。けどそうでもないんではないか、と認識を新たにしつつある。

思えば僕のソーシャル系に対する純粋な起業マインドは、ホワイトバンドといっしょに砕け散っていたなって。それからいままでいったいなにをしていたんだろうと、ちょっと浦島太郎な気分。

ちなみに以下は僕の頭の中の勝手な、ソーシャル系×デザイン系な方々の分類図です。最近あんまりアップデートされていないんでちょっと古いかもしれませんが、最近はそもそもこのような狭義の分類では整理しきれないような状況なんじゃないかと思います。


● 電通族
Think the Earth 上田壮一
サステナ マエキタミヤコ
2025project 福井崇人
retired weapon 徳田祐司

● チーム博報堂
広告・打ち水大作戦 池田正昭
アースデイマネー・サービスグラントTOKYO 嵯峨生馬
グリーンバード ハセベケン

● 渋谷区 長谷部組
グリーンバード ハセベケン
シブヤ大学 左京泰明

● sensorium発カンカク系
Think the Earth 上田壮一
Earth Litearcy Program 竹村真一
Living World 西村佳哲

● 新進気鋭
greenz 鈴木奈央
Whynotnotice 兼松佳宏
ヘブンズパスポート オキタリュウイチ
| - | 00:33 | comments(2) | - |
Dialog in the Dark 暗闇トークセッション 茂木健一郎


Dialog in the Dark 暗闇トークセッション
speaker:脳科学者・茂木健一郎 × バースセラピスト・志村季世恵
date & place:2009.10.09
赤坂区民センター区民ホール 3階にて

昨日、東京の赤坂での茂木さんのDialog in the Dark、暗闇トークセッションは、今年見た講演の中で文句なくナンバーワンの会だった。今回残念ながらログはないのです。なぜなら暗闇でトークセッションだったからです。

400人定員いっぱいの講演会場を、誘導灯はおろか、非常灯まで消して、完全に暗闇の中でトークセッションが行われた。こんな経験は後にも先にもなかなかないのではないだろうか。だいたい、この安全第一神話の国のかつ公共施設で、電気を100%消すことは、並々ならぬ理解と関係者の協力があってのものだろう。そして完全に電気が消されると同時に、数名の傍聴者から声が上がり、何人かは暗闇に耐えきれなくなって退場していった。だけど、それもきっと想定されていて、合計8人程度の視覚障害者の誘導スタッフが声を頼りに誘導するのである。

その中で、いつもの茂木さんの江戸弁的な噺家口調のトークと、今回の対談相手である志村季世恵さんの声が聞こえてくる。志村さんの声が色っぽいっていうか、なんかものすごくここちいいあたりは、きっと組織存続に絶大なる効果があったんだろうなぁなどと思ったりする。

我々は日常、あまりにも視覚情報に頼って生きている。視覚情報に頼るためにあらゆる価値判断の上で見た目が重要なファクターとなる。イスラム教徒の女性が外出時にかぶっているショールは、他人から顔を見られないようにするためのものだが、イスラム教の戒律は外見によって人々の価値判断が左右されたりしないような工夫がされているのだ。Dialog in the Darkを日本で始めたごくごく初期の頃、暗闇の世界に入っていった人たちが、涙を流して出てきたことがあったのだそうだ。特に美しい女性の場合は、小さな頃からちやほやされてきて、それが一般社会でコミュニケーションをする上で、感覚として当たり前になりすぎてきたのだが、暗闇の世界で、主に声と触覚だけを頼りに人とコミュニケーションしたときに「本当の自分でいられるような感じ」がしたのだそうだ。それは脳科学的に言うと「脳が全体性を回復する」という。

そもそもこのDialog in the Darkの誘導スタッフは、全員視覚障害者なのだが、先天的、後天的といろいろなケースがある。一端暗闇になってみると障害者なのはむしろこちらの方になって、彼らはスーパーマンだ。通常人間の脳の中にある「大脳一次視覚野」という場所が、視覚情報を司っている場所であるのだが、視覚障害者の方たちはこの場所を日常的に別のことで使っているのではないか、という研究がされているとか。実際のところはわからないけれども、彼らの視覚を除く四つの感覚をフル活用した日常生活は、我々の見えないものを見ているのである。

ゲストスピーカーであり、Dialog in the Darkの理事の一人でもある志村季世恵さんによると、彼らの目はときどき頭の上にでもあるんじゃないか、と思うような体験があるという。例えば、神宮球場の脇を視覚障害者のスタッフと歩いているとき、阪神戦の日か巨人戦の日かなどということが、応援歌や歓声の違いで判るのだという。また、あるときは「今日はどこか体の具合が悪いんじゃないの?」と聞かれたことがあった。呼吸のペースや、歩き方の違いで判ってしまうのだという。

Dialog in the Dark自体、実は10年も前から知ってはいたけれど、まだ実際に参加したことがなかった。しかし、この暗闇の中のトークセッションは、いままで感じたことがないくらい一体感があったことが、とても興味深い。

そういえば、このDialog in the Darkのコラボレート企画の第一回目は東北芸術工科大学にて竹村先生と当時のゼミ生が行っており、また、その竹村さんがプロデュースしていたウェブサイト「センソリウム」のトップページには、今もDialog in the Darkの紹介が残っている。改めて感性や、感覚、センスという言葉を考えされられる。Dialog in the Dark2009は、約一年の計画でロングラン公演中。申し込みはこちらから。

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ダイアログ・イン・ザ・ダーク
http://www.dialoginthedark.com/

地球大学クリエイティブ 第4回 赤池学「なぜいまキッズデザインなのか?子ども目線で考える」
http://tamachan.jugem.jp/?eid=493
| ログ | 01:00 | comments(0) | - |
いきたいところ
いきたいけどいってないところ。誰かいこう。
それにしてもずいぶんあっちこっちいったなあ。

・-NEW- ウユニ塩原(ボリビア・ウユニ)
・-NEW- パウル・クレー・センター(スイス・ベルン)
・-NEW- ダニエル・リベスキンド設計のユダヤ博物館(ドイツ・ベルリン)
・-NEW- くるみの木(奈良県奈良市)
・-NEW- ソラノネ食堂(滋賀県高島市)
・-NEW- 大山崎山荘美術館(京都府乙訓郡大山崎町)
・-NEW- MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)
・-NEW- ルヴァン上田店(長野県上田市)
・-NEW- 五島列島小値賀島野崎島(長崎県小値賀町)
・-NEW- ジェフリー・バワとアマンリゾートを巡る旅(スリランカ、インドネシア)
・-NEW- 草喰 なかひがし(京都市左京区)
・-NEW- 真里 旅館(香川県小豆郡小豆島町)
・-NEW- 高野山及び熊野古道(和歌山県伊都郡高野町)
九州デザイナーズ電車に乗る旅
堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館(大阪府堺市)
ほったらかし温泉(山梨県山梨市)
ロサンゼルス郡美術館 日本館 THE PRICE COLLECTION(L.A)
イサム・ノグチ庭園美術館(N.Y)
モエレ沼公園(北海道札幌市)
養老天命反転地(岐阜県養老町)
香港にあるSHANGHAI TANGの本店
・白谷雲水峡(鹿児島県熊毛郡屋久島町)
星のや(長野県軽井沢町)
紅葉の修学院離宮(京都市左京区)


横須賀美術館(神奈川県横須賀市) → 2009.10.03 complete
しまなみ海道自転車横断の旅(広島県尾道市〜愛媛県今治市) → 2009.08.12 complete
神山アーティスト・イン・レジデンス(徳島県神山町) → 2009.06.07 complete
九谷焼探しの旅(石川県小松市) → 2009.05.07 complete
犬島アートプロジェクト(岡山県岡山市) → 2009.04.05 complete
有松鳴海絞探しの旅(愛知県名古屋市緑区有松町) → 2009.03.01 complete
金沢21世紀美術館(石川県金沢市) → 2009.02.14 complete
あじき路地(京都市東山区) → 2009.01.11 complete
「崖の上のポニョ」の舞台だっていう鞆の浦(広島県福山市) → 2009.12.30 complete
吉村医院(愛知県岡崎市) → 2009.12.21 complete
こいずみ道具店(東京都国立市) → 2008.12.25 complete
倉敷町屋トラスト(岡山県倉敷市) → 2008.10.16 complete
イサム・ノグチ庭園美術館(香川県牟礼町) → 2008.10.02 complete
アレックス・カーがつくったちいおり(徳島県三好市) → 2008.09.29 complete
北大路魯山人邸 春風萬里荘(茨城県笠間市) → 2008.09.06 complete
STARNET(栃木県益子町) → 2008.08.05 complete
長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野県長野市) → 2008.07.12 complete
東福寺 龍吟庵庭園(京都市伏見区) → 2008.05.03 complete
重森三玲邸庭園(京都市左京区) → 2008.03.24 complete
伊勢神宮(三重県伊勢市) → 2007.11.23 complete
庵プロジェクト(京都市下京区) → 2007.10.02 complete
ベネッセアートサイト直島(香川県直島町) → 2007.8.16 complete
NHKスペシャルで見た琵琶湖沿いの里山の風景(滋賀県高島市) → 2007.08.09 complete
花想容(東京都豊島区) → 2007.03.14 complete
HIGASHIYA(東京都目黒区) → 2007.02.24 complete
旧白洲邸 武相荘(東京都町田市) → 2007.02.11 complete
東京都産の食材のみを使った和食屋 Tてぃ(東京都港区)
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伊藤若沖2009


今年の秋は大変贅沢なことになっている。若沖が日本の東西二カ所で見れるのだ。滋賀県、信楽のMIHO MUSEUMでは昨年12月に北陸の旧家で「発見」された「象と鯨図屏風(ぞうとくじらずびょうぶ)」と、ジョー・プライス&エツココレクションの一部が。



また、上野の東京国立博物館では、おととし京都の相国寺承天閣美術館で開催されたときはほぼ毎日三時間待ちくらいだった「動植綵絵」全三十幅が。見れちゃうのです。

茂木さんが当時「今後も、当分はないのではないか。少なくともハレー彗星くらいに思っていた方が良い」って言ってたけれど、これはそうなかなか見れるもんじゃないです。

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MIHO MUSEUM「若冲ワンダーランド」
2009年9月1日(火) 〜12月13日(日)
http://www.art-inn.jp/tenrankai/002064.html

御即位20年記念特別展「皇室の名宝―日本美の華―」
2009年10月6日(火) 〜 11月3日(火)
http://www.bihana.jp/

伊藤若冲の「象鯨図屏風」が発見される
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/13dad95b1b979de633a47cec3582f943
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