tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
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Google Chrome OSはテレビのように

こちらをクリックすると大きな画面で開きます

Google Chrome OSはテレビのように高速に起動するんだとか。

さてさて、Google Chrome OSのユーザーインターフェイス画面が公開された。Googleがオペレーティングシステムをつくることがどういうことかっていうと、Windows95以来この方、世間の一般認識としてコンピュータってのは電源を入れるとまずデスクトップにアイコンが並んでいて、クリックするとウインドウが出てきて、アイコンをクリックするとアプリケーションソフトが起動して、という概念の上に成り立ってきた。インターネットエクスプローラなりSafariなりっていうウェブブラウザも、そんなアイコンのひとつだった。

ところがこのGoogleのOSってやつは、おそらくたぶん、起動した瞬間から画面がウェブブラウザそのものなのだ。僕らは2〜3年ほど前にメーラーアプリケーションを使うことをやめてGmailに切り替えていたから、メールはブラウザの中でつかうもの、という概念はさほど驚くことはないだろう。更に、スケジュール管理もGoogleCalenderで、ドキュメント制作はGoogleDocsで、オンラインコミュニケーションはSkypeとTwitterで、映像はYouTubeで、写真はFrickrでと、ここ数年で劇的なまでにすべてをブラウザの中に委ねてきた。最近では遂にPhotoshopまでオンライン化し始めた。(https://www.photoshop.com/ ※英語版のみ)

そんな流れの一つの集大成として、GoogleはOSをつくった。おそらくWindowsでいうところのタスクバーのようなものも無く、タブがその代わりとなるんだろう。コントロールパネルのような、コンピュータのセッティング画面もブラウザの中。つまり、いままでのコンピュータのデスクトップとブラウザの立ち位置が逆転したのである。はっきりいってしまえばデスクトップなんぞいらないわけだ。インターネットを接続することが前提の設計。そう。iPhoneのように。

そしてこのOSは、主に5万円〜の価格帯が存在する、安価で小型軽量なネットブックと言われているコンピュータのためのOSだということだ。このことの本当の意味というのは、日本のコンピューターメーカーにとっては驚異的な真実が隠されている。ほとんどのコンピューターユーザーは、現在のような多機能ハイスペックなコンピュータは使いこなせないという、メーカーがいままで目をつぶってきた真実があることを、多くは気がついていたにもかかわらず、遂にそこから目をそらすことができない状況が、このGoogleのOSによって露見せざるをえなくなるだろう。

まぁ、そんなふうにコンピュータや、情報にまつわる環境が、文房具のように使えるようになるかも、っていうことはなによりなことだなー、と思うわけです。

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The Chromium Projects
http://www.chromium.org/chromium-os/

Chrome OSの登場は2010年11月ごろ まずはソースコードを公開
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0911/20/news039.html
| 情報デザイン・メディアデザイン | 14:02 | comments(1) | - |
情報発信主義宣言
インターネットを中心とした「情報」を取り巻く環境が、大きな変化の時を迎えている。

2009年11月11日からの数日間。twitter上でこの国におけるインターネットや情報、メディアといった分野の歴史がいくつか生み出された。来年度の日本の国家予算を決める「事業仕分け」のストリーミング映像を見ながらtwitterで呟いていた、いや大激論をしていた人たちは、いくつかの歴史的瞬間を見ることになった。これはちょっとしたはじまりのはじまりなのかもしれないが、インターネット創世記の頃にあった創造的な、エキサイティングな空気を感じる。



事はそれだけではない。先日、深夜twitterを眺めていたら「東龍なう!」と呟かれていた。それはつまり、僕の家の近所のラーメン屋の名前が出ており、そこに友人が、自分がいまそこにいるということをそれとなく伝えていたのだ。それを見た瞬間、僕は彼に電話をかけていた。そんな些細なキャッチボールが成立すること。



それから、最近のtwitter動向を探るためたびたびSFCを訪れているが、とある授業を聴講しているときに、同じ教室のノートをtwitterで書いていた学部生の女の子から、とてもよく知っている人の名前が飛び出してきた。その子の居場所はわからないが、ここかなと思った場所を指し示してみると、彼女は先ほどの子の友達だった。というような出会いが起きたりすること。

このようなことが何故起きうるのか。それはやっぱり情報をある程度開示しているからにほかならない。


情報発信主義宣言

情報は、恥ずかしがらず公開することが大事なのである。誰になんと言われようと公開することが第一歩なんだ。不完全な情報でもいいのです。その瞬間、生み出された言葉は真実なのだから。そして、どんな内容であっても公開された情報をネガティブにバッシングしてはいけません。

公開された情報にポジティブなフィードバックをすることが、きっと誰かを勇気付け次の新しい価値を生み出すんだっていうことを信じなくてはならない。それはなにか、いいことを言わなきゃいけないんだなんて思わなくっていい。ブログでもいい、twitterでもいい。インターネット上に発信すること。伝える事をためらってはいけない。

ひいてはそれが、仮想空間で完結する事なく、生活空間にも結びつけていくことを忘れてはならない。とかくデジタルが否定されがちな風潮をいちいち気にする事はもうやめよう。インターネットがわからないというのは、もはや単なる思考停止でしかないのだから。

発信された情に「報いる」ということが、情報っていう日本語の語源なのだから。情報発信するということが新たな未来を作り出す源泉であると、僕は信じてやまない。

我が国の情報を司る最高学府の一つである、未来を創る大学にて。

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Twitter「なう」のリアル
http://d.hatena.ne.jp/sotacafe/20091029/1256829628
| 無意識の意識化 | 01:04 | comments(1) | - |
社会起業家という言葉が嫌いなんだ!


社会起業家が集まるという「横浜ソーシャルベンチャー・ナイト」では大変有用な気づきを得た。

なんていうか、これから社会起業家を目指すとか言っているやつが、学生時代に世界を放浪していて、これこれなにがしの問題を発見したから解決しようっていうストーリーを描いてしまうのは、もはや痛々しく僕は思うね。2002年くらいにそういうことを言っていた人達にはオリジンを感じたけれど。もはやフォーマットの上に乗っからねばなにもできないと言っているに等しい。

その社会起業家なるキーワードを最初に見たのは2002年頃のHOTWIREDのページでだった。その発信者であるETICはいつまで同じことを繰り返すんだろうか?もはや社会起業家シールを発行すればいいって段階は過ぎたのではないだろうか。社会起業家という言葉で彼らを記号化してしまうことは、あの時点では大変有用なことであったかもしれないが、もはや時代は変わってきている。社会起業家なる言葉が作り出された背景に、どこか選民思想を感じてしまうのは僕だけだろうか。

社会起業家という言葉が嫌いな人はけっこう多いのではなかろうか。社会起業家自身は大変意味のある活動をしているとしても、周りの人間がそれをあまり好ましくなく思う風潮を作り出してしまうという悲劇。そもそも元を辿れば、ソニーだってその設立趣意に書いてあるのは、社会起業そのものなのである。それをわざわざ「社会」起業とソーシャルだの社会だのと飾りをつけなければ経済、ひいては経国済民するための活動が行えないというくらい乖離していること自体がそもそも問題なのであるし、ここでいう社会起業的なマインドを持たずに起業を志すなどという輩は、マネーゲームに参加しているだけの不届き物であると言われても仕方ないだろう。

記号化というのは、功罪あいまみえる機能を持っている。ダライ・ラマも言っていたけれど、メディアに関わる人間は大きな役割があるのだから、方法論をそろそろ見直す時に来ているのではないかとETICさんにはちょっと言ってあげたい。

そういえば、上のキャプチャー、よく見てみたらtext井上英之って書いてあるではないですか。笑。この方、そろそろどこかでお会いすることになりそうな予感がしております。

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社会起業家 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/社会起業家

社会起業家という生きかた。Hot Wired Japan(Internet Archive Wayback Machine)
http://web.archive.org/web/*/http://hotwired.co.jp/matrix/0202/
| - | 01:50 | comments(2) | - |