2022.07.04 Monday
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tamalogOutput and input from 1998 to 2010
2010.02.17 Wednesday
100万人のキャンドルナイト ムーブメントまとめ
2003年から2008年まで、6年間に渡って100万人のキャンドルナイトというムーブメントが始まり、それを広げていくための仕組み作りをやってきました。先日そのことについてお話をする機会があり、改めて膨大な資料をひっくり返してスライドにまとめてみました。 その過程でやってきたことや、出会ってきた人たちについて。主に2003年から2004年の立ち上げ期にやったことを、改めてゼロベースでまとめてあります。 ダウンロード(PowerPoint2004形式 / 12.9MB) | - | 14:19 | comments(0) | - |
2010.02.15 Monday
子供が生まれたら旦那も仕事やめたらいいのにって思う
名古屋にちょっと変わった夫婦がいる。この日も生後五ヶ月の子供と一緒に4〜5日くらい、僕の京都の家に滞在していた。子供が生まれてから現在まで、家族三人で日本中を旅して回っていて、あまり名古屋には帰っていないらしい。生まれてすぐの子連れでそんなことができるっていったいどういうことなんだろうと思いつつ。この日も、朝から大文字山に(子連れで)登った後に、近所のお寺を散歩していた。二人ともダンスをやっていて、考えるよりは先に体が動いてしまうタイプだ。 だからかどうかは知らないけれど、一年ちょっと前にできちゃった結婚した。丁度子供ができたっていう話を聞いたのが、愛知岡崎にある吉村医院という産婦人科の病院の見学ツアーの日だった。ここの病院のことはだいぶ気になっていたので、ツアーがあるって聞いて新幹線でやって来たまさにその日。旦那のよしおとも僕はその日に知り合ったんだった。 八丁味噌で有名な愛知県岡崎に、吉村医院という産婦人科の病院がある。うわさでは、古民家で出産するとか、妊婦に薪割りをさせるとか、そういう類の話を聞いてはいたけれど、ご本人はちょっと想像を絶したぶっとんだじいちゃんの先生だった。そんな吉村医院に通うようになり、子供を産んでからさらに現在までの話を聞いてみた。 Q.そもそも吉村医院に通うようになったきっかけってなんだったんだろう? さやか きっかけはてんつくまんの映画の上映会だった。その後友達四人と吉村医院に行ったのね。まさに横で妊婦さんが産んでる隣で先生と話をしてた。言うこといつも一緒で、いかに現代社会が間違ってるかってことと、私は医者が嫌いだってことと、女がどれだけ素晴らしい生き物かってことと、ゆるさん!とゆるす!っていつも言う。現代の産科学が間違っているかと。神の成すことであって人間が介入してどうにかなるとかってことじゃないとか。 工業的なものって、鉄とかって出来た瞬間が一番綺麗で、どんどん朽ちていくのに対して、元来日本でつかってきた木とかって、使えば使うほどに使い込まれて味が出て磨かれていく。ってのが先生の言い分なんだよね。 男女平等とか言ってどんどん女性の社会進出が進んでいるけれど、それは逆で女性が男性の地位まで自らの地位を下げている。それが男女平等の実態で、女性が男性化していると。女は子供産んで育てることをまずはやるべきなんじゃないかと。男性化が不妊の原因になっていたりする。 先生にカップルで会いにいくと、子供ができちゃう。特にその傾向が見られる。妊婦さん2〜30人が集まって話を聞きにいったり、先生の講演会を聞きに行ったあとに「子供ができたんですよ」って話をよく聞くんだよね。動物的感がうまれるとか。実際不妊治療的なことはなにもしてないと思うんだよね。「ワシのところに来るとみんな子供ができるんだー。はっはっは。」って言ってる。笑。産むまでの診察が楽しい「今日吉村医院行くの!るんるん」て感じだもんね。病院行く感じじゃない。 よしお できちゃったときはさやかが凹んで、でも、先生に「うむ!元気な子供じゃ!」とか言われて、えー!って感じでびっくりしているのに「なんだ!子供ができて嬉しくないのか!?」とか言われて「子供ができるのに結婚してるも、してないも関係ないんじゃ!」って言われて。既成概念が一蹴される。ポジティブになるね。ふつうはなんかいろいろ医者に注意されるし脅されたりするし、病院なんて行きたくないんだけどね。 そういう話を女の子にすると、よしお、男だからわからないかもしれないんだけど!って言われる さやか 吉村先生に「子供ができたら、びくびくするな!」って言われた。「びくびくしてないで、わくわくしてろ」と。10ヶ月間楽しかった。ほんと退院したくなかった。お産はグランドフィナーレだったね。 吉村医院のお産の家。ここで薪割りをしたり雑巾がけをしたりしながら出産までを過ごす さやか お医者さんが休日出勤したくないから、陣痛促進剤をつかったり、切ったり、吸引したりってことがあたりまえに行われているんだけど、吉村医院にいるとそんなこと信じられなくなるね。ほかの病院だと絶対計画的に出産させようとするからね。実際近くなると予定日を忘れなさいって言われる。 普通の病院だと、そもそも蛍光灯がぱーっとついて、足とか固定されて分娩台とかで産むわけですよ。生まれた赤ちゃんがいきなりわけわからないところに引っ張り出されて、それで泣いちゃうんだよね。普通病院では生まれたての子供は無理矢理でも泣かせなきゃダメなんだって教えるらしいんだけれど、生まれた瞬間に泣く必要はないはずなんだよね。 吉村先生の本にも書いてあるけど、つるんて感じで生まれてくる。自然にやってたらつるんて感じなんだよね。つるんてのが健康そうな感じだよね。出口を切っちゃったりすると、赤ちゃんも血まみれになっちゃうんだよね。吉村医院はほんと綺麗な状態で生まれてくるから、洗い流したりはしないんだよね。 逆子でも普通に出産させる。30週くらいの頃、逆子だった時期があって。びっくりしたんだけれど、先生は直しなさいとか言ってくれなくて「逆子ですね」で終わり。なんでも来い!っていう先生のスタンスが安心感を与えてくれるんだよね。 近所の黒谷金戒光明寺にて Q.そういえば最近はずっと家にいないとか よしお そうそう。子供連れで友達二人とシェアハウスしているんだけど、最近ずっと家族三人で放浪している。年末からずっと名古屋に帰ってないねぇ。赤ちゃん連れで18切符で名古屋〜山梨の富士山の麓まで行って、そこから車で岐阜に行って、京都に行って、それから東京に大晦日に行った。高速バスも使うしフェリーも乗ったし飛行機で九州にも行ったし、ウォークナインてイベントでソウルにも行った。マイナス10度の中でおむつもかえたね。ソウルから北朝鮮の国境まで、途中だけの参加だけれど30キロくらい歩いた。そのときも俺がずっとゆうきを抱いて歩いてた。 さやか 産んで最初の一ヶ月間は家にいた。体力を復活させなきゃなんだよね。最初はメールするのもつらいんだよ。パソコンも一ヶ月はつかってなかった。二ヶ月目からはいきなり動き出していた。 よしお 最初新幹線だったかな。二ヶ月目でヤフードームのナイターを見にいったときに、盛り上がっちゃっちゃってたときにゆうきがびびりまくっていて、あのときは悪いことしたなぁと思った。その前の日には赤提灯に行ってたし。 石川家の一員として今日も日本を駆け巡ります Q.これから仕事はどうしようって思ってるの? ふつうみんな旦那さんが働いてるよね。「みんな子供が生まれたら仕事やめたらいいのにって思う」子供は毎日顔が変わるんだよ。最初はマイケルジャクソンのものまねしてたんだよね。原始反応ってうごきがあって、それは二〜三ヶ月で終わっちゃったんだけどそういうのも見れた。 さやか みんな旦那が働いているから、嫁さんが外に出られないからって不安がっているんだよね。家庭を顧みない人っているじゃん、仕事があるからどうこうっていって家事しないとかって、あれって腹立つと思うんだよね。たぶん家目線てのがあって、そういうのが経験値として解ってないと。私もサラリーマンがどういう世界かわかっているから、よしおに、もっと早く働きなさいよ!とか言ってた可能性はあるし。 よしお 実家にいると「仕事もせんとー!」ってよく言われるけどね。ますます仕事ってなんなんだろう?って思うよね。ただ金を稼ぐだけのことだと思ってたりして、仕事をすごく浅く見てる人もいるだろうな。俺はそうだったけど、考えずに仕事が来るから。それがはたしていい働き方なのか。やめてみてすごく幅が広がった。 さやか 今の生活スタイルも、吉村医院は凄い影響しているよね。なんかの感覚が呼び戻された感じもするよね。人間なのか動物なのか。本来持っていた感覚がすごく呼び戻された感じがする。就職してバリバリ働いていた時期の価値観とは、まったく違う。よしおは農業を始めたいんだけれど、それもわかるし。 サラリーマン社会的には、育児休暇はやっぱりいたいよね。リスクは覚悟の上で育児休暇をとるっていう男性が増えていくといいんじゃないかなあ。まぁ貯金があるからなんとかなるってのもあるんだけれど、今は完全に無職。そういう状態じゃなかったらできないよねぇ。貯金を使い切るまでに次の仕事を考えようと思っている。これがまた面白いことに、よしおが仕事を辞めた直後に吉村医院に出会ったんだよね。それでさやかに子供ができた!って言われたと。計画をたてるよりは、おおむね導かれているっていう感じ。 よしお もともとリクルートにいたんだけれど。最初やりたいことをやるためにお金が必要だったからあこがれて入ったけれど、なんか違ったね。嘘の仮面で踊ってました。笑。結果的には週末が凄い充実している三年半のサラリーマン生活だったね。そのために稼いでいるような。 さやか よく驚かれるんだよねー。お母さん以外の人に抱っこされて泣かない赤ちゃんがいるなんてねー。って。こっちがびっくりだよ。笑。最近でも吉村医院に行く理由を見つけてはむりやりいってるよねー。 --インタビュー終わり よしおとさやかを見ていると、夫婦ってどういうものかっていうことをたくさん学ぶ。それと吉村先生から、生命の本質とはなんなのかってことを教えてもらっているっていうのもあるが、そんな彼らが吉村先生に出会って、これからどういう生き方をしていくのかっていうことにとても興味深く思っている。そんなさやかちゃんも、とある名古屋のメーカー勤めなのだけれど、育児休暇の二年間をうまくつかって、今年の春からSFCの大学院に入学することになったのでした。丁度SFCにも保育制度が整った直後で、その第一号になったそうだ。旦那のよしおはSFCの近くに住んで農業がやりたいらしい。そのための家を現在探しているところだそうなので、なにか情報があったらよしお達に教えてあげてほしい。 よしおTwitter @yosuiwo -- よしおのブログ「育児バカンス」 http://ameblo.jp/yoshio-josh 吉村医院 しあわせなお産をしよう 愛知県岡崎市 http://www.ubushiro.jp/ 「幸せなお産」が日本を変える (講談社プラスアルファ新書) http://www.amazon.co.jp/「幸せなお産」が日本を変える-講談社-α新書 2010.02.11 Thursday
慶應義塾大学 井上英之研究会にて
この事件は、なかなか文章では伝わらないかもしれないなー。と、思いつつ。絶対に書かなければならないと思うので書くことにする。 2009年の12月のある日、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに居た僕は、たまたまだけども、素晴らしい瞬間に遭遇して、ついつい貰い泣きしそうでした。井上英之先生の社会起業論の研究会(SFCではゼミのことを研究会と呼ぶ)の中間発表会だった。社会起業とか、ソーシャルアントレプレナーといった言葉にうんざりしていた僕は、どうなんだろう?と思いつつも、興味半分なところでちらっとのぞきに行ったまま帰れなくなってしまった。笑。そこで行われていたことは、社会的な起業云々といったことでは到底言い表せない、もっともっと人間と人間の根本的なぶつかり合いの現場だった。 (写真右がいのさん。「社会起業っぽい!トークをしよう」より) 学部生が、一人15分ずつパワーポイントをつかって、自分がいま進めているMyProjectの発表をしていく。そこで場を共有している学部生のメンバー達が、忌憚なき、またあるときはとても痛烈なコメントを突きつける。ある男子学生は、あまりの出来ていなさにコテンパンに言われてボロボロになっていた。そうやって自己確認をする場なのである。その様子を見ていると、SFCの半学半教ってこういうことかあ。と。改めて目の前で見て思うのだ。井上先生は大学という場所から考えると、まだ30代後半のとても若い先生だ。ちょっと小学校の体育の先生のような雰囲気も持っているが、戦略コンサルティング会社の出身で、学生達のプレゼンテーションにはだいぶキレキレの、しかしとても愛情あふれるコメントをくれる。そして、がんばったときは必ず最後に「よくやったね」という一言を忘れない。 井上先生の、その全身をなげうつようなひとりひとりへのレコメンドっぷりと、半学半教の熱気に押され、当初予定されていた5限から6限にかけての中間発表会は、そうとうな時間押していた。まもなく21時も回ろうかというときに、井上先生がカミングアウトを始めた。来年の春学期をもって、この研究会はなくなりますと。SFCを離れようと思っていると。一部の学生はそのことを既に知っていたようだった。そのとき、一人の男子学生が涙を流しつつ、切々と訴え始めた。「いのさん(先生のことを、皆親しみを込めてそう呼ぶ)は、前に比べてあまり学校に来なくなった。忙しくなるのもわかるけれど、俺たちのことをもっと見ていてほしいんだ」と。 このとき本当にうらやましいと思った。 なにがうらやましいかって、たぶん、その関係性がうらやましいと思ったんだと思う。結局高校生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、成長のために必要な場とかプロセスは一緒なんだ。社会人になるとそのような機会がなくなる。よって井上研のOB、OGは、このような機会があるとこぞって集まってきて、一緒に場を味わおうとしてやってくる。 「僕は正直言って先生っていうステータスが嫌なんだと。教員でなくていい。もっともっと普通に人としてつきあいたいんだ。僕だって悩んでいるわけなんだな。」 いのさんは、さきほどの問いかけに対して、こんなことを言っていた。しかし、学生に泣かれる先生っていうのはホンモノだなあと。あんなに学生に愛されてる先生って、テレビの中でしか見たことなかった。とても言葉には表せられないけれど、目の前で起きていることがあまりにも鮮やかで、いい映画を観た後のような感覚だ。 この日の最大の発見は、先生が学生にどれだけ時間を割けるかが、教育における大事な大事な大事なポイントであると。いくら先生がやっていることをスケールアウトしようとばかり思って仕組みを作ろうとしても実現するのはなかなか難しく。しかし本当に愛情を注ぎ込んでさえいれば、おのずと自然とスケールアウトしていくものだ。っていうことに尽きるだろう。 それから二ヶ月後の先日、2009年度秋学期の最終発表会が行われた。中間発表でボロボロになっていたあの男子学生は、その後の二ヶ月間で、見事素晴らしいプレゼンテーションができた。そして4年生の卒業生に、井上先生は必ずこの文章を読み上げて、彼ら彼女らを送り出してくれるのだ。 目の前の机も、その上のコップも、耳にとどく音楽も。ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。 -- いのけんのことは #inoken で! http://twitter.com/#inoken 井上英之研究室 http://social.sfc.keio.ac.jp/ 未来からの留学生 http://tamachan.jugem.jp/?eid=631 2010.02.09 Tuesday
本屋のイノベーション 松丸本舗
丸の内オアゾの中にある丸善の四階で、密かに本屋のイノベーションが起きていた。「松丸本舗」にびっくり!なにがどう驚くかっていうと、本が全てカテゴリーではなく「文脈」で配置されてるってところ。それもただの文脈ではない。人類の知の体系に基づいた、松岡正剛の脳みその中をそのまま形にしたような文脈で配置されているのだ。 自らのことをセイゴオと称する、この一見ファンキーなおじさんが松岡正剛という。僕のブログのスタンスとしては、難しくてよくわからないことを、なるべく伝わるように説明したいと思っているけれど、この人ほど説明が難解な人もそうそういないと思う。 編集工学研究所所長、東京大学客員教授等々の肩書きをお持ちの方だが、要するに現代の文人の一人だと勝手に解釈している。wikipediaによると、「高校から大学にかけて、革命的マルクス主義派に属し、学生紛争の論客として鳴らす」とある。なるほどそういう出自の方だったのか、と妙に納得する。 2000年頃から「松岡正剛の千夜千冊」なる書評サイトをやっていた。googleで本のタイトルを検索すると、かなりの確立で現れるこの松岡正剛さんの書評サイトは、いつしか千冊を超え、今日現在では「松岡正剛の千夜千冊 連環篇」として、1345夜を数えるまでになっている。 この人は、頭の中に壮大な年表というか世界というか、宇宙観を持っているんだろうと思われる。NTT出版から出版された「情報の歴史」を読んでいると、ただ、何千年もの年表を眺めていることにはあまり意味はなく、シェークスピアが関ヶ原の戦いと同時代であるとか、ピューリタン革命が日本の近代化に直結しているといったように、歴史を縦割りで見るのではなく、文脈を繋いでこその学びであり、アカデミズムの真骨頂なのではないのか、と思ったものである。そこまで文脈を繋いで世界を見れるということについてはもはや芸術的な領域に達しているのではなかろうか。 そんな松岡正剛さんが丸善とコラボレーションしてできたのが、松丸本舗らしい。本棚の棚板の幅はすべて40ミリ!そんな厚さの棚板がある本屋はほかにないという。渦巻き状に配置されている本棚は、平積みはまったく無いけれどいたるところに積み置きされていて、まるで松岡正剛さんの書斎の書棚のような状態なのである。もう10年近く昔、当時代官山にあった編集工学研究所の本棚を拝見したことがあるが、まるでファイナルファンタジーに出てくるような、古代図書館さながらの迷宮のような書棚であった。後にも先にもこれだけの地層を感じることができた本棚は、松岡正剛の本棚と竹村健一の本棚くらいな気がする。 ちなみにこの松丸本舗の書棚、メンテナンスはそうとうめんどくさいらしい。 準備期間に1年以上をかけ、30万冊近いストック本から、丸善と松岡さん主宰の編集工学研究所のスタッフ計8人が日々、本棚のメンテナンスに努める。松岡さんも毎週、閉店後に本棚をチェック。その痕跡が本棚の落書きや、手書きの推薦本掲示コーナーに現れている。ただ、ここまで濃密な知の体系に沿ったものでなくとも、いくつか文脈形情報配置がされた書店は既にあったのである。まずはみなさんご存じ、東京・青山の青山ブックセンターだろう。2004年の7月に一時は閉店騒ぎもあったものの、現在は青山本店のほかに六本木と丸ビルにある。 それから京都では大変有名な、左京区の京都造形芸術大学のちょっと手前にあるガケ書房は、文脈形書店の走りなのかもしれない。そのちょっと北2kmほどの場所にある恵文社一乗寺店も入り込むとなかなか出てこれないタイプの深い森のような本屋だと思う。京都にお越しの際は、北白川でこの二つの本屋をはしごするのは大変オススメ。 しかし、本屋に限らず、情報がただカテゴリーのみで分類されていることは、なんてつまらないんだろうと思う。こないだの孫さんの話にも通ずるけれど、人は感動があって、興味をもち、初めて主体的になれるものだろう。そこにたどり着く情報の整理のための最適解が、文脈や物語なんだろうと、少なくとも松岡正剛って人がなに考えてるのかがちょっとだけわかったような気がする。 -- 白川静 漢字の世界観 松岡正剛(平凡社新書) http://tamachan.jugem.jp/?eid=533 アラン・チャンは中国に眠るイメージを自在に変換するデザイナーである http://tamachan.jugem.jp/?eid=251 花鳥風月の科学 松岡正剛 http://tamachan.jugem.jp/?eid=236 2010.02.05 Friday
崖の上のポニョとその背景に潜んでいるもの
スタジオジブリの新作「借りぐらしのアリエッティ」は、7/17(土)公開。そのための発表に今夜の金曜ロードショーは崖の上のポニョのテレビ初公開だったのでした。 崖の上のポニョの舞台は広島県の鞆の浦なんですね。宮崎駿がスタジオジブリの社員旅行で訪れたっていう鞆の浦に惚れ込んだ宮崎監督が、二ヶ月間滞在しここを舞台に映画の構想を練ったということになっています。そんな崖の上のポニョは、一見おだやかな作品のようにも見えるけれど、その裏にはいろいろあるんだよね。映画制作当時、鞆の浦は開発の危機にさらされていたのでした。 鞆の浦、広島県福山市の南にあるこの港町は、江戸時代から続く港町だ。「浦」というのは、津々浦々(つつ・うらうら)といった言葉で今でも聞くことがあるけれど、要するに港町のことである。鞆の浦は「常夜燈」「雁木」「波止場」「焚場」「船番所」という、江戸時代の港湾施設が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみなんですね。あとはすべて、港湾施設がコンクリートで埋め立てられていたり、テトラポッドがあったりと散々たる様相を呈している。 この鞆の浦の港を壊して道路を作ろうとしていることを知ったのは、2007年のことだった。昔からの町並みのために道幅が狭く、通行人と車がすれすれのところですれ違う状態になっているということを理由に、広島県が道路開発をしようとしており、賛成派の住民と反対派の住民との間でもう20年もの間言い争いが起きていた。 2008年末に鞆の浦を訪れ、反対運動推進派のNPO「鞆まちづくり工房」をやられている松居さんにお話を伺ったところ、次の裁判で開発取りやめの方向になりそうだと聞き、既に事は決着を見ていたのでした。結局は大ヒット映画の舞台となった景観を破壊するのはいかがなものかと国会でも話し合われる事態になったことが、そのような結果になったのではないかと松居さんは言う。その、大ヒット映画をつくった宮崎駿さんと鞆の浦を繋ぎ、結果として「崖の上のポニョ」が生まれるきっかけを作ったのはピース ウィンズ・ジャパンの大西健丞さんだった。 事業体としてのNGO活動「ピース ウィンズ・ジャパン」大西健丞さんに聞く http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_20060307.htm もはや言うまでもないが、宮崎駿さんは自分がつくる作品に、ことごとくこのような現代社会への警告を、直接的ではないにせよなんらかの形で描いている。そんな宮崎駿さんが朝からゴミ掃除をしているというので、お話を聞きに行くという機会が去年の夏にあった。名古屋の平針という里山が開発保全問題に揺れていて、そのためにどうしたらよいかと名古屋市長である河村たかしさんが相談に来るという会だった。 2009.08.31 宮崎駿、日本人の帰る場所を作り続けている人 http://tamachan.jugem.jp/?eid=614 あくまで宮崎駿さん本人は、具体的な紛争に直接的には関わろうとしないというスタンスのようだけれど、世界のアニメーション監督という立場で出来ることを一生懸命考えているんだっていうことが、強く強く伝わってくる。次に彼が生み出す作品には、どんなメッセージが含まれているんだろうか。 -- 埋め立てのピンチにある“崖の上のポニョの海”こと鞆の浦に遊びに行ってみた http://greenz.jp/2008/10/21/tomonoura/ 約17万枚の原画のほとんどがこのオープニングの海のシーンで使われている。「ポニョの映像演出 奥井敦」 http://ascii.jp/elem/000/000/196/196436/ | - | 21:11 | comments(0) | - |
2010.02.05 Friday
ネットビジネスイノベーション政策フォーラム 孫正義部分のみ
慶應義塾大学SFC研究所 ネットビジネスイノベーション政策フォーラム キックオフシンポジウム speaker:孫正義氏 @masason(ソフトバンク株式会社代表取締役社長) date & place:2010.02.04 グランドアーク半蔵門 富士 (4F) にて ちょっと賑わってたので、テープ起こしならぬustream起こしをしてみました。 録画されたustreamの映像はこちらで。また、twitterでの議論は #nbipol で見ることができます。 孫さん、36:00あたりから -- ちょっと今日は、ソフトバンクのためというよりも、ヤフーのためというよりも日本の成長のためにどうあるべきか。日本の国民すべてのみなさまの願いではないかなと思います。このためになにをすればいいか。ITの角度から考えてみました。12月末に鳩山総理から日本のGDPを2020年に650兆円にしたいと。GDPを毎年3%ずつのばしたいと。大変大賛成であります。ヴィジョンのない国家はたいへんふらつくことになるわけですけども。環境と健康と観光。この分野で50兆、45兆、10兆円増やしたい。合計で105兆円になるわけですけども。650兆円と、現在の500兆円若。これに105兆円足してもギャップの70兆円があるわけです。これをなにでうめるというお話はありませんでした。ここで私は情報立国として70兆円を埋めるということを提言したい。三つの成長分野のところで、一番大きいのがITの70兆円の部分になるのではないかと。過去十数年でいろんな産業を見てみますと、唯一一番伸びているのがこのITの部分なんですが、孫子の兵法にもあるように「勝ちやすきに勝て」という話があります。成功させるためにはのばしやすいところを更にのばす。国家にしてもそうだと思います。いろんな他の産業ものばさないといけないんですけども。80年代、日本は電子立国ということが大いに言われていました。現在では電子部品を組み立てるということについては、台湾、中国、韓国といったところにだいぶ差を縮められてしまった。むしろ逆転された部分もある。だからこれからは情報立国としてレベルアップしなければならないかなと思うわけです。なんか今日はustreamでストリーミングされているようですけども、twitterでみてみるとプレゼンの資料がアップされていないというお話があったようですけども、是非カメラの方はときどき画面も映してほしいなと思いますが。 |