tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
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メディア論のその先へ
NHKスペシャル 放送記念日特集「激震 マスメディア」は、番組としては最悪の部類だった。マスメディアの時代が終わる云々などということはもう何十年も言われてきたことなので、今更そのこと自体を討論するつもりは無い。あの番組は、時代のあだ花だったのか、NHKがすべき役割としては正しかったのかもしれず、まるで時代の急激な変化に耐えられない悲鳴を聞いているかのようだった。

丁度そんなタイミングで、INSPIRE lab 第2回、講師にgreenz.jpの鈴木菜央さんと、個人発メディアの作り方について話します。

3/26 20:00〜 @tumaMo がUstreamで配信します。URLはhttp://ustre.am/5tLh。ハッシュタグは #inspire02

個人が発する情報が、ものすごいメディアとしてのポテンシャルが高まってきているように思う。個人の体験ていうものが、改めて情報価値があるようになってくると、だいぶ世界が違って見えてくるような気がしている今日この頃。

blogの中身の作り込みとtwitterの連携プレイがものを言うようになってきた。blogの中の、文脈の作り込みが、どう繋がっているかってことが重要になってきているように思う。最近、世の中は文脈なんだということに気がついて寸断された文脈を繋ぎ直してあげることで、良くなっていくことがかなりたくさんあるはずだ。

デザイナーってなんなんだろう?文脈接続屋なんじゃないか?なんとも思っていたり。

そうなってきたとき、ウェブマガジンの役割ってなんなんでしょう?雑誌の価値って?リアルな本の価値は?新聞は?


雑誌、新聞、テレビその他、既存のメディアからは編集方法だけが学べて情報ソースからはなにひとつ学べない時代。


最近ふと、持ってる本を全部裁断機にかけてスキャンしてiPadにぶちこんでしまえばいいじゃないか。っていうツイートを見て。そうだよなと思った。それで部屋から本棚がなくなる。リアルな本の価値についてはあえて議論せずに置いておきたい。でも本質的には、本棚がなくなることより、情報にタグ付けができるようになってハイパーリンクできて文脈がひかれることにこそ、デジタル化する意味があるのだろうと思う。そうなってくるとネットワーク化されない情報に意味はあるのだろうか?

メディアの変化、個人が情報発信をすることの意味はなんなのか。
そんな話ができたらと思います。


参加者
@tamachangg @ryutaro_i @8rukun @hoxai @a_kodama @rakusai @stkbys @scommunity @from_saico @tumaMo @niwatae

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INSPIRE lab 第1回 感動を生み出すソフトウェア 洛西一周
http://tamachan.jugem.jp/?eid=654

契機は2011年かもしれない
http://tamachan.jugem.jp/?eid=339

デジタルメディアの出現は、地球の生命史における4番目の跳躍だ
http://tamachan.jugem.jp/?eid=193
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ホントに持続可能な地域作り「西粟倉・森の学校」


オープニング企画 西粟倉・森の学校ナウ
speaker:牧大介氏(株式会社西粟倉・森の学校 代表取締役)@daisuke_maki
date & place:2010.03.18
3331 Arts Chiyoda(旧練成中学校)1F 株式会社トビムシオフィスにて

最近なんの仕事をしてるの?って聞かれると、なかなか答えに窮する。一言でいうと、ホントに持続可能なかたちでの地域活性をしてるところのお手伝いをしている。っていうことだろうか。たぶんこれからちょくちょくご紹介していくけれど、生物多様性イヤーに、まさかこんなに本質的に生物多様性に関わる仕事に出会うとは思ってなかったな、という感じなのです。

そんな地域作りをされている牧さんが、東京に出てきてお話されるというので行ってきました。大変長いのですが、最後まで読んでいただけると、きっと新しい世界の作り方が、ちょっとだけ見えてくるかなと思います。前回前々回の地球大学に行ってなかったらわからなかった文脈がたくさんある。けれど、その文脈の先から牧さんの話を聞いていると、本当にここには未来があるなあと思えてくるのです。

このところ毎日のように牧さんからのヒアリングを元に、ロゴのデザインを考えたりパンフレットをつくったりウェブの構想を練ったりしているのですが、近いうちに具体的なものをヴィジュアルでお見せすることができると思います。



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岡山県西粟倉村。人口1,600人の村がいまどのような挑戦をしようとしているのかをお話できたらと思います。森っていうのは出来てくるのにけっこう時間がかかる。自分の子供、孫の世代に財産として引き継げたら。そのような価値観がベースにあったわけですけども。家を守ってそれを繋いでいくとか。地域の自然を何世代も渡って繋いでいくということが難しくなりました。今は持続可能性だとか言葉がありますが。昔の人たちも自分たちの世代で消費し尽くしてしまうことはいいことだとは思っていなかったわけですね。青木さんといって地元の人で森の学校のスタッフですが、おじいさんが本当に一生懸命木を植えてこられた方なんですね。いまいるおじいさんおばあさんたちは、将来世代のためを一生懸命に思って植えてきたけれど、財産として興味を失ってしまっている。どんなに苦労をしておじいさんたちが植えてきたのかということを、孫に話す暇が無いんですね。いまのおじいさんたちは子供の頃に囲炉裏端で話を聞かされながら育っていった。



トビムシという会社が「共有の森ファンド」というファンドを立ち上げた。財産とか知識、技術。そこに込めた思いということをみんな一緒にして繋いでいくということはもうできない世の中です。ここ三年の間に40人くらいの人たちが一気に移住してきました。けっこうなインパクトなんですけど。森が好きで来てくれる人が増えたのは大歓迎だとおっしゃってる方がいました。都会に出てしまったお子さんに引き継いで、いくばくか財産にできたらいいと思ってらっしゃるんですけども、必ずしも自分の子供でもなく、外から入ってきていただける方でもいいと思っている。

まだまだ身体は動くと。70代で。だけども気持ちは動かない。誰も期待しれくれていないから。今、都会にいる人たちの中で、ほんとうに森を再生して美しい森に戻していけるといったときに、それを応援してくれる、出資してくれる人たちが生まれているんじゃないか。そしてこの地域作りに参加して頂く。場所を越えた村作り、地域づくりというものができないかという思いで、共有の森ファンドを始めました。その意味とか背景をご理解いただくには、大きく二つの節目を知っていただく必要があるんじゃないかと思います。ひとつは1960年代になにがあったかということ。それから現在に繋がる動きとして2004年。



1964年に東京でオリンピックが行われました。そのちょっと前にエネルギーが変わりました。その前1950年代にトラクターが入ってきました。地域の里山の生態系を循環してきて、木を切り出すとかっていうモーターが発達していない中で活躍していたのが牛なんですが、人間にとって重要なパートナーだった牛がいなくなったのが60年代前半でした。牛を養うために採草地が必要でした。日本中の山は採草地が大変広い面積が採草地だったんですね。西粟倉の山のうち1,000ヘクタールは採草地だった。そういう世の中の移り変わりの中でいらなくなった場所を、次の世代にどう引き継ぐのかということが当時の人々の大きな課題でした。家族ぐるみで山を育てるということをしてきた数少ない村です。そこが重要なひとつの転換期でした。



その次が2004年。当時、岡山県に美作市という大きな市が、合併でできるというときに、その合併協議会の中で合併協議会から離脱するということを決めたのが2004年でした。これもいろんな理由があるんですが、若い子供がいる夫婦は、このままだとあまり友達がいない学校で子供が育つことになると。合併して遠くの学校になってしまったとしても、バスで通うくらいの方が、友達が少ないよりはいいと考える人もいました。人口が減って、交付金も減って、地域自体が存続するのが難しいのならば合併する方がいいのではないかと判断する人もいました。しかし、合併しないということは、自分たちでなんとかしていくということを意味するのです。当時は1,700人くらいはいた人口なんですが、なんとかここで人が暮らし続けていかなければいけない。そのためには攻めに出ないといけないっていう。この村をどうしていくのかということを延々続けていく中で、2008年にひとつの旗を揚げたのが「100年の森構想」あと50年手入れを続けたら、こんな立派な100年製の木に囲まれた村ができる。昔にくらべていなくなった魚も戻ってくる。そんな地域が作れるんじゃないかっていうことで。まだ投資がいる。我々が計算した中であと10年は投資が続く可能性がある。今回役場が中心になって、400世帯が山を持っていると思うんですが、役場が全体を管理したなかで間伐をしっかりやりきろう、というのが「100年の森構想」であります。

貨幣経済が浸透して、1963年に水害が起きて土建事業が入ってくるとによって、人々は一気に金銭的には豊かになったんですけども、森はなくなっていった。
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| ログ | 00:14 | comments(2) | - |
最近撮った写真
最近。誰でも一眼レフカメラを持っているもんだから、人のカメラでばっかり撮っていて、久しぶりに自分のカメラのデータを取り込んでみた。そういえば今年はまだ一度も自分のカメラの写真でブログを書いていないという凄い事実に気がつく。笑。


多摩川水道橋にて。この年何番目かに綺麗だった夕焼けを見て駆けだして 2009.11.14


3年ぶりに行った南禅寺永観堂の紅葉ライトアップ 2009.11.29


岡山県西粟倉村にて。雪合戦。命中直後 2010.01.30


西粟倉村ピーアール隊長のかめちゃん 2010.01.30


新幹線で東京に着いた瞬間。どこの地方の雪景色だと思って 2010.02.01




栃木県益子町にて。スターネット 2010.02.14


四条烏丸の駅の前を通りかかったら、ショーウインドウの飾り付けをしていた華道家 木村貴史に出くわして。2010.02.20


その様子を撮影していたうちの同居人。2010.02.20




月に一回のアースデイマーケットで仕入れてきた、さいちゃんのご飯の会にて。2010.02.21
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地球大学アドバンス 第27回 生物多様性シリーズ : 2「生物資源と生物多様性条約」


地球大学アドバンス 第27回 生物多様性シリーズ : 2「生物資源と生物多様性条約」
speaker:竹村真一氏 × 長島孝行氏(東京農業大学 教授)
date & place:2010.02.15
新丸ビル エコッツェリアにて

竹村
蜘蛛の糸。構造的な強靱さ。あれにかなう構造物って人類はつくっているかなと思う。生物界には人間の創造のつかない凄いものがありますね。INAXは汚れないナノ構造のトイレをつくっていたりしますが、それはインドのカタツムリの構造からもってきている。インドネシアの蟻塚、非常に暑くなるんですけども蟻塚はクーリングシステムをもっている。シルクが紫外線とかガンに効くのかなって。人類はいままで進歩しすぎて自然を破壊してきたのではなくて、未熟だったから破壊してきたんだというのが私の持論でありますけども。生物種の大多数がものすごい勢いで失われている。一日あたり70km2の自然がなくなっている。面積において炭素の貯蔵限である森林が失われているとかいう量的な部分だけではなくてソフトウェアとしての部分が失われていること。そこにちゃんと取り組もうというのが今度のCOP10。このあいだのCOP15と同じ歴史を持っているのですが。自然をコンサベーション、多様性の宝庫である自然をいかに回復していくか。地球の気候の安定装置である熱帯雨林を保護していこうということもありますし、経済的な利益をフェアに南北でわかちあおうというのが生物多様性条約の論点であります。ブラジルとかインドネシアが、森を破壊してしか経済的に成長できないのではなく、ちゃんとそういう国々に経済的な資源が帰ってくる可能性。そういう問題も含めて人類の未来を考える岐路に立っている。

長島
生物多様性っていう言葉。中身がすっごく難しい。たまたま昨年夏に国連大学でシルクダイバーシティという名前で、一ヶ月間展示、講演をしました。一つはネイチャーテクノロジーっていったいなんなんだっていうこと。それからシルクダイバーシティ。地球のソフトウェアをもう少し有効に使う手段があるんじゃないか。それから米作りもやっていますがこれは時間があったらお話します。

繭(まゆ)はいろいろなものになります。粉にもなるし溶液にもなる。蚕以外にもまゆはいろいろあるんですね。Silkを超えたシルク。Cottonを超えたシルク。生物多様性条約。これは昔から言われている自然を守ろうと。それから利益を公正に配分していこうということ。生物領域とはちょっとかけ離れたところまで話はいくからいままでの生物学者の話では説明できない。

生き物。自然:シゼン:しぜん。なにも手を入れていないと漢字で書く。人間が手を加えたものをカタカナで書く。これ造園学だとあたりまえなのだそうですが、一番多様性にみちあふれているのはこの真ん中なんですね。田んぼの生き物ってトータルで2147種類もいる。2001年に文部科学省にレポートを出したんですね。人類というのは不思議な行動をとるんですね。再生不能資源(石油などの化石燃料)が21世紀のどこかで枯渇するんですね。それとともに再生可能資源も使ってしまうんですね。そして不思議なのが結果的に人類の人口まで減らしてしまうのです。再生する資源を先進国の人たちは使っていかなければいけないので。僕らが行っている「千年持続学」っていうのはここらへんのことを行っているんですね。千年持続するような、そのくらい長い年月で社会っていうものを考えていかなくてはいけないよ、ってあたりが私の研究の基本です。

20世紀の科学から脱却しなけりゃいけない。これを科学者に言うのはなかなか勇気がいるんですよ。なんてったって20世紀の科学は間違っていたってことを言わなきゃならない。全部ダメだったとは言わないけど失敗も数多くあった。枯渇する資源に委ねてしまったってこと。それに右をならえをしてしまった。今更と僕は思うわけですが。石油が使われ始めてからわずか半世紀です。それまでは自然という資源をつかって活動していたわけです。人類がなにを愛するのか。中にはものすごく自然を愛する人もいます。自然を残したければどうしたらいいのか。それは人類がいなくなればいいわけです。その駆け引きが難しい。
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| ログ | 14:34 | comments(0) | - |
常滑ラピュタ


愛知県にある常滑に寄ってみた。陶芸で街興しをしている所はけっこう好きでよく行っている。愛知県の南側、知多半島の突端のちょっと手前にあるこの陶芸の里は、名古屋から電車で約40分。中部国際空港の二つ前の駅で、かつては終点であったであろう駅を降りると、5分くらいで小高い丘が見えてくる。ここでは平安時代から陶器づくりが行われていた。

一時期は衰退するものの、江戸時代後期に復興して幕末に中国から導入された登り窯によって陶器作りが大量生産されるようになり、明治時代以降、陶管(陶製土管)やタイルが製造された。産業資材や衛生陶器の分野で全国屈指の生産地になる。そこからINAXが生まれ全国2位の製陶会社となる。それから常滑にはソニーの創業者の一人、盛田昭夫さんの実家である盛田醸造があったりする。





常滑が他の陶芸の里と決定的に違う点は、産業的な色合いが強い点であると思う。街全体がかなり小規模に密集していて、大量生産された産業資材、主に土管や瓶を道路や壁の資材として使っているために、町中がこんな作りになっている。陶芸の里というよりは、どっちかというと岡山の犬島にある銅の精錬所みたいな、いわゆる近代化遺産の部類に入るのかもしれない。なんにせよ中部地域っていうのは、常に製造業的な色合いを持つ地域だなぁと思う。





陶芸品ってやつは、いつ頃からか無性に集め始めた。しかしまだつくるに至っていない。料理をする上でそれを盛りつける器がどんなものかっていうことが、エクスペリエンスの要素の50%以上を決定してしまう。どんなに美味しい料理でも、器がダメだともうそれだけでぜんぜん違ってくる。なにも高価な器を使わなければダメだっていうことではないのだけれど、そこでいろんなことが見えちゃう。どんなに良い材を使った京町家でも蛍光灯で照らした瞬間に台無しになってしまうように。まぁでも常滑は元々が陶芸として発達してきた地域ではないんだろうか、あまり惹かれるものはなかった。



陶栄窯という登窯(のぼりがま)が残っている。明治20年頃のもので、全部で八室もある登窯は日本でも最大級だとか。このあたりが常滑に近代化遺産を感じるところだ。近代化遺産っていうのは、わりと日本中のあちこちにある。西洋における産業革命以降のいわゆる近代化を促進した形跡が残っている建造物のことなんだけども、レンガと石炭と煙にまみれて西洋に追いつけ追い越せという空気を感じる。

この街は、割と街並みが小規模で、丘にへばりつくように出来ているから、とてもラピュタっぽいんだと思う。





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九谷陶芸界の頂点
http://tamachan.jugem.jp/?eid=556

加賀・小松 九谷焼窯元ツアー 1泊2日の旅
http://tamachan.jugem.jp/?eid=557

九谷焼作家 人間国宝 三代徳田八十吉
http://www.mangetsu.co.jp/tokudayasokichi/

五条坂の陶器まつり
http://tamachan.jugem.jp/?eid=604

益子・スターネット
http://starnet-yuseisha.blogspot.com/
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