tamalog

Output and input from 1998 to 2010
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作り手と売り手、そして使い手の関係性。エフスタイルのものづくり


京都精華大でのプレデザイン授業 第三週
speaker : 西村佳哲氏 x 五十嵐恵美氏、星野若菜氏(F/Style エフスタイル)
data & place : 2010.05.29 京都精華大学黎明館 L-001教室 2限〜4限

たぶん、いま一番興味のある分野かもしれない。ものを売って、買って、使うということは、イギリスで18世紀に産業革命が起こってから現在までの間に、分業化、専業化が繰り返され、そして20世紀の初めにアメリカでT型フォードが大量生産されるようになった時点でだいたいの基本形が完成した。その後100年を経て現在の僕たちがものを売り買いしている状況になっているのだけれど、様々な観点からこのシステムの矛盾を日々感じながら暮らしている。大量につくられることで発生する大量のゴミの問題。大量に販売されることによる造形としてのデザイン上の矛盾、プライスと流通の原則の前では、なにをやってもいいかのようなメーカーとマーケット関係者の振るまい。このような矛盾が何故生まれたのかということについて、僕も十数年ずうっと疑問に思い続けているし、そして西村さんという人も思い続けてきたのだろう。今回のお話は、その原因の一つに、作り手と売り手、そして使い手の関係性が希薄になってしまっているのではないかという仮説に基づいて、その最新の調査結果と挑戦の報告といったような内容だったと理解している。

日本のものづくりに魅力がなくなってきたと言われはじめてだいぶ経つけれど、この一年くらいで遂に終わり(と同時にドラスティックな変化の時期を)を向かえつつあることを感じている。崖っぷちのソニーが、自らの最大の弱点であるソフトウェア技術を補うためにグーグルと戦略的提携を行うなどの対策がとられているけれど。ひとつひとつ掘り返していけば、さまざまな問題点があったといくらでも理由付けをすることはできるけれど。そもそものところで一人一人の思いを丁寧に受け渡していくことを僕らは忘れていたんじゃないだろうか。等身大のスケール(ここが重要)で、そういったごく当たり前のことが日本の隅っこから、小さく小さく始まっていることが、どういうことなのかを考えるいい機会になった。
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ぐるぐる。何故人は渦巻き文様に惹かれるのか


この文様を見たときになにを思い浮かべるだろう?
明治28年に、この渦巻き型の蚊取り線香が発売されて以降100年以上のベストセラーとなったために、たいていの日本人は、あの独特の香りのするお香しか思い浮かべられないかもしれない。

そのような声があることも覚悟の上で、西粟倉・森の学校のコーポレートシンボルとブランドアイデンティティにあえてこの渦巻き文様を使うことを提案させていただいた。

この文様はそもそも、とあるご縁からお付き合いさせていただいている、京都で唯一の手仕事による唐紙を作られている唐長さんのサロンで見つけたものだ。その後2010年の始めに、西粟倉村に初めて行ったのち、プロデューサーである牧さんのお話を伺っていく中で、そのあまりに力強い、原型そのものといえる形を使うに相応しい仕事であると確信した。基本的には普遍的にアジアでもヨーロッパでも古代から使われている文様として存在している渦巻きだが、唐長さんにインスパイアされてこのようなかたちになっていることは、明言しておきたい。

なので、僕自身が造形を生み出したわけでもないし、デザイナーと名乗れたものではないと常々思っている。西粟倉村の、本当に持続可能な地域作りの認知のために、バトンタッチをする手助けをさせていただいた。ということなのであって、デザイナーというよりは、編集者のようなものだなぁと改めて思い、その根源は自然そのものの造形にあるのです。

その渦巻き文様のロゴの意図を、はっくりくっきり言語化されている一節を今日たまたま見つけてちょっと嬉しかったので、そのまま下記に転載いたします。

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遺伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収に繋がらず、臓器移植はいまだ決定的に有効と言えるほどの延命治療となっていない。こうした事例は動的な平衝系としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように思えてならない。平衡状態にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているように見えて、結局は平衡系に負荷を与え、流れを乱すことに帰納する。

エントロピー増大の法則。エントロピーとは「乱雑さ」の尺度で、錆びる、乾く、壊れる、失われる、散らばることと同義語と考えてよい。秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可避的に進み、その秩序はやがて失われていく。すべては磨耗し、酸化し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピーは常に増大するのである。生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまり「動的平衡」である。個体の死。その時には既に自転者操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。

私たちは今、あまりにも機械論的な自然観、生命観の内に取り囲まれている。そこではインプットを二倍に増やせば、アウトプットも二倍になるという線形的な比例関係で世界を制御することが至上命題となる。その結果、わたしたちは常に右肩上がりの効率を求め、加速し、直線的に進まされる。それが、ある種の閉塞状況を生み、様々な問題をもたらした。いま私たちは反省期に至りつつあることもまた事実である。私たちは線形性の幻想に疲れ、より自然なあり方に回帰しつつある。そこでは、効率よりも質感が求められ、加速は等身大の速度まで減速され、直線性は循環性に置き換えられる。

自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目。そして私たちが住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不可思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一著 より

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西粟倉・森の学校
http://www.nishihour.jp/gakko/

世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=635

唐長サルヤマサロン
http://tamachan.jugem.jp/?eid=602
| - | 22:00 | comments(0) | - |
人間性の未来に対する、50年の相剋の歴史
こういう知識ってぜんぜん技術的な話ではなく、一つの思想が半世紀をかけて生まれてきた歴史として今や既に常識だと思っていたんだけれど、案外知らない人が多い。いままでインターネットとITはやたらといっしょくたにされて、技術的な側面ばっかりが強調され、誤解されまくってきた。いまだにそれは変わらない。けれどでもそれではそろそろまずい。コンピュータが使いこなせることが大事なんじゃなくて、個人と個人がネットワークされて、そこでどういうことができるようになるかを想像することが大事なのであって。その上で、なんでもかんでもデジタル化することが大事なんじゃなくて、人間性の本質に立ち返るためにデジタルがあるっていうことが大事なんだ。そのあたりを勘違いしている人が多すぎて、多すぎて。わからないとかで済まされる時代は終わったんだよ〜。無知ではもう済まされない。


下記の年表は、日本とアメリカのインターネットとコンピュータと、新しいメディアが生まれるまで。ある意味では、人が人であろうとするための人間性と向き合ってきた歴史だとも言えるだろうし、トフラー的に言えば「第三の波」を生み出してきた歴史である。

前提として。
15世紀ヨーロッパで起きたグーテンベルクによる活版印刷技術によって、当時ラテン語でしか写本されていなかったキリスト教の聖書を「大量に」印刷できるようにした。それを一、地方言語に過ぎなかったドイツ語に翻訳して出版したマルティン・ルターによって宗教改革が起こり、ローマ・カトリックからプロテスタントが派生し、ひいてはフランスで市民革命が起こるに至る。そのように15世紀の活版印刷技術に対応するものが、20世紀のインターネットだっていうのは、ずいぶん前から言われていることである。


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1964年
文明批評家マーシャル・マクルーハンが「ホット」と「クール」なメディアという分類や、「メディアはメッセージである」というテレビメディア論、グローバルヴィレッジ(地球村)のような分析・視点を著書「メディア論」の中で展開した。

1967年
評論家の竹村健一によってマーシャル・マクルーハンの解説本が出て、日本にマクルーハンが初めて紹介される。

1968年
アラン・ケイが、まだ大型のメインフレームコンピュータしか存在しなかった時代に、個人の活動を支援する「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱した。

1968年てのは、それ以前とそれ以後でだいぶ変わってくる。それまでは社会があって個人があったんでしょうね。期せずしてアランケイがパーソナルコンピュータを発表したのが1968年だったんですね。人間てなんなんだ。ってのが全部ばれちゃった時期だと思うんですね。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=167

1969年
米国内への核攻撃に対する軍事ネットワークの分散のために自律分散協調をコンセプトとした「ARPANET」が開発され、インターネットの原型となる。1990年以降、ARPANETが商用事業化され、インターネットと呼ばれるようになる。

慶應義塾大学理工学部に相磯秀夫研究室が設立される。相磯研から1969年に「ソニーコンピュータサイエンス研究所」を作った所真理雄が。1973年に「ユビキタス・コンピューティング」の坂村健が。1979年に「日本のインターネットの父」と言われる村井純が。1982年には「ウェブ進化論」の梅田望夫がそれぞれ在籍していた。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=595

1970年
ゼロックス・パロアルト研究所の設立。イーサネット(LAN)、レーザープリンター、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)等、現在のコンピュータの基礎がここで生み出される

大阪万博はテレビ時代の博覧会になるので、通産省は、当時非常に高名だったマクルーハンの弟子達にみてもらわなければならないということで、日本政府は調査費用として三億円を計上する。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=54

1974年
世界初のパーソナルコンピュータ「Altair 8800」が発売される。一般消費者向けに販売された世界初の個人向けコンピュータ。当時まだコンピュータは、巨大で高価かつ貴重な演算資源を個人が所有し占有することは、経済的に困難と考えられていた。

1979年
スティーブ・ジョブズが「ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件」としてパロアルト研究所を見学し、マウスとグラフィカルユーザインタフェース(GUI)が前提として動く研究段階のコンピュータ「Alto」に衝撃を受ける。これに影響を受けて1984年にMacintoshを発売するに至る。

1981年
未来学者アルビン・トフラーが「第三の波」出版。プロシューマーの出現を予言する。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=561

1984年
アップル・コンピュータがMacintoshを発売。発売を予告するCM「1984」は、全体主義的な未来像に挑戦状を叩きつけている内容で、そのカゲには巨人IBMの姿が見え隠れしており、その過激な内容と映像が全米の話題となった。

村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され日本におけるインターネットの起源となる。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=399

1990年
ティム・バーナーズ=リーによって、World Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの開設。80年代終焉、明治以来の工業化=物的大量生産の時代が終わり、「脱工業化社会」「第三の波」「知価社会」を模索する中設立され「未来からの留学生」というコンセプトが生まれる。相磯秀夫が初代環境情報学部長に就任する。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=631

1995年
Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がかかる。

2000年
ITバブルによって、急速に資金が雪崩れ込んだために、インターネットは従来型のメディア構造の波に飲み込まれ、マスメディアの延長線上とそう変わらない位置付けに矮小化されていく。すべては資本主義の渦に組みこまれていくかのように見えた。

物理世界とバーチャル世界の新たな関係性を説いた論文「アトムからビットへのパラダイム転換の諸考察」が情報文化学会で発表される
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001882411

2003年
スタンフォード大学のローレンス・レッシグ教授によってクリエイティブ・コモンズ誕生。従来の産業を保護するために極端に作り替えられた著作権法に対して、一石が投じられる。知的所有権のスタンスを表明するという概念が生まれる。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=5

2006年
ネットは新聞を殺すのか?西暦2014年、グーグルとアマゾンが合併し、グーグルゾンが生まれるという映像。「EPIC2014」が話題になる。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=339

Googleが脳に変わる日
http://tamachan.jugem.jp/?eid=85

2010年
新聞社、出版社の淘汰、改革が始まる。日本において、年間のインターネットの広告費が遂にテレビの広告費に迫る。従来のメディア構造が雪崩を打って崩壊し始めた記念すべき年。

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以上の歴史をふまえた上で、下記の文章を読むと世界がどう変化していくのか、という方向性の一端がうっすら垣間見えるような気がするのです。

デジタルメディアの出現は、地球の生命史における4番目の跳躍だ。竹村真一氏に聞く。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=193

そして、それらをほぼ共有した人たちで雑談していたわけだ。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=662
| 情報デザイン・メディアデザイン | 03:11 | comments(0) | - |
写真から見た八丈島
八丈島は、地域の危機の度合いとしては正直ぬるま湯だと感じた。しかしそれなりにも危機感はあって、もともと井上英之さんが、ANAの特割の一件(羽田空港-八丈島路線について、2005年10月から「特割1」が設定され、実質値下げとなった。ただし、継続には2005年10月から2006年3月までの搭乗者が前年度実績より10%(1万人)上回ることを条件としており、実現しなければ2006年4月から2005年9月以前の運賃に戻すとしていた - wikipediaの対応策を相談されたことがきっかけで井上研が合宿で島にやってくることになった。そのときに学部生だった柳明菜が「この島を盛り上げるためにあなたはどうしますか?」というゼミ合宿の課題に対して「私、ここで映画を撮ります!」と宣言して映画の撮影が始まった。その映画「今日という日が最後なら」のラストシーンで八丈島にお祭りをつくろう!と言い出したことがきっかけで、この島にかつてあった祭りが復活した。その4回目の開催に合わせてみんなで島に集まろう。というのが今回の趣旨だったらしい。ようやく納得。

ぬるま湯な感じ。というとネガティブなように受け取られるかもしれないけれど、なんだかとてももったいないのである。東京都下でお金が入ってくる上に、過疎化高齢化もそんなに深刻にはなっていない状態。だから危機感のようなものはあまり見あたらなかった。それよりも世界はもっともっと広いんだなってことに対して、リアリティを持った感じ。これはちょっと小笠原っていう所に竹芝桟橋から26時間かけて行ってみなくては。あんなとこ日本にまだあったんだね。新聞毎日読めないし、船の入港前日にはお店に品物がなくなってしまう。笑。滑走路もつくれないから飛行機が飛んで来れない。ってことはきっとなにかありそう、って直感が言ってます。



www.flickr.com|2010.05.02 - 06 八丈島
http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/sets/72157623884652231/

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2010.02.11 慶應義塾大学 井上英之研究会にて
http://tamachan.jugem.jp/?eid=658

2009.05.09 六館堂と映画監督 柳明菜
http://tamachan.jugem.jp/?eid=550

「今日という日が最後なら」八丈島映画応援団
http://8jo.jugem.jp/
| real japan travels | 13:01 | comments(1) | - |
植生から見た八丈島
八丈島に上陸すると空気が甘い。九州、沖縄、東南アジアともちょっと違った、甘ぁーい空気が漂ってきます。その臭いを発している植物の写真を撮っているだけでも楽しい。

この島の主要産業は、まさにこの植物、とくに花なのだ。ストレチア(Z軸で左上から3番目)トケイソウ(同1番目と12番目)は都内の花屋さんでもけっこうお見かけする。特に島の木にも指定されているフェニックス・ロベリニー(同2番目のヤシみたいなもの)は、この島の主力商品で、観葉植物として出荷されている。この木が島中の畑にグリッドで田んぼの稲のように栽培されているのだ。かつては1本1万円の値段で売れたこの木は、その後価格が暴落し、現在では観光と植物を中心とした特産品産業の複合がこの島の産業構成である。

しかし、植物の造形というものには抗しがたい魅力がある。なぜなら絶対に人間が作り出すことができないからだ。昆虫に魅せられた学者さんも、デザイナーさんも、このあたりに根源があったりする。何故、気温の変化でこうも鮮やかかつダイナミックな造形になるのだろうか?かくして南方の世界に対する世界の謎がまた一つ増えたのでした。



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地図から見た八丈島
http://tamachan.jugem.jp/?eid=677
| real japan travels | 12:37 | comments(3) | - |
地図から見た八丈島


久々に西粟倉村と京都以外のところに行きたくて、SFC井上研の人たちが八丈島に行くっていうんでついていってみた。思えば島っていうと瀬戸内の島ばっかりだったり、せいぜい隠岐の島の海士町くらいしか行ったことがなく、太平洋側にも当然、島は浮かんでいるわけで。そういえばぜんぜんなんの知識もないまま、とりあえず着いた。羽田空港から飛行機で50分。なんともあっさり着いちゃったもので、感慨も何もない。



飛行機は一日に三往復もしており、さくっと来てさくっと帰ることができてしまう。アクセスがいいようだけれど、風が強い島なので着陸できずに羽田空港に引き返すということが多々あり、ANAはあまり運行に対して積極的ではないらしい。2004年まで一日4便だったものが3便に減ったり、関西方面からの直行便が無くなったことで現在の状態に至っている。

当然船で、東京の竹芝桟橋から来ることもできる。距離にして287km。12時間の船旅となる。12時間てけっこう遠く感じるけれど、287kmって東京から名古屋くらいまで行けちゃう距離なのだ。深夜に竹芝桟橋を出発して、早朝に八丈島に到着する。島はやっぱり船だよね!っていう向きにはオススメ。



16時着の3便、ANA829便で島に到着。上空から見ると既に家の形や植生がだいぶ違うことに気づく。なんだかモコモコしていて、ちょっと日本の風景ではないような。亜熱帯気候なので、雨がものすごく多い。植生に関しては追って詳しく書くことにして、八丈島は北緯33度06分34秒の位置にあり、ほぼ福岡や大分あたりの緯度になるのだ。どおりで生えているものがまったく違うのである。そこらじゅうの植物がいつも見慣れている日本列島の植物とはなにか根本的にまったく違うのはとても驚く(それも東京からたかだか50分で来れてしまうところで)その温暖な気候から、かつて戦後の1960年代の八丈島は「日本のハワイ」などと呼ばれて積極的に観光誘致している時期があったが、70年代以降、海外渡航の制限が解除され、本物のハワイが近づいてしまったために観光客は減少傾向にある。



この島。チェーン店などは無いけれど、飲食もそこそこ揃っており、24時まで営業しているコンビニ(といっても個人商店)まで存在する。道路もやたら整備されていて、とても離島とは思えないくらい綺麗なのである。なぜならば、ここは東京都なのだ。地方交付金は無いけれど、東京都であることによって投下されている金額は大きい。元々かつて八丈島を含む伊豆諸島は駿河国の国主が支配する地域であった。江戸時代に幕府の直轄地になるが、明治の廃藩置県後はいったん静岡県に属するが、江戸時代からの物流や人の流れが江戸に向いていたために、東京府に編入される。当然、大人の事情的な国境線を巡る攻防、という事情が絡んでいるということもあるだろう。

しかし、ここまで書いていて気になった。果たしてどこまでが「東京都」なのか?



インフォグラフィカルな図にしてみて衝撃を覚える。東京都って実はこんなに大きかったのです。東京都生まれの人間としてショックだ。軽く日本列島と同じくらいの広さがあろうか。なんだか海士町とか瀬戸内海の離島のスケールとはわけが違う。おそらく一般人が公共交通機関で行くことができるのは小笠原の母島までである。それでも片道26時間半もかかるのである。それに渡航のチャンスは6日に1回しかない。南鳥島は三角形の島で、一片が2kmほど。なんとか滑走路一本引けたという程度の島であり、沖ノ鳥島に至ってはキングベッドサイズの岩なのだ。(追記:日本の排他的経済水域から計算すると、実は日本は国土の12倍もの面積の海域を領有していて、実はこんなに広い国なのだ)

この小笠原諸島という島のことは、とにかく1968年にアメリカから返還されたということが頭の中にあるだけで、あとは天気予報と台風のたびに聞くだけの記号としてしか認知していなかったな、という思いである。ウィキペディアの情報からどんな所なのかを想像するだけでもそうとう面白い。

ショッピングは本土からの輸送船が到着する前の日には、店から物がなくなり、船の入港日によってさまざまなスケジュールが組まれる。書店が無く、新聞も一週間分まとめて船の入港時に入ってきて店頭販売される。小笠原は宅急便が始まった最後の地域であり、1997年にクロネコヤマトが「最後の営業開始地域が東京都である」と新聞広告を打ったという。そして、日本一高齢化社会から縁遠い人口構成比をしているあたりがとても興味深いが、これは一度行ってみなければと思う。ここもまた戦争と戦後の諸々に翻弄された場所なんだろう。まぁ、とにかく八丈島のおかげで世界がだいぶ広がった気がする。



話を八丈島に戻すと。言うまでもなく魚は美味い。コハダやトビウオを漬けにした、島寿司なる寿司がどこにいっても出てくる。それからくさや、明日葉、焼酎、黄八丈と呼ばれる染め、フェニックス・ロベレニーという名のヤシ、フリージア、パッションフルーツなどなどが特産品であるとウィキペディアには書いてあるが、ほぼ網羅していると思うが、続きは次回。

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慶應義塾大学 井上英之研究会にて
http://tamachan.jugem.jp/?eid=658

日本の排他的経済水域
http://www.h5.dion.ne.jp/~s_coral/webmaster/haitatekikeizaisuiiki.html
| real japan travels | 18:19 | comments(1) | - |