tamalog

Output and input from 1998 to 2010
このウェブサイトは、2010年末で更新を終了し http://tamalog.me/ に移行しました。
数少ない天然のウナギを手に入れて食べてみると「なんてことをしてしまったんだ!」と、思います。
西粟倉の牧さんが「僕はちょっとウナギのことに関してはうるさいんですよ」と言い出して、始まった天然のウナギの話はかなり興味をそそる内容でした。



西粟倉でホタルが出てくるのはちょうど夏至のころ。水が綺麗な場所にしかいないホタルですが、水や水域の環境が整っていなければ現れない生き物たちが他にもたくさんいます。かつては、西粟倉の川には夏になると天然のウナギがやってきていました。ウナギがきちんと川で育つということは、森から土砂の流出が少ないことが重要です。土砂が川の中にたくさん流れ込むと、石と石の隙間が埋まってしまってウナギの巣になるような場所がなくなります。森から川に土砂が流れ込むと、いろんな魚の住むところを奪ってしまう。隠れるところがないと、鳥に食べられてしまうし川の中の空間構造が複雑でなければならないのです。

おいしい天然のウナギが食べれるっていうことは、森も川もコンディションが良いってこと。

シラスウナギ(ウナギの稚魚)の乱獲という問題もある。完全養殖ができるようになるっていう話もあるけれど、今のところウナギはシラスを獲ってきて養殖するしかない。根こそぎ獲っちゃうから、天然のウナギが川を遡上する可能性が低くなる。なんとか無事に川を遡上してきても、成長していくためのエサと住み場所がなくなってきているわけです。おいしい天然のウナギが食べれるっていうことは、森も川もコンディションが良いってことなんです。ウナギのエサになる他の魚もたくさんいるわけで。



この「なんてことをしてしまったんだ!」という感覚を共有してもらいたい。

アユとかウナギがいっぱいいれば日本の自然は豊かなんですよ。それが3〜40年前の何十分の一くらいの生物量になっている。そんなにお金をかけなくても、夏になれば日本人はいくらでも天然のウナギが食べられたんです。瀬戸内海から相当な距離がある西粟倉でも、ウナギは上って来てくれていた。経済が豊かになって、お金である程度買えるようになったけれど、お金で買うとどえらい高いものになっている。数少ない天然のウナギを手に入れて食べてみると「なんてことをしてしまったんだ!」と、思います。ほんとに美味しいですから。十人くらいの投資家さんで、夏に限定で天然のウナギを食べるということをしているのは、この「なんてことをしてしまったんだ!」という感覚を共有してもらいたいから。これだけ美味しいもんが食えない世の中になったんだっていうことを解って欲しいのです。昔は子どもたちが遊びの中でこの美味しい食材の調達をやってました。ウナギ捕りほどエキサイティングでそして美味しい遊びはないですよ。ウナギを捕まえて満面の笑みを浮かべる子どもたちの姿は、今の西粟倉にはもうありません。ほんとに残念なことです。

土曜の丑の日っていうのは七月なんだけれど、天然のウナギがおいしい時期じゃないんですね。

お盆以降にぐっと油がのってきて、おいしくなります。魚の旬って二つあって、食べてほんとにおいしいっていう旬と、この時期にたくさん採れるっていう意味で旬って言っているものがある。鰆(さわら)なんて典型的だけれど、春は瀬戸内の浅いところにたくさん集まってくるんだけれど、その頃は栄養分が卵巣精巣に全部行っちゃっていてあまりおいしくなくて、ほんとは1月〜2月がおいしいんです。ウナギも食べたときに美味しいのは、春とか冬なんだけれど、かなり最高なタイミングで天然のウナギとりがうまいおじさんに手配をして、お迎えするのが夏の源流ツアーなんです。というところで、原生林を体験して、天然のウナギを食べるっていうところがミソなんです。

去年はウナギをさばくっていうことをできるのが、僕しかいなかったんで、朝の2時か3時までウナギをすぐさばいて食べれるようにしておかないといけないから、倒れそうだったんだけれど。ほんとはさばいてすぐぴくぴく動いたのを焼くのがおいしくて、タレも自分でつくった。このツアーはとんでもなく手がかかっているんです。

「昔は牛肉なんて食べられなかった」って言ってるようなおじいちゃんも、天然のウナギとアユは腹いっぱい食ってたんです。

高知の四万十川での話ですけど、「昔は牛肉なんて食べられなかった」って言ってるようなおじいちゃんも、天然のウナギとアユは腹いっぱい食ってたんです。「戦争中はなかなか腹一杯くえなくて困ってた」って言うんだけれど「ウナギとかアユとか昔いっぱいいましたよね?」って聞いたら「ああ。そういえばそうだったな。食べたいだけ取って食べてた」って。今となっては贅沢な話だなぁと思います。




ウナギやアユの住処を作り出している水。その大元を作り出しているのは、西粟倉の最も北にある、原生林です。良い森ってなんなのでしょう?急に水の量が増えなかったり、水が濁らないのが良い川ということになります。良い川が存在するには、水を溜め込む良い森が必要です。原生林には、高い水源涵養機能があるのです。

一斉に光が入らない状態というのは、人工的にしかできない

原生林の中には、若い木から古い年寄りの木まで中にはあります。大木が倒れると空に大きな穴ができます。200歳、300歳というところまでくるとかなり大きな空間を占拠しています。その木が倒れてぽっかりと空が見えるようになると、そこから植物たちの陣取り合戦が始まる。周りにある木が空間を埋めることもある。下からもどんどん若手も出てくる。局所的には世代交代が起きていて、総体として一定の姿が保たれているのが原生林の姿なんです。森の下の方でも日が射さないなりに少ない光をうまくやりくりして生きていく植物がいます。笹があったり、若い木があったりして。多様で複雑な空間構造になっていて、全体として安定しているのです。だから逆に、一斉に光が入らない状態というのは、人工的にしかできないわけです。人工林だと急にまとまった面積で一斉に同じ年齢の木を植えます。同じ年齢の木ばかりが大きくなることは自然の中では起きない。だから、放置された人工林ように、森の中が真っ暗になるという状況はそもそも起きにくいのです。間伐さえちゃんとしておけば、人工林だって豊かな良い森にはなるのです。



森の水源涵養機能

原生林に入ってしばらく歩いていくと、地面がふかふかになってくるのを足で感じます。A0(エーゼロ)層とかオーガニック層と言われる土の表層の部分がよく発達しているからです。ここがスポンジのようにたくさん雨水を吸い込むというのが、森の水源涵養機能。西粟倉の特徴は、一番上流に原生林があって、百年を超える立派な人工林があって、さらに40年〜50年の人工林があって、いろいろなタイプの森をとても狭い範囲の中で見ることができます。



この記事は西粟倉・森の学校発行の季刊誌「ニシアワー」でお読み頂けます。
http://www.nishihour.jp/pdf/kikanshi-natsu.pdf(PDF形式、30.2MB)

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原生林と腐海の森
http://tamachan.jugem.jp/?eid=688

生態学的な思考による地域のデザイン「ニシアワー」
http://tamachan.jugem.jp/?eid=676

ホントに持続可能な地域作り「西粟倉・森の学校」
http://tamachan.jugem.jp/?eid=670
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デザインって本当に人を幸せにしているのか?ランドスケープ・アーキテクト 山崎亮


トビムシ オープニング企画「ランドスケープアワー」studio-L 山崎亮
speaker:山崎亮氏(株式会社studio-L 代表)@yamazakiryo
date & place:2010.03.21
3331 Arts Chiyoda(旧練成中学校)1F 株式会社トビムシオフィスにて

僕はランドスケープデザインということをやってます。風景をデザインする仕事。1862年にニューヨークにセントラルパークをつくったフレデリック・ロー・オルムステッドという人がいます。

日本は幕末ですね。その当時マンハッタンはまだ集落が立ち並ぶ場所だったんですが、その時代に地政学的にいって将来ここに高層ビルが建ち並ぶ場所だといってここにあらかじめ緑の場所をつくっておくことが重要だと予見してつくったという。自分がこのような広い公園をつくる職能をなんと呼ぶかっていうことについて、こういう仕事は建築家って呼ばれちゃうんだけど、ランドスケープデザイナーの第一号だと言われています。庭を設計したり、会社や大きな建物で空いてるスペースに緑をつくる仕事をランドスケープデザイナーと呼んでいます。風景をデザインするって言ったとたんに「そんなことできるのか?」って思えてきてしまいます。あるいは風景の側からするとおまえにデザインされるのか?って思う。同時にコミュニティデザイナーって名乗っているときもあるのですが、コミュニティもどっかにデザインされることでもないと思うのです。ソーシャルデザインとかね。大きなものをデザインするときにつきまとうことなのかなと思っています。それが一点目の違和感

それから次に、これからどんどん日本の人口が減っていきますね。2100年には、1910年とほぼ同じくらいの人口規模になるんじゃないかと言われております。2050年で、1970年くらいの人口規模。つまり、これまで大阪だったとすれば、里山を壊して宅地にしようと言っていて宅地の周りの緑をどういうふうにつくっていこうというのがランドスケープデザイナーの仕事だったものが、これからはなにをつくっていこう?というわけです。人口が減っていくと同時に税収も下がっていきますから、公共事業っていうのも順調に減らしていかなければならないわけですね。
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個人発メディアの作り方 greenz.jp 鈴木菜央


INSPIRE lab 第2回 個人発メディアの作り方 鈴木菜央
speaker:鈴木菜央氏 @suzukinao(greenz.jp編集長)
date & place:2010.03.26
株式会社ビオピオ オフィスにて

written by @tamachangg
participant : @ryutaro_i @a_kodama @stkbys @scommunity @tumaMo @yu_nakamura8

だいぶあいだがあいてしまいましたが。iPadが発売する前、出版業界再編、黒船がやってきた!さあ大変だっていう妄想をばりばりにふくらませていた今年三月の末。ようやく楽しくなってきたと思っていた頃に、greenz.jp 鈴木菜央さんにお話して頂きました。

丁度一年くらい前から、急激に普及し始めたTwitterでたぶん僕の周りでは一番最初に使っていたのは菜央さんだったと思います。個人が発信する情報のポテンシャルが急速に高まっているのを、うまくウェブマガジンというメディアと結びつけ、ただ投げっぱなしの情報発信ではなく、ゆるやかにコミュニティ作りをしている舞台裏から、編集とはなにか?自分自身の暮らしとの一体化までありのままを語っておられます。
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| ログ | 20:21 | comments(0) | - |
原生林と腐海の森
西粟倉に行く時はなんだか生命か生態か森林に関係する本を読んでいる。特に意識しているわけではないけれど、前々から読まねばと思っていたものを、一冊ずつ取り出している感じ。

前回は福岡伸一「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」を読んでいた。生命とは何か?生命の本質っていうのは、エントロピー増大の法則にある。エントロピーっていうのはどんどん散らかっていくこと。生命っていうのは脆いようなイメージがあるけれど、本質的にはどうにも押さえられないくらい強いものであること。生きていくうちにどんどん散らかって、やがて秩序を失っていって、あちこちで障害や機能不全が起こって、そのために死というプログラムが仕込んであって、そして次の世代によって再構築される。延々とその繰り返しであるっていうことを、動的平衡という。

前々回はメアリー・マイシオ「チェルノブイリの森」を読んでいた。1986年4月26日に起きた原子力発電所の事故の後、20数年経って立ち入りが禁止されている発電所20km圏内の周辺地域は広大な森に変わっていた。という話。事故の直後は草木がまったく生えない荒野になるとか、生物が巨大化するなんていうSFのようなことが言われていたけれど、生態系はもっとしたたかだった。いまなお汚染されているにも関わらず、植生は元に戻り、ヨーロッパ中から、人間がいない場所を求めて希少種の動物が集まり完璧な食物連鎖が生まれていた。というお話。

そして今回は宮崎駿「風の谷のナウシカ」でした。この本は、ずうっと前から大きな大きな宿題でした。映画版は見たことがあったけれど、コミック版を読む気には何故かなれないまま、風の谷のナウシカ全7巻BOXセットが本棚の奥底に眠ったままになっていたものを、デジタル化したっていうのもあって読んでみたのでした。文脈を一つずつ遡っていって、ようやく辿り着いたという感じ。大前提として竹村真一さんの宇宙観的な視点による季節やエネルギー循環の話を聞いた上で、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を読み、この国に数多ある伝統文化とその根本にあるアミニズムの世界観を追いかけ、そのもっとも源にあったのはこの国の風土であり、そこに存在する自然だった。そういう文脈の上でやっと辿り着いたところ。

nishihourのサイトをつくる前に、となりのトトロを三回か四回見てつくっていたりするんだけれど、今回のお仕事は牧大介という人との対話だけではなくって、なにより宮崎駿との対話をしなければならないんですね。そんな牧さんも、やっぱり「風の谷のナウシカ」によって生態学の世界に入った一人だったのでした。


そんな西粟倉の最も北にある、西日本で一番目か二番目くらいの大規模な原生林に行ってきました。

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www.flickr.com|2010.06.19 西粟倉 源流の森ツアー
http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/sets/72157624330018346/

nishihour ニシアワー
http://www.nishihour.jp/
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松岡正剛 立命館大学 白川静 生誕100周年フォーラム
立命館大学 白川静 生誕100周年フォーラム
speaker : 松岡正剛氏(編集工学研究所所長)
data & place : 2010.06.06
立命館大学 衣笠キャンパス 以学館2号ホールにて

なんか京都にいると大学にばっかりいるな。と、思いつつ。精華大の翌週は立命館大学におりました。

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できるだけカジュアルな話をしたいと思いますが。1970年に漢字という岩波新書の本を出されたときに「遊」(ゆう)という雑誌を発案し、翌年創刊しました。私の27から8歳にかけての創刊だったんですが、非常に大きな挑戦でした。しかも当時漢字一字の雑誌というものは書店には無かったと思うのですが。私はなにかこれは時代に挑戦するために変えなければいけないと思いましてね。そこで遊というタイトルにしたのですが、それこそが白川先生が当時岩波新書から出された本に強烈なインパクトを受けたせいでした。後に白川先生に連載していただくわけですが「遊」という漢字の意味をお願いします、とお願いして書いて頂いたのですが、今度は道字論、道という字の話になり、約二年間くらい連載をしました。先生が最も好きな漢字が遊という文字だったということが解ったのはそれから更に二十年後のことでした。いったいなぜ白川先生が遊という字に注目され、私が惹かれたのか。それについてお話したいと思います。

私、編集工学や編集ということを仕事や研究にしております。編集というのは新聞を編集するとか雑誌を編集するというふうに使われておりますが、私は必ずしも狭く編集をとらえているのではなくて、人間がイメージを頭の中で浮かべたときに投影して、なにかに定着するまでのすべてを編集と見なしています。私たちの頭の中にはイメージというものがあるわけですけども、それがマネージされている。マネージというのはマネージメントという言葉でいま大変、企業では大事な言葉ですが、もしマネージメントがあるのならば、イメージにもイメージメントという言葉もあったであろう。そう思って、そこに分け入っていく。それが編集の仕事であり、研究だ。というふうに思ってるんですね。ということは、そのためにはいくつか、赴かなければならないことがある。一つは、幼児がどのようにイメージを言葉や身振りや、あるいはコミュニケーションにしているのかということを研究しているわけです。あるいは二つ目は、古代人はどうして言葉や文字というものを持ち出したのか。日本は古代、長らくオラルコミュニケーション、文字はつかっていなかった。少なくても漢字がやってくるまでは文字は使っていないんです。だとするといったいどうやってコミュニケーションをしていたのか?中国の甲骨文化の前はどうしていたのか?白川先生は、このイメージの世界になにがあるのかということ、どう社会化されたのかということを研究されたわけです。みっつめ、古来そのようなことはどのように学問になったのか。例えば言語学というのはいつできたのでしょうか?15世紀でしょうか、ルネッサンスでしょうか?ローマでしょうか?ギリシャ、あるいは漢の時代でしょうか?また、民族、あるいは風習、そのようなものを研究するようになったのはいつでしょうか。おそらくは文字が確定し、そのいくつかが民族あるいは国家にわかれ、民族言語が並立、あるいは林立、ないしは乱立してから、言語やコミュニケーションということが気になり始めたんですね。

国風というふうに書いて、日本ではくにぶりといいますね。脳とどう関係があるのか。手を振ると日本ではこっちに来なさい、ということになるし、英語圏では、あっちにいけっていうことになりますね。それと同じように言語と文字表現は変わってくると思いますね。白川先生の言語学には針が一杯出て来ますけども、身体性を持っていたんだと思います。例えば山水画というのは見上げる、のぞき込む、見通すというヨーロッパとはまったく違った遠近法の見方をしますが。先生は後に共時論をお書きになりますけども。日本の禅は、南の禅の影響を受けているんですね。奈良の仏教は最初、北魏仏教が入ってきていますから北から入ってきているんですね。それらは学問だけでなくて、芸能や芸術にどのような影響を持ったのかが重要です。





暮(くれ)ってのはシャーマンの女性の媚びを売っている姿を現しているわけですね。文字の中に芸能性や芸術性がとってもあったわけですね。野村万之丞は、中国のほぼ大半の芸能を訪ねて、弦楽や能とどう関係しているのかを調べていました。それは白川文字学の奥にある人間のパフォーメントとして大事なんですね。

以上のようなことを、私は白川先生の、漢字という本から衝撃を受けました。イメージとイマージの間にある世界に行かなければいけないと思ったわけでした。自分の仕事として、研究として、文字とか漢字を白川先生から教わりつつ(勝手に私が学ぶだけなんですが)ち、と、さを、子供がよく間違えますね。くさび形文字はだいたい途中で回転します。北九州に出土した卑弥呼の時代に、和という字がこのように 表現されているのですが。

文字の世界には人間の身体があるわけですね。腕のストロークがどれだけ動きやすいかが、文字の文化と非常に関係がある。編集的な思想や、編集的な変化に応じて、白川先生を学ぶということをしてきました。途中からそういう勉強の仕方ではまったく足りないということに気がつきました。それは、何故あのような白川先生が書かれたような世界は、今日無いんだろうか。あんなに素晴らしい生き生きしたものが、どこで失われたんだろうか。じゃあ、いつ失われたんだろうか。たとえば王という字はまさかりを持った字であったり、家という字には犬の犠牲が潜んでいる。くらいは今日でもなんとかわかるし、そういうイメージと連続的に持てるかと思いますが、イメージの中でいくつかの重要なものは、まったくどこかで失われているんですね。先生が言われた「巫祝王」(ふしゅくおう)という。絶対王ですね。こういうシャーマンはどっかでいなくなったわけです。卑弥呼の頃なのか、藤原の頃なのか、後醍醐の頃なのか。私の中で気になったわけですね。漢字というものはいつまで呪能を持っていたのか。やっとそこで白川先生の研究書を読むようになったのですが。





興(きょう)という字。これに驚きました。ピクトグラム、図表文字がいっきに甲骨文字に変わったわけです。それは周、もしくは殷の時代に絶対的な巫祝王が現れたわけです。それを、秦の始皇帝が全ての文字を一旦中止させて、文字を置き換えたわけです。長らく革命は、文字をつくりかえるか、通貨を切り替えるか、暦をおきかえることで成立しています。これはレーニンも言っていますし、ゲバラも書いています。

起興。興を起こすこと、というメソッドがあって、紀貫之が真名字(まなじ)をかいたときに、興というものがひとつのパスワードというかコマンドというか、なにかリーディングフレーズとなっているんですね。三歳、五歳の頃、私たちがなにをしゃべっていたのかを思い出せないように、私たちはあの時代を起興できないわけですね。万葉集は幸い、万葉仮名が入ってきてからまとめています。そこで白川先生は万葉の民俗学を研究されはじめたんですね。万葉の中の変化、たらちねの、と書いたらどうして母が出るんですか、ひさかたの、というとどうして光が出てくるんですか。古今和歌集の頃はまだそれが生きていて、生きたまま流布していて、百人一首にも伝わっている姿が見えるじゃないですか。驚きました。そういうことを持って、自分は単純に編集ということを考えていたな。と。幼児は、学校で文字を学んで、だんだんだんだん成長してくると、単純に思っていたんですね。どうもそうではない。むしろ、一旦失われることが、忘却のみならず棄却もある。本来私たちは発明したことの本筋や本懐を忘れるという本質に気がつきました。聖書の中にバベルの塔のような物語があるように、簡単に聖書には書いてありますけれど、ほんとにそうなのかなと。ネアンデルタール人は、既に死の概念があって、埋葬をしていたという。けれど文字は持っていない。漢字や文字の中で、そのままそこで封印されたこともあるんじゃないか。そのようなことから編集はリニア、線形的に進むということではなく、じぐざぐに、封印され時には殺害され、白川先生の、初期に研究室でお書きになられていた50代前半のものを読み直しますと、白川文字学というのは、封印と殺害と開示、によって構成されていると気がつきました。

さらに申し上げておきたいのは、そのようなことを辞書にされた。そのようなことは衝撃でした。当時先生は大量の原稿をお書きになったとおっしゃられていたのですが、辞書を書かれているとは気がつきませんでした。編集ってのはちょっと大変だぞって思い直しました。その頃に世界中の辞書をトレースするという研究に入りました。たとえばユダヤの民族の十二使のなかにも入っています。レキシコグラファーが、時代時代において、新しい概念革命を起こしていたということに気がつきました。辞書というのは既存の意味ということを対象にするだけでなくて、レキシコグラファーが、その時代時代に、セマンティックな提案をするということだと、やっと気がつきました。インクポッドタームという、例えばどうしてイギリスに議会ができたんですか。あるいはマグナカルタができたんですか。それらは全部レキシコグラファーがつくった理想的な概念なんです。英語というものをつかって、新しい自由ということやジェントルということを作っているんですね。リバーからライバルが生まれてきたり、その前のロビンフッドの時代には使われていたかもしれないけれど、そういう意味では使われていなかったわけですね。辞書というものはただならないものである。

辞書っていうものは戦争なんですね。革命なんです。三つだけエポックメイキングなことをお伝えしたわけです。
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作り手と売り手、そして使い手の関係性。エフスタイルのものづくり


京都精華大でのプレデザイン授業 第三週
speaker : 西村佳哲氏 x 五十嵐恵美氏、星野若菜氏(F/Style エフスタイル)
data & place : 2010.05.29 京都精華大学黎明館 L-001教室 2限〜4限

たぶん、いま一番興味のある分野かもしれない。ものを売って、買って、使うということは、イギリスで18世紀に産業革命が起こってから現在までの間に、分業化、専業化が繰り返され、そして20世紀の初めにアメリカでT型フォードが大量生産されるようになった時点でだいたいの基本形が完成した。その後100年を経て現在の僕たちがものを売り買いしている状況になっているのだけれど、様々な観点からこのシステムの矛盾を日々感じながら暮らしている。大量につくられることで発生する大量のゴミの問題。大量に販売されることによる造形としてのデザイン上の矛盾、プライスと流通の原則の前では、なにをやってもいいかのようなメーカーとマーケット関係者の振るまい。このような矛盾が何故生まれたのかということについて、僕も十数年ずうっと疑問に思い続けているし、そして西村さんという人も思い続けてきたのだろう。今回のお話は、その原因の一つに、作り手と売り手、そして使い手の関係性が希薄になってしまっているのではないかという仮説に基づいて、その最新の調査結果と挑戦の報告といったような内容だったと理解している。

日本のものづくりに魅力がなくなってきたと言われはじめてだいぶ経つけれど、この一年くらいで遂に終わり(と同時にドラスティックな変化の時期を)を向かえつつあることを感じている。崖っぷちのソニーが、自らの最大の弱点であるソフトウェア技術を補うためにグーグルと戦略的提携を行うなどの対策がとられているけれど。ひとつひとつ掘り返していけば、さまざまな問題点があったといくらでも理由付けをすることはできるけれど。そもそものところで一人一人の思いを丁寧に受け渡していくことを僕らは忘れていたんじゃないだろうか。等身大のスケール(ここが重要)で、そういったごく当たり前のことが日本の隅っこから、小さく小さく始まっていることが、どういうことなのかを考えるいい機会になった。
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ぐるぐる。何故人は渦巻き文様に惹かれるのか


この文様を見たときになにを思い浮かべるだろう?
明治28年に、この渦巻き型の蚊取り線香が発売されて以降100年以上のベストセラーとなったために、たいていの日本人は、あの独特の香りのするお香しか思い浮かべられないかもしれない。

そのような声があることも覚悟の上で、西粟倉・森の学校のコーポレートシンボルとブランドアイデンティティにあえてこの渦巻き文様を使うことを提案させていただいた。

この文様はそもそも、とあるご縁からお付き合いさせていただいている、京都で唯一の手仕事による唐紙を作られている唐長さんのサロンで見つけたものだ。その後2010年の始めに、西粟倉村に初めて行ったのち、プロデューサーである牧さんのお話を伺っていく中で、そのあまりに力強い、原型そのものといえる形を使うに相応しい仕事であると確信した。基本的には普遍的にアジアでもヨーロッパでも古代から使われている文様として存在している渦巻きだが、唐長さんにインスパイアされてこのようなかたちになっていることは、明言しておきたい。

なので、僕自身が造形を生み出したわけでもないし、デザイナーと名乗れたものではないと常々思っている。西粟倉村の、本当に持続可能な地域作りの認知のために、バトンタッチをする手助けをさせていただいた。ということなのであって、デザイナーというよりは、編集者のようなものだなぁと改めて思い、その根源は自然そのものの造形にあるのです。

その渦巻き文様のロゴの意図を、はっくりくっきり言語化されている一節を今日たまたま見つけてちょっと嬉しかったので、そのまま下記に転載いたします。

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遺伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収に繋がらず、臓器移植はいまだ決定的に有効と言えるほどの延命治療となっていない。こうした事例は動的な平衝系としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように思えてならない。平衡状態にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているように見えて、結局は平衡系に負荷を与え、流れを乱すことに帰納する。

エントロピー増大の法則。エントロピーとは「乱雑さ」の尺度で、錆びる、乾く、壊れる、失われる、散らばることと同義語と考えてよい。秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可避的に進み、その秩序はやがて失われていく。すべては磨耗し、酸化し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピーは常に増大するのである。生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまり「動的平衡」である。個体の死。その時には既に自転者操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。

私たちは今、あまりにも機械論的な自然観、生命観の内に取り囲まれている。そこではインプットを二倍に増やせば、アウトプットも二倍になるという線形的な比例関係で世界を制御することが至上命題となる。その結果、わたしたちは常に右肩上がりの効率を求め、加速し、直線的に進まされる。それが、ある種の閉塞状況を生み、様々な問題をもたらした。いま私たちは反省期に至りつつあることもまた事実である。私たちは線形性の幻想に疲れ、より自然なあり方に回帰しつつある。そこでは、効率よりも質感が求められ、加速は等身大の速度まで減速され、直線性は循環性に置き換えられる。

自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目。そして私たちが住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不可思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一著 より

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西粟倉・森の学校
http://www.nishihour.jp/gakko/

世界を駆け巡ってきた文様であるからこそ、普遍性があり、今見ても新しく見えて、美しい。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=635

唐長サルヤマサロン
http://tamachan.jugem.jp/?eid=602
| - | 22:00 | comments(0) | - |
人間性の未来に対する、50年の相剋の歴史
こういう知識ってぜんぜん技術的な話ではなく、一つの思想が半世紀をかけて生まれてきた歴史として今や既に常識だと思っていたんだけれど、案外知らない人が多い。いままでインターネットとITはやたらといっしょくたにされて、技術的な側面ばっかりが強調され、誤解されまくってきた。いまだにそれは変わらない。けれどでもそれではそろそろまずい。コンピュータが使いこなせることが大事なんじゃなくて、個人と個人がネットワークされて、そこでどういうことができるようになるかを想像することが大事なのであって。その上で、なんでもかんでもデジタル化することが大事なんじゃなくて、人間性の本質に立ち返るためにデジタルがあるっていうことが大事なんだ。そのあたりを勘違いしている人が多すぎて、多すぎて。わからないとかで済まされる時代は終わったんだよ〜。無知ではもう済まされない。


下記の年表は、日本とアメリカのインターネットとコンピュータと、新しいメディアが生まれるまで。ある意味では、人が人であろうとするための人間性と向き合ってきた歴史だとも言えるだろうし、トフラー的に言えば「第三の波」を生み出してきた歴史である。

前提として。
15世紀ヨーロッパで起きたグーテンベルクによる活版印刷技術によって、当時ラテン語でしか写本されていなかったキリスト教の聖書を「大量に」印刷できるようにした。それを一、地方言語に過ぎなかったドイツ語に翻訳して出版したマルティン・ルターによって宗教改革が起こり、ローマ・カトリックからプロテスタントが派生し、ひいてはフランスで市民革命が起こるに至る。そのように15世紀の活版印刷技術に対応するものが、20世紀のインターネットだっていうのは、ずいぶん前から言われていることである。


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1964年
文明批評家マーシャル・マクルーハンが「ホット」と「クール」なメディアという分類や、「メディアはメッセージである」というテレビメディア論、グローバルヴィレッジ(地球村)のような分析・視点を著書「メディア論」の中で展開した。

1967年
評論家の竹村健一によってマーシャル・マクルーハンの解説本が出て、日本にマクルーハンが初めて紹介される。

1968年
アラン・ケイが、まだ大型のメインフレームコンピュータしか存在しなかった時代に、個人の活動を支援する「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱した。

1968年てのは、それ以前とそれ以後でだいぶ変わってくる。それまでは社会があって個人があったんでしょうね。期せずしてアランケイがパーソナルコンピュータを発表したのが1968年だったんですね。人間てなんなんだ。ってのが全部ばれちゃった時期だと思うんですね。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=167

1969年
米国内への核攻撃に対する軍事ネットワークの分散のために自律分散協調をコンセプトとした「ARPANET」が開発され、インターネットの原型となる。1990年以降、ARPANETが商用事業化され、インターネットと呼ばれるようになる。

慶應義塾大学理工学部に相磯秀夫研究室が設立される。相磯研から1969年に「ソニーコンピュータサイエンス研究所」を作った所真理雄が。1973年に「ユビキタス・コンピューティング」の坂村健が。1979年に「日本のインターネットの父」と言われる村井純が。1982年には「ウェブ進化論」の梅田望夫がそれぞれ在籍していた。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=595

1970年
ゼロックス・パロアルト研究所の設立。イーサネット(LAN)、レーザープリンター、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)等、現在のコンピュータの基礎がここで生み出される

大阪万博はテレビ時代の博覧会になるので、通産省は、当時非常に高名だったマクルーハンの弟子達にみてもらわなければならないということで、日本政府は調査費用として三億円を計上する。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=54

1974年
世界初のパーソナルコンピュータ「Altair 8800」が発売される。一般消費者向けに販売された世界初の個人向けコンピュータ。当時まだコンピュータは、巨大で高価かつ貴重な演算資源を個人が所有し占有することは、経済的に困難と考えられていた。

1979年
スティーブ・ジョブズが「ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件」としてパロアルト研究所を見学し、マウスとグラフィカルユーザインタフェース(GUI)が前提として動く研究段階のコンピュータ「Alto」に衝撃を受ける。これに影響を受けて1984年にMacintoshを発売するに至る。

1981年
未来学者アルビン・トフラーが「第三の波」出版。プロシューマーの出現を予言する。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=561

1984年
アップル・コンピュータがMacintoshを発売。発売を予告するCM「1984」は、全体主義的な未来像に挑戦状を叩きつけている内容で、そのカゲには巨人IBMの姿が見え隠れしており、その過激な内容と映像が全米の話題となった。

村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され日本におけるインターネットの起源となる。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=399

1990年
ティム・バーナーズ=リーによって、World Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの開設。80年代終焉、明治以来の工業化=物的大量生産の時代が終わり、「脱工業化社会」「第三の波」「知価社会」を模索する中設立され「未来からの留学生」というコンセプトが生まれる。相磯秀夫が初代環境情報学部長に就任する。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=631

1995年
Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がかかる。

2000年
ITバブルによって、急速に資金が雪崩れ込んだために、インターネットは従来型のメディア構造の波に飲み込まれ、マスメディアの延長線上とそう変わらない位置付けに矮小化されていく。すべては資本主義の渦に組みこまれていくかのように見えた。

物理世界とバーチャル世界の新たな関係性を説いた論文「アトムからビットへのパラダイム転換の諸考察」が情報文化学会で発表される
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001882411

2003年
スタンフォード大学のローレンス・レッシグ教授によってクリエイティブ・コモンズ誕生。従来の産業を保護するために極端に作り替えられた著作権法に対して、一石が投じられる。知的所有権のスタンスを表明するという概念が生まれる。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=5

2006年
ネットは新聞を殺すのか?西暦2014年、グーグルとアマゾンが合併し、グーグルゾンが生まれるという映像。「EPIC2014」が話題になる。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=339

Googleが脳に変わる日
http://tamachan.jugem.jp/?eid=85

2010年
新聞社、出版社の淘汰、改革が始まる。日本において、年間のインターネットの広告費が遂にテレビの広告費に迫る。従来のメディア構造が雪崩を打って崩壊し始めた記念すべき年。

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以上の歴史をふまえた上で、下記の文章を読むと世界がどう変化していくのか、という方向性の一端がうっすら垣間見えるような気がするのです。

デジタルメディアの出現は、地球の生命史における4番目の跳躍だ。竹村真一氏に聞く。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=193

そして、それらをほぼ共有した人たちで雑談していたわけだ。
http://tamachan.jugem.jp/?eid=662
| 情報デザイン・メディアデザイン | 03:11 | comments(0) | - |
写真から見た八丈島
八丈島は、地域の危機の度合いとしては正直ぬるま湯だと感じた。しかしそれなりにも危機感はあって、もともと井上英之さんが、ANAの特割の一件(羽田空港-八丈島路線について、2005年10月から「特割1」が設定され、実質値下げとなった。ただし、継続には2005年10月から2006年3月までの搭乗者が前年度実績より10%(1万人)上回ることを条件としており、実現しなければ2006年4月から2005年9月以前の運賃に戻すとしていた - wikipediaの対応策を相談されたことがきっかけで井上研が合宿で島にやってくることになった。そのときに学部生だった柳明菜が「この島を盛り上げるためにあなたはどうしますか?」というゼミ合宿の課題に対して「私、ここで映画を撮ります!」と宣言して映画の撮影が始まった。その映画「今日という日が最後なら」のラストシーンで八丈島にお祭りをつくろう!と言い出したことがきっかけで、この島にかつてあった祭りが復活した。その4回目の開催に合わせてみんなで島に集まろう。というのが今回の趣旨だったらしい。ようやく納得。

ぬるま湯な感じ。というとネガティブなように受け取られるかもしれないけれど、なんだかとてももったいないのである。東京都下でお金が入ってくる上に、過疎化高齢化もそんなに深刻にはなっていない状態。だから危機感のようなものはあまり見あたらなかった。それよりも世界はもっともっと広いんだなってことに対して、リアリティを持った感じ。これはちょっと小笠原っていう所に竹芝桟橋から26時間かけて行ってみなくては。あんなとこ日本にまだあったんだね。新聞毎日読めないし、船の入港前日にはお店に品物がなくなってしまう。笑。滑走路もつくれないから飛行機が飛んで来れない。ってことはきっとなにかありそう、って直感が言ってます。



www.flickr.com|2010.05.02 - 06 八丈島
http://www.flickr.com/photos/25410558@N05/sets/72157623884652231/

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2010.02.11 慶應義塾大学 井上英之研究会にて
http://tamachan.jugem.jp/?eid=658

2009.05.09 六館堂と映画監督 柳明菜
http://tamachan.jugem.jp/?eid=550

「今日という日が最後なら」八丈島映画応援団
http://8jo.jugem.jp/
| real japan travels | 13:01 | comments(1) | - |
植生から見た八丈島
八丈島に上陸すると空気が甘い。九州、沖縄、東南アジアともちょっと違った、甘ぁーい空気が漂ってきます。その臭いを発している植物の写真を撮っているだけでも楽しい。

この島の主要産業は、まさにこの植物、とくに花なのだ。ストレチア(Z軸で左上から3番目)トケイソウ(同1番目と12番目)は都内の花屋さんでもけっこうお見かけする。特に島の木にも指定されているフェニックス・ロベリニー(同2番目のヤシみたいなもの)は、この島の主力商品で、観葉植物として出荷されている。この木が島中の畑にグリッドで田んぼの稲のように栽培されているのだ。かつては1本1万円の値段で売れたこの木は、その後価格が暴落し、現在では観光と植物を中心とした特産品産業の複合がこの島の産業構成である。

しかし、植物の造形というものには抗しがたい魅力がある。なぜなら絶対に人間が作り出すことができないからだ。昆虫に魅せられた学者さんも、デザイナーさんも、このあたりに根源があったりする。何故、気温の変化でこうも鮮やかかつダイナミックな造形になるのだろうか?かくして南方の世界に対する世界の謎がまた一つ増えたのでした。



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地図から見た八丈島
http://tamachan.jugem.jp/?eid=677
| real japan travels | 12:37 | comments(3) | - |