tamalog

Output and input from 1998 to 2010
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ニセ神童からの脱出 箭内道彦
最近のもっぱらの興味は「ひと」かもしれない。ということに気がついた日。「ひと」っていうカテゴリを作ってみた。あれからずっと自分が無いから人に語ることができないけれど、ないならないで、聞きだしたり、興味を持ったりしたらいいんだ。っていうのは僕的には大発見なことなのです。

箭内道彦(やないみちひこ)。TOWER RECORD「NO MUSIC, NO LIFE」や資生堂「UNO」のCMを作ったCMディレクター。ぶっちゃけこのひとの広告のクリエイティブワークには一切興味がなかったけれど。経歴と文章は面白い。

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僕の実家は福島県郡山市。「お菓子のデパート」という小さく貧しいお菓子屋兼牛乳屋(のちに負債を抱えて廃業)でした。僕は幼少のころから日々家業をよく手伝うなかなか感心な少年でした。(現在のワーカホリックは、哀しいかなその時分からのものです。)
 小学校1年のある夏の日曜。丸1日びっしりと家業の手伝いに汗した僕は、ぐったりと疲れ果て、宿題の読書感想文を書かずに、夕食後、泥のように眠ってしまいました。まったく過保護ではない、どちらかといえば逆の家庭でしたが、早朝から夕刻まで一日中家業を手伝わせた息子を不憫に思ったのか、母親がその晩宿題の作文を代筆しました。翌朝起きてその文章を僕が中身もろくに読まずに清書して学校に提出したのです。ほんの軽い気持ちでした。
 しかし、想定の範囲外のことが起きました。その作文は先生方に絶賛され市のコンクールに出品されて最優秀賞をとってしまいました。考えると当たり前ですよね、大人が喜びそうなものも大人が書いたんだから。立派な賞状と盾を全校児童の前で校長先生から受け取りました。天才的文章力を持つ神童の出現でした。
 そこから始まった苦悩の歳月。だけどもう後戻りできません。小学校1年、2年、3年、4年ーーと、僕のすべての作品の筆者は、母である箭内伸子でした。そうしてニセ神童は、とにかく作文の賞という賞をかたっぱしからとり続けたのです。「こりゃまずい」と思いながらもどうしようもない代筆スパイラル。もらった数々の賞状が嫌でした。部屋(家族4人で8畳一間風呂なし)の隅に無造作に転がっていました。当然母親にも少なからず罪悪感はあったはずですが、自分の書いたものが次々と賞をとっていくという希有な体験にむしろはまっているようでした。あたかも子どもが書いたかのように文体や視点を巧みにチューニングしていくスリル。金賞を逃すと「ちっ、銀か・・・・・・」などと悔しがっていました。

 すべてが順調と思えたある日、事件は起こりました。小学5年のとき、授業時間内で作文を一つ書き上げるという国語の授業。地獄でした。学校で作文なんて書けるわけがありません。小学1年の夏以来、僕は作文を書くことはおろか、文章表現に関する何の技術の訓練や習得もしていないのです。しかも、クラスのみんなは僕の秀逸なる新作を楽しみにしています。
 「どーすっぺ!ばれっちまあ(どうしよう!すべてがばれてしまう!)」
 1文字も書けないまま時間だけが過ぎていきます。いまだにあれほど長く感じた1時間はありません。吐き気とめまいに襲われ、聞こえるのはクラスメートの鉛筆のカリカリと走る音。滴り落ちる脂汗で僕の原稿用紙はびしょびしょにふやけました。
 「どーすっぺ!どーすっぺ!どーすっぺ!(ああ、どうしたらいいんだ!!!)」
 とうとう授業のチャイムが鳴ります。担任の先生が見回ってきます。万事休す。そのとき、真っ白な原稿用紙を見つめ続ける僕を覗き込んで先生が言いました。
 「やっぱ天才はちがわなあ!(おお、やっぱり違うね!天才は!)。イメージがわがねときだってあっぺ!(イメージが湧かないときもあるよな!)」
 助かった・・・・・・。
 奇跡的にバレずに済んだ僕は、家で書いて翌日提出することを特例的に許され胸をなで下ろしながら帰宅し、さっそく母親が代筆。それを翌朝僕が子供の字に直して学校に持っていき事なきを得ました。もちろん先生はいつものようにその作文をみんなの前でとても褒めてくれました。

 この日を境に僕は変わりました(というか我に返りました)。このままでは間違いなくいつかばれる。それはもう時間の問題だ。自分の力で書かなければ!とはいえ4年半のハンデはあまりにも大きい。何年もの代筆でその間まったく作文を書いていない。すぐに自力による作文を出したら出来は歴然、間違いなくいままでの嘘がばれる。それからは常に同時に2つの作文を用意しました。
 1つは代筆。もう1つは自筆。そして相変わらず代筆バージョンを提出しました。だけど僕は、必死に書き続けました。決して外に出ることのない誰も読まない文章を。そして小学6年の夏、ついに自筆バージョンに差し替えることにしました。自分の書いた作文を思い切って提出したのです。
 心臓がやぶけそうでした。評価はイマイチでしたが差し替えは誰にもバレていないようでした。いままでのような華々しい賞はとれませんでしたが、校内の末等佳作にかろうじて引っかかりました。その日で長い長い代筆の歴史偽りの日々は終わりました。言いようのない清清しい達成感と安堵に包まれました。
 30年前の話です。完全犯罪はさすがにもう時効だとは思いますが、担任だった岩淵先生、本当にごめんなさい!僕はダメな子供でした。
 そんな自分が、こうして「書評」を書く日が来るなんて(映画評は書いたことありましたが)。あらためてその深い感慨に浸り溺れていたら、前置きが長すぎて肝心の書評の文字数が足りなくなっていました!

ASCII出版「クリエイティブ合気道」より
| ひと | 19:47 | comments(2) | - |
「社長」吉本龍司 インタビュー


社長っていってもサステナの社長とかそういう話ではなくて、もう四年くらい前にSFCで出会って以来ずっと一緒に仕事をしている友達なんだけども、だいたいが有名大企業への就職か海外への留学という進路をとる人たちの中で、彼は僕が知っている限り大学を卒業して地元に帰り、一軒家を新築し、文字通り「故郷に錦を飾った」唯一の人だ。そんな彼がどうしてそういう進路を決めたのか。最初はその進路がまったくもって意味不明だと思っていた。なんだかんだでちょくちょく東京には来ている彼だけれども、なにが「本当の幸せ」なのか、よくわかってる人だなあと思う。

ともゑ 社長はなんで社長なんですか?
社長  社長だからです。
ともゑ 会社は何人くらいなんですか?
社長  1人です。
ともゑ どんな仕事をしているんですか?
社長  今住んでいる中津川市から受注し、市の防災システムを
    開発・運営してます。古くなってきたからそろそろ作りかえなくちゃ。
    あとは中津川市の地域プロバイタの会社のインフラの面倒をみたり。
ともゑ 市から受注してるんですね。富●通とかでかいITゼネコンが
    開発してるのかと思ったけど、中津川市も結構かしこいですね。
社長  もちろんやつらは莫大なお金で請け負ってるよ。
    公共事業に投資すると世論に叩かれるから、
    最近は行政は公共事業のかわりにIT投資して
    お金の無駄づかいをしてるからね。
ともゑ そうだったんですね。確かにやつらは簡単な案件にも莫大な作業工数を
    見積もってお金をうばっていきますからね。
社長  そうそう。そんでわかんないことがあると
    僕みたいなところにくることがあって、
    1時間くらい遊んであげると、それが1日の作業工数として見積もられる。
    行政にはもっともっと別のお金の使い道があると思うよ。
ともゑ クライアントは中津川市の行政や会社が多いんですね。
社長  いや、圧倒的に東京が多い。東京ではITコンサルに対して、
    新技術の紹介とそれを使ってどんなことができるかって遊び方を
    提案することが多い。まさに趣味だね。
ともゑ ふ〜ん。
社長  富●通、N●Cらゼネコンよりは、
    ライブドアの方がよっぽど技術的に世界に通用すると思うよ。
ともゑ 世界的な視点か〜。
社長  最近ソフトウェアを買うときは、ロシアからのお買い物が多いよ。
ともゑ ロシア? どうやって買うの!?
社長  ドルでクレジットか電子マネー。英語でいけるよ。
ともゑ ってゆうか、ソフトウェア買うならとかインドの方がいいのでは?
社長  ロシアが共産圏っていうのがポイントだね。
    インドは日本と一緒でアメリカの植民地だからね。
    アウトプットが最終的にアメリカに吸い取られるので、著作権がうるさい。
    ロシアはマイクロソフトみたいに独占して利潤を追求しようって
    いう文化が根本的にないから、商業目的に利用する相手にも
    けっこうオープンなんだ。最近意外とIT拠点になってきてるしね。
ともゑ 社長から見て、日本のIT業界をどう思いますか?
社長  さっきあげたようなITゼネコンが日本のガンだね。
    有能な人がたくさんいるのに、その能力を殺してしまっている。
    資料作りとか管理とかのつまんない仕事と、
    業界全体に敷いたゼネコンのような体制で。
    これでは効率的でイノベーティブな仕事が評価されない。
    ITの“匠”つまりスペシャリストが育たない。
    有能な友人はみなシリコンバレーに行ってるよ。
ともゑ へ〜え。社長はSFC(慶應大学湘南藤沢キャンパス)卒ですが、
    中津川市で高校時代を送ってたときはさぞや優等生だったんでしょうね。
社長  いや、ぜんぜん勉強しない子だった。再試とかよく受けてたし。
    大学行くつもりなかったんだけど、会社をつくるならかわりに
    大学に行けと親に言われ。一般入試だったら確実に落ちてただろうな。
    そのころ作ってたソフトウェアを売ってほしいという話もあって、
    会社作ってそれをAO入試(アドミッションズオフィス入試:一芸入試)
    のネタにしてすべりこんだ。
ともゑ はあ〜。高校のときに社長だったから社長というあだ名になったんだ。

インタビューア:水谷ともゑ
転載元:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=682000015&owner_id=1964805
| ひと | 23:31 | comments(0) | - |